2-3 宿が一晩だけ息を吹き返す
風呂から上がったあと、アルトは少しだけ後悔した。
湯はよかった。
かなりよかった。
だが、湯がよかった分だけ、廊下の寒さが目立った。
脱衣所は結界で温めた。浴場も保温してある。そこから一歩出た途端、廊下のすきま風が足元を撫でていった。
冷たい。
湯上がりには、よくない。
アルトは濡れた髪を手で雑に拭きながら、廊下を見た。
板張りの廊下。
古い柱。
壁の隙間。
窓枠の歪み。
足元から上がる冷気。
建物そのものは悪くない。古いが、骨はしっかりしている。ただ、あちこちから熱が逃げている。人間で言えば、外套に穴が空いているような状態だった。
「寒いな」
言うと、どこからかコハルの声が飛んできた。
「すみません!」
「どこにいるんだ」
「帳場です!」
「声が通るな」
「宿が空いているので!」
誇るところではない。
アルトは客室へ戻ろうとして、足を止めた。
廊下の角に、古い魔導管が通っている。水を引くための管だろう。表面に霜がついていた。凍結しかけている。これが破裂すれば、明日の朝はさらに面倒なことになる。
アルトは指を振った。
魔導管の周囲に薄い結界を張る。
冷気を遮り、中の水流だけを保つ。
それだけのつもりだった。
だが、歩き出すと、次が見えた。
窓枠の隙間。
そこから風が入っている。
アルトは風の流れを曲げる。
廊下の床。
石の土台から冷えが上がっている。
アルトは床下に熱遮断の層を置く。
客室の戸。
立てつけが悪く、隙間から冷気が漏れている。
アルトは戸口に薄い膜を張る。
階段の上。
屋根に積もった雪が、危ない角度で張り出している。
今すぐ落ちるほどではないが、夜中にまとめて落ちれば雨樋が壊れる。
アルトは雪の下に、重さを逃がす結界を差し込んだ。
ゆっくり。
人のいない裏庭側へ。
音を立てないように滑らせる。
屋根の上で、雪が小さく動いた。
どさ、と遠くで鈍い音がする。
「今の音、何ですか!?」
帳場からコハルの声。
「雪だ」
「屋根が落ちました!?」
「雪だけだ」
「よかったです! 屋根は大事なので!」
「知っている」
客室へ戻る途中、厨房が見えた。
戸が少し開いている。中には古いかまどと調理台があった。灰が残っているが、もう火は落ちている。熱が全部逃げてしまっていた。
明日の朝、ここに火を入れるのは時間がかかるだろう。
アルトは、かまどの奥に残ったわずかな余熱を囲った。
火をつけるのではない。
熱を残すだけだ。
ついでに、薪棚の湿気を少し抜く。
濡れた薪は燃えにくい。燃えにくい薪は時間を食う。時間を食うと朝食が遅れる。朝食が遅れると、コハルが廊下を走る。走ると転ぶ。転ぶと備品が壊れる。
そこまで想像して、アルトは薪棚にも結界を張った。
食材保存庫の前も通った。
戸の隙間から冷気が漏れている。中を覗くと、饅頭用の餡が入った壺と、芋、漬物の樽があった。寒すぎる。凍る寸前だ。
アルトは保存庫の温度を一定にした。
凍らない。
腐らない。
乾きすぎない。
湿りすぎない。
簡単な結界だった。
彼にとっては。
「……何をしているんですか?」
背後から声がした。
振り向くと、コハルがいた。
帳場から出てきたらしい。手に帳簿を抱えている。耳が不審そうに動いていた。
「寝る準備」
「保存庫の前で?」
「寒かったので」
「保存庫が?」
「廊下が」
「廊下が寒いと、保存庫に結界を張るんですか?」
「ついでだ」
コハルは黙った。
それから、保存庫の戸に手を当てる。
「あれ。冷たすぎない」
「凍ると困るだろ」
「困ります。すごく困ります。餡が凍ると、温泉饅頭が終わります」
「なら、よかった」
コハルは壺を見た。
次に薪棚を見た。
廊下を見た。
窓を見た。
それから、アルトを見た。
「アルトさん」
「何だ」
「今、宿が便利になってません?」
「少しだけだ」
「少しだけの規模が、さっきからおかしいです」
アルトは首をかしげた。
大したことはしていない。
熱を逃がさない。
冷気を入れない。
湿気を整える。
雪を落とす。
全部、寝る前にできる程度のことだ。
「これで寝られる」
「お客様が宿の保守をしてから寝ようとしています」
「寒いと眠れない」
「理由が個人的です!」
「個人的な問題は大事だ」
コハルは言い返そうとして、やめた。
何かを考え込むように、廊下を見回す。
古い宿。
寒かった宿。
お湯のぬるかった宿。
客が来ても帰ってしまった宿。
その宿の空気が、少しだけ変わっている。
まだ劇的ではない。
壁も床も古いままだ。
家具も増えていない。
客もいない。
だが、冷え方が違った。
