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7/9

2-3 宿が一晩だけ息を吹き返す

 風呂から上がったあと、アルトは少しだけ後悔した。

 湯はよかった。

 かなりよかった。

 だが、湯がよかった分だけ、廊下の寒さが目立った。

 脱衣所は結界で温めた。浴場も保温してある。そこから一歩出た途端、廊下のすきま風が足元を撫でていった。

 冷たい。

 湯上がりには、よくない。

 アルトは濡れた髪を手で雑に拭きながら、廊下を見た。

 板張りの廊下。

 古い柱。

 壁の隙間。

 窓枠の歪み。

 足元から上がる冷気。

 建物そのものは悪くない。古いが、骨はしっかりしている。ただ、あちこちから熱が逃げている。人間で言えば、外套に穴が空いているような状態だった。

「寒いな」

 言うと、どこからかコハルの声が飛んできた。

「すみません!」

「どこにいるんだ」

「帳場です!」

「声が通るな」

「宿が空いているので!」

 誇るところではない。

 アルトは客室へ戻ろうとして、足を止めた。

 廊下の角に、古い魔導管が通っている。水を引くための管だろう。表面に霜がついていた。凍結しかけている。これが破裂すれば、明日の朝はさらに面倒なことになる。

 アルトは指を振った。

 魔導管の周囲に薄い結界を張る。

 冷気を遮り、中の水流だけを保つ。

 それだけのつもりだった。

 だが、歩き出すと、次が見えた。

 窓枠の隙間。

 そこから風が入っている。

 アルトは風の流れを曲げる。

 廊下の床。

 石の土台から冷えが上がっている。

 アルトは床下に熱遮断の層を置く。

 客室の戸。

 立てつけが悪く、隙間から冷気が漏れている。

 アルトは戸口に薄い膜を張る。

 階段の上。

 屋根に積もった雪が、危ない角度で張り出している。

 今すぐ落ちるほどではないが、夜中にまとめて落ちれば雨樋が壊れる。

 アルトは雪の下に、重さを逃がす結界を差し込んだ。

 ゆっくり。

 人のいない裏庭側へ。

 音を立てないように滑らせる。

 屋根の上で、雪が小さく動いた。

 どさ、と遠くで鈍い音がする。

「今の音、何ですか!?」

 帳場からコハルの声。

「雪だ」

「屋根が落ちました!?」

「雪だけだ」

「よかったです! 屋根は大事なので!」

「知っている」

 客室へ戻る途中、厨房が見えた。

 戸が少し開いている。中には古いかまどと調理台があった。灰が残っているが、もう火は落ちている。熱が全部逃げてしまっていた。

 明日の朝、ここに火を入れるのは時間がかかるだろう。

 アルトは、かまどの奥に残ったわずかな余熱を囲った。

 火をつけるのではない。

 熱を残すだけだ。

 ついでに、薪棚の湿気を少し抜く。

 濡れた薪は燃えにくい。燃えにくい薪は時間を食う。時間を食うと朝食が遅れる。朝食が遅れると、コハルが廊下を走る。走ると転ぶ。転ぶと備品が壊れる。

 そこまで想像して、アルトは薪棚にも結界を張った。

 食材保存庫の前も通った。

 戸の隙間から冷気が漏れている。中を覗くと、饅頭用の餡が入った壺と、芋、漬物の樽があった。寒すぎる。凍る寸前だ。

 アルトは保存庫の温度を一定にした。

 凍らない。

 腐らない。

 乾きすぎない。

 湿りすぎない。

 簡単な結界だった。

 彼にとっては。

「……何をしているんですか?」

 背後から声がした。

 振り向くと、コハルがいた。

 帳場から出てきたらしい。手に帳簿を抱えている。耳が不審そうに動いていた。

「寝る準備」

「保存庫の前で?」

「寒かったので」

「保存庫が?」

「廊下が」

「廊下が寒いと、保存庫に結界を張るんですか?」

「ついでだ」

 コハルは黙った。

 それから、保存庫の戸に手を当てる。

「あれ。冷たすぎない」

「凍ると困るだろ」

「困ります。すごく困ります。餡が凍ると、温泉饅頭が終わります」

「なら、よかった」

 コハルは壺を見た。

 次に薪棚を見た。

 廊下を見た。

 窓を見た。

 それから、アルトを見た。

「アルトさん」

「何だ」

「今、宿が便利になってません?」

「少しだけだ」

「少しだけの規模が、さっきからおかしいです」

 アルトは首をかしげた。

 大したことはしていない。

 熱を逃がさない。

 冷気を入れない。

 湿気を整える。

 雪を落とす。

 全部、寝る前にできる程度のことだ。

「これで寝られる」

「お客様が宿の保守をしてから寝ようとしています」

「寒いと眠れない」

「理由が個人的です!」

「個人的な問題は大事だ」

 コハルは言い返そうとして、やめた。

 何かを考え込むように、廊下を見回す。

 古い宿。

 寒かった宿。

 お湯のぬるかった宿。

 客が来ても帰ってしまった宿。

 その宿の空気が、少しだけ変わっている。

 まだ劇的ではない。

 壁も床も古いままだ。

 家具も増えていない。

 客もいない。

 だが、冷え方が違った。

