2-2 41.5度の奇跡
「アルトさん! 何しました!?」
浴場の戸の向こうから、コハルの声が飛んできた。
さっきまでより近い。
たぶん暖簾の前までは来ている。
だが飛び込んでは来ない。
さすがに宿の女将として、そのあたりの分別はあるらしかった。
「結界を張った」
「結界でお湯が温かくなるんですか!?」
「熱を逃がさないようにしただけだ」
「だけ、の意味が広いです!」
アルトは湯船の縁に腕を置いた。
湯は静かだった。
だが、先ほどまでとは違う。
表面だけがぬるいのではない。
底だけが温かいのでもない。
湯船全体が均一な温度になっている。
地下から運ばれてきた熱が、ようやく本来の仕事を始めたようだった。
「今は何度くらいなんですか?」
「四十一度半」
戸の向こうが静かになった。
「……何度?」
「四十一・五」
「わかるんですか?」
「結界師なので」
「便利すぎません?」
アルトは少し考えた。
便利なのだろうか。
結界術師なら普通にわかる気もする。
熱の流れ。
空気の流れ。
魔力の流れ。
その境界を読むのが結界術だ。
湯船の温度くらいなら、わざわざ測らなくても感覚でわかる。
「だいたい四十一・五度」
「だいたいと四十一・五は共存するんですか」
「する」
「しないと思います」
コハルは即答した。
そして、すぐに別の質問を飛ばしてくる。
「明日の朝には冷めますよね?」
「冷めない」
「夜中は?」
「冷めない」
「雪の日でも?」
「冷めない」
「冬でも?」
「今が冬だ」
「そうでした!」
何がそうでしたなのか。
アルトは湯の中で目を閉じた。
「温度を固定した」
「固定」
「浴場の冷気も遮った」
「冷気も」
「湯気も循環させている」
「湯気も」
「泉質も逃がさない」
戸の向こうが、また静かになる。
今度は長かった。
たぶん考えている。
アルトは何となく、その顔が想像できた。
耳が立つ。
目が丸くなる。
口が半開きになる。
そして次の瞬間、商売のことを考え始める。
そう思った。
けれど、違った。
暖簾の向こうで、コハルの声が止まった。
さっきまで、何をしたのか、どういう仕組みなのか、燃料代はいくら浮くのかと矢継ぎ早に聞いていた声が、急に消えた。
アルトは目を開ける。
「どうした」
返事がない。
脱衣所の外で、板床が小さく鳴った。
コハルが一歩近づいた音だった。
けれど、暖簾のところで止まっている。入ってはこない。そこはきちんと守っているらしい。
湯気が濃くなっていた。
さっきまで頼りなく天井へ消えていた白い息が、今は梁の下でふわりとほどけている。石造りの湯船も、濡れた床も、古い木の壁も、ゆっくり熱を取り戻していた。
浴場が、寒くない。
ただそれだけのことだった。
だが、戸の向こうで、コハルは息を呑んでいた。
「……この匂い」
小さな声だった。
「昔の、うちのお風呂の匂いです」
アルトは黙った。
湯の匂いなど、アルトにはまだよくわからない。温かいか、ぬるいか。冷えるか、冷えないか。その程度だ。
けれど、コハルには違うのだろう。
この浴場で育った者にしかわからない匂いがある。
湯気の厚さ。
木に染みた湿気。
石の温まり方。
脱衣所まで届く、ほんの少し甘い源泉の匂い。
コハルは、それを覚えていた。
「父さんが、朝一番に湯を見に行くと、こういう匂いがしました」
声が、少し震えた。
「母さんが、今日はいい湯ですよって、お客様に言う時も」
そこで言葉が切れた。
アルトは湯船の縁に腕を置いた。
何か言うべきかと思った。
だが、こういう時に何を言えばいいのか、彼は知らない。
戦場で泣く者なら見たことがある。
痛みで泣く者。
恐怖で泣く者。
怒りで泣く者。
けれど、湯が温かくなって泣きそうになる者は、初めてだった。
脱衣所の向こうで、コハルが小さく笑った。
泣かないための笑いだった。
「すみません。変ですよね。お湯が温かいだけなのに」
「変ではない」
アルトは言った。
「お前の宿の湯だろ」
また、声が止まった。
湯面が揺れる音だけがした。
しばらくして、コハルが深く息を吸った。
「はい」
その一言は、今までの彼女の声と少し違っていた。
明るく客を迎える若女将の声ではない。
商売の匂いを嗅いだ時の声でもない。
両親の残した宿を、一人で守ってきた子の声だった。
「うちの、お湯です」
アルトは湯に肩まで沈んだ。
「ちょうどいい」
戸の向こうで、コハルがまた息を呑む。
「ちょうどいい……ですか」
「ああ」
「寒くないですか」
「寒くない」
「ぬるくないですか」
「ぬるくない」
「……そうですか」
声が、ほどけた。
「そうですか」
同じ言葉を、もう一度言った。
そのあと、少しだけ沈黙があった。
湯気が上がる。
古い浴場の梁に、白く柔らかいものが触れていく。
コハルは、たぶん暖簾の向こうで目元を押さえていた。
アルトは見なかった。
見えないし、見ない方がいい気がした。
やがて、コハルが言った。
「アルトさん」
「何だ」
「ありがとうございます」
「一晩泊めてもらった礼だ」
すると戸の向こうで何かが落ちた。