宿が、もう自分は死にかけていないと、ゆっくり言い始めたようだった。
「……ありがとうございます」
コハルは小さく言った。
アルトは少し困った。
「礼を言われるほどではない」
「でも、うちは今、寒くないので」
「完全には暖かくない」
「昨日よりは、ずっと暖かいです」
コハルは笑った。
今度は騒がしくなかった。
アルトは視線を逸らした。
「寝る」
「はい。お布団、完成してます」
「完成していなかったのか」
「乾燥が間に合いました」
「完成という表現はやめた方がいい」
「検討します」
客室に戻ると、布団は確かに少しましになっていた。湿気はあるが、不快ではない。アルトは部屋の隅にも薄い結界を張った。
冷気を止める。
火鉢の熱を逃がさない。
布団の中の温度を保つ。
それだけして、横になる。
すぐに眠気が来た。
深い眠気だった。
魔王城の硬い寝台でも、前線基地の簡易寝台でも、荷馬車の毛皮の上でもない。古い温泉宿の、少し湿った布団。
完璧ではない。
だが、悪くなかった。
アルトは目を閉じた。
その夜、八百万亭は静かだった。
吹雪は続いていた。
屋根に雪が積もり、風が窓を叩いた。
だが、宿の中には冷気が入りにくくなっていた。廊下の床は前ほど冷たくない。魔導管は凍らない。厨房のかまどには、消えたはずの余熱が残り続けている。保存庫の餡は凍らず、薪棚の薪は少しずつ湿気を失っていく。
古い宿は、一晩だけ息を吹き返した。
翌朝。
最初に異変に気づいたのは、コハルだった。
彼女はいつものように、寒さで目を覚まさなかった。
その時点で、すでにおかしかった。
「……あれ?」
布団から起き上がる。
部屋が寒くない。
もちろん春のように暖かいわけではない。だが、鼻の先が痛くならない。息が白くならない。寝間着の上から外套を羽織らなくても、廊下へ出られる。
廊下に出る。
床が冷たすぎない。
「えっ」
コハルは素足で廊下を一歩進み、また一歩戻った。
もう一度進む。
やはり冷たくない。
「えっ?」
厨房へ走る。
かまどに火を入れると、いつもよりずっと早く火がついた。薪が乾いている。かまどの奥にも、わずかな余熱が残っている。
「ええっ?」
保存庫へ行く。
温泉饅頭用の餡が凍っていない。むしろ、ちょうどよい硬さを保っている。漬物の樽も無事。芋も傷んでいない。
「えええっ?」
浴場へ走る。
湯気が立っている。
昨夜の湯が、冷めていない。
湯面は静かで、白い湯気がゆっくり上がっている。まるで、ずっと昔からこうだったと言いたげに。
コハルは浴場の入口で固まった。
それから、帳場へ戻った。
帳簿を開く。
薪代の欄を見る。
浴場の加温費を見る。
保存庫の損耗を見る。
冬季休業危機、と書かれた自分のメモを見る。
そして、震えた。
「これは……宿泊業の革命では?」
その時、客室の戸が開いた。
アルトが出てくる。
髪は寝癖のまま。顔は眠そう。昨日よりは少しだけ血色がいい。
「朝飯は」
「今、それどころではありません!」
「俺はそれどころだ」
「大事件です!」
「火事か」
「違います! 宿が寒くありません!」
「いいことだな」
「いいことです! 大げさに言うと、世界が変わりました!」
「大げさだ」
「大げさじゃありません!」
コハルは両手を握った。
「昨日までうちは、冷蔵庫に人が泊まってるみたいな宿でした!」
「自覚はあったのか」
「ありました! ありましたけど、言葉にすると悲しいので黙っていました!」
「今言ったな」
「今は言えます! なぜなら寒くないので!」
勢いがすごい。
アルトは厨房の方を見た。
「飯」
「作ります! すぐ作ります! 火もすぐつくので!」
コハルは駆け出した。
そして廊下の途中で振り返る。
「アルトさん!」
「何だ」
「宿代、いりません!」
「急だな」
「食事も出します!」
「助かる」
「温泉も入り放題です!」
アルトは少し動きを止めた。
「入り放題」
「はい!」
「毎日か」
「毎日です!」
「朝も」
「朝もです!」
「夜も」
「夜もです!」
アルトは考えた。
温泉入り放題。
それは、かなり強い条件だった。
コハルは耳を立て、勝負師の顔をしている。
「だから、しばらくうちにいてください」
宿の奥から、湯気の匂いが流れてきた。
アルトは、少しだけ眉を寄せた。
面倒なことになる。
それはもう、ほとんど確定している。
だが、温泉入り放題。
かなり強い。
「……しばらくなら」
コハルの顔が、一気に明るくなった。
「本当ですか!」
「朝飯次第で」
「全力で作ります!」
コハルは厨房へ飛び込んでいった。
すぐに、かまどに火がつく音がした。
八百万亭の朝が、昨日より少しだけ早く動き始めた。