 宿が、もう自分は死にかけていないと、ゆっくり言い始めたようだった。

「……ありがとうございます」

 コハルは小さく言った。

 アルトは少し困った。

「礼を言われるほどではない」

「でも、うちは今、寒くないので」

「完全には暖かくない」

「昨日よりは、ずっと暖かいです」

 コハルは笑った。

 今度は騒がしくなかった。

 アルトは視線を逸らした。

「寝る」

「はい。お布団、完成してます」

「完成していなかったのか」

「乾燥が間に合いました」

「完成という表現はやめた方がいい」

「検討します」

 客室に戻ると、布団は確かに少しましになっていた。湿気はあるが、不快ではない。アルトは部屋の隅にも薄い結界を張った。

 冷気を止める。

 火鉢の熱を逃がさない。

 布団の中の温度を保つ。

 それだけして、横になる。

 すぐに眠気が来た。

 深い眠気だった。

 魔王城の硬い寝台でも、前線基地の簡易寝台でも、荷馬車の毛皮の上でもない。古い温泉宿の、少し湿った布団。

 完璧ではない。

 だが、悪くなかった。

 アルトは目を閉じた。

 その夜、八百万亭は静かだった。

 吹雪は続いていた。

 屋根に雪が積もり、風が窓を叩いた。

 だが、宿の中には冷気が入りにくくなっていた。廊下の床は前ほど冷たくない。魔導管は凍らない。厨房のかまどには、消えたはずの余熱が残り続けている。保存庫の餡は凍らず、薪棚の薪は少しずつ湿気を失っていく。

 古い宿は、一晩だけ息を吹き返した。

 翌朝。

 最初に異変に気づいたのは、コハルだった。

 彼女はいつものように、寒さで目を覚まさなかった。

 その時点で、すでにおかしかった。

「……あれ?」

 布団から起き上がる。

 部屋が寒くない。

 もちろん春のように暖かいわけではない。だが、鼻の先が痛くならない。息が白くならない。寝間着の上から外套を羽織らなくても、廊下へ出られる。

 廊下に出る。

 床が冷たすぎない。

「えっ」

 コハルは素足で廊下を一歩進み、また一歩戻った。

 もう一度進む。

 やはり冷たくない。

「えっ?」

 厨房へ走る。

 かまどに火を入れると、いつもよりずっと早く火がついた。薪が乾いている。かまどの奥にも、わずかな余熱が残っている。

「ええっ?」

 保存庫へ行く。

 温泉饅頭用の餡が凍っていない。むしろ、ちょうどよい硬さを保っている。漬物の樽も無事。芋も傷んでいない。

「えええっ?」

 浴場へ走る。

 湯気が立っている。

 昨夜の湯が、冷めていない。

 湯面は静かで、白い湯気がゆっくり上がっている。まるで、ずっと昔からこうだったと言いたげに。

 コハルは浴場の入口で固まった。

 それから、帳場へ戻った。

 帳簿を開く。

 薪代の欄を見る。

 浴場の加温費を見る。

 保存庫の損耗を見る。

 冬季休業危機、と書かれた自分のメモを見る。

 そして、震えた。

「これは……宿泊業の革命では?」

 その時、客室の戸が開いた。

 アルトが出てくる。

 髪は寝癖のまま。顔は眠そう。昨日よりは少しだけ血色がいい。

「朝飯は」

「今、それどころではありません!」

「俺はそれどころだ」

「大事件です!」

「火事か」

「違います! 宿が寒くありません!」

「いいことだな」

「いいことです! 大げさに言うと、世界が変わりました!」

「大げさだ」

「大げさじゃありません!」

 コハルは両手を握った。

「昨日までうちは、冷蔵庫に人が泊まってるみたいな宿でした!」

「自覚はあったのか」

「ありました! ありましたけど、言葉にすると悲しいので黙っていました!」

「今言ったな」

「今は言えます! なぜなら寒くないので!」

 勢いがすごい。

 アルトは厨房の方を見た。

「飯」

「作ります! すぐ作ります! 火もすぐつくので!」

 コハルは駆け出した。

 そして廊下の途中で振り返る。

「アルトさん!」

「何だ」

「宿代、いりません!」

「急だな」

「食事も出します!」

「助かる」

「温泉も入り放題です!」

 アルトは少し動きを止めた。

「入り放題」

「はい!」

「毎日か」

「毎日です!」

「朝も」

「朝もです!」

「夜も」

「夜もです!」

 アルトは考えた。

 温泉入り放題。

 それは、かなり強い条件だった。

 コハルは耳を立て、勝負師の顔をしている。

「だから、しばらくうちにいてください」

 宿の奥から、湯気の匂いが流れてきた。

 アルトは、少しだけ眉を寄せた。

 面倒なことになる。

 それはもう、ほとんど確定している。

 だが、温泉入り放題。

 かなり強い。

「……しばらくなら」

 コハルの顔が、一気に明るくなった。

「本当ですか!」

「朝飯次第で」

「全力で作ります!」

 コハルは厨房へ飛び込んでいった。

 すぐに、かまどに火がつく音がした。

 八百万亭の朝が、昨日より少しだけ早く動き始めた。


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