たぶん桶だ。
今日だけで三回目くらいである。
「礼!?」
「そうだが」
「礼の規模じゃありません!」
「そうか」
「そうです!」
コハルは力強く言った。
「これは宿泊代では済みません」
「何の話だ」
「長期契約です」
アルトは嫌な予感がした。
「何の契約だ」
「うちの救世主契約です!」
「大げさだ」
「大げさじゃありません。今、うちのお湯が、戻ったんです」
その言葉だけは、商売ではなかった。
アルトは返事をしなかった。
湯気が、静かに上がっていた。
しばらくして、コハルが小声で付け足した。
「……あと、たぶん商売にもなります」
「戻ったな」
「若女将なので」
「便利な言葉だな」
「はい。でも、今だけは」
コハルは少しだけ声を落とした。
「今だけは、商売の前に、嬉しいです」
アルトは目を閉じた。
湯は、たしかに温かかった。
身体が軽い。
吹雪で冷え切っていた筋肉がほぐれている。
眠気も、嫌な重さではなくなった。
良い湯だった。
本当に良い湯だ。
だからこそ、今までこの状態でなかったのが惜しい。
「客が戻るかもしれません」
コハルがぽつりと言った。
今度の声は、さっきより少しだけ若女将の声に戻っていた。
「燃料代も減るかもしれません」
続ける。
「冬でもお客様が入れます」
少し間が空く。
「宿を閉めなくて済むかもしれません」
最後の言葉だけ、小さかった。
アルトは浴場の梁を見上げた。
コハルは明るい。
よく喋る。
すぐ騒ぐ。
すぐ商売のことを考える。
だが、宿が潰れかけていることは知っている。
帳場の空席も。
空室だらけの客室も。
薪代も。
ぬるい湯も。
全部わかっていて笑っている。
「毎日できますか」
コハルが聞いた。
「できる」
「一年中?」
「できる」
「お客様が百人来ても?」
「百人は無理だろ」
「ですよね!」
少し安心した声だった。
万能ではない方が安心するらしい。
「浴場が百個あったら?」
「そんな宿はない」
「確かに!」
コハルはひとりで納得した。
そして次の瞬間。
「すごいです!」
声が弾けた。
「これ、すごいですよ!」
「そうか」
「そうかじゃありません!」
ばんばん、と戸を叩く音がする。
「温泉宿ですよ! うち!」
「知っている」
「温泉宿なのに、お湯がぬるかったんです!」
「知っている」
「それが四十一・五度ですよ!?」
「そうだな」
「奇跡じゃないですか!」
アルトは少し考えた。
奇跡。
その言葉はあまり好きではない。
戦場で何度も聞いたからだ。
生き残った兵士は奇跡。
砦が持ちこたえたのは奇跡。
補給隊が間に合ったのは奇跡。
だが、その裏では誰かが結界を張り続けている。
奇跡ではなく、作業だった。
「奇跡ではない」
「では」
「熱が逃げなくなっただけだ」
「それが奇跡なんです!」
コハルは断言した。
アルトは返事をしなかった。
湯に肩まで沈む。
奇跡ではない。
だが、戸の向こうで泣きそうになっている少女にとっては、そう呼ぶしかないものなのかもしれなかった。
「アルトさん」
「何だ」
「うちにいてください」
「断る」
「即答!」
「まだ来たばかりだ」
「でも温泉は気に入りましたよね?」
「それはそうだ」
「ご飯は」
「改善の余地がある」
「精進します!」
返事が早い。
「部屋は」
「寒い」
「改善します!」
「床が鳴る」
「味です!」
「急に開き直ったな」
戸の向こうで、コハルが笑った。
明るい笑い声だった。
少なくとも、昨日までの八百万亭にはなかった笑い方なのだろう。
アルトは湯から上がった。
湯気が立つ。
身体は温まっている。
そこで気づく。
脱衣所はまだ冷たい。
浴場との温度差がある。湯上がりには少し厳しい。
アルトは何気なく指を振った。
脱衣所の壁際へ薄い結界を張る。
冷気を遮る。
浴場の余熱を逃がさない。
湿気だけは少し抜く。
それだけだ。
数秒後。
戸の向こうから変な声が聞こえた。
「……あれ?」
アルトは嫌な予感がした。
「どうした」
「今、脱衣所が暖かくなりました」
「そうか」
「そうかじゃありません!」
ばたばたと足音がする。
コハルが脱衣所の中を走り回っているらしい。
「ここも!」
ぱたぱた。
「ここも!」
ぱたぱた。
「寒くない!」
ぱたぱた。
忙しい女将だった。
やがて、戸の向こうで静寂が戻る。
そして。
「アルトさん」
妙に落ち着いた声。
「何だ」
「脱衣所まで商品化できますね」
「するな」
「でも湯上がり快適空間ですよ?」
「商品名まで考えるな」
「すでに三つくらい考えてます」
「やめろ」
コハルは笑った。
完全に商売の顔だった。
だが、さっきまでとは違う。
商売だけで笑っているのではなかった。
嬉しさを抱えたまま、宿を動かそうとしている顔だった。
アルトはため息をつく。
どうやら、この宿は思ったより面倒な場所らしい。
温泉は良い。
宿も悪くない。
だが、女将が元気すぎた。
その元気が、今後たぶん自分に向かってくる。
そんな予感がした。
そして残念なことに。
その予感は、おそらく当たる。




