2-1 ぬるい湯の宿
浴場は、宿の奥にあった。
廊下を進むたびに、床板が鳴る。
ぎし。
ぎし。
古い宿特有の音だった。壊れかけている音にも聞こえるし、まだ自分はここにいると主張している音にも聞こえる。
アルトは、壁に手を添えながら歩いた。
身体はまだ重い。吹雪の山道で冷えたせいもある。寝不足もある。空腹は粥で少しだけましになったが、根本的には足りていない。
だが、湯に入れるなら話は別だった。
温かい湯。
その四文字には、今のアルトを動かすだけの力がある。
廊下の先で、コハルが足を止めた。
「こちらが、八百万亭自慢の大浴場です」
そう言って、彼女は胸を張った。
暖簾は古かった。紺地に白く『湯』の字が染め抜かれている。端は少しほつれているが、きちんと洗われていた。木札には『殿方』とある。文字は達筆だ。コハルの字ではないだろう。
脱衣所の戸を開けると、湿った木の匂いがした。
悪くない匂いだった。
古い木。
石。
わずかな硫黄。
湯気。
灰になりかけた薪の匂い。
建物は古い。だが、放っておかれた場所ではない。棚は拭かれている。籠も揃えられている。床の傷も、割れた鏡も、補修しながら使われている。
金はない。
人手もない。
けれど、手は抜いていない。
アルトはそれだけはわかった。
「いい浴場だな」
何気なく言った。
コハルの耳が立った。
「わかりますか!」
「古いけど、悪くない」
「そうなんです! 古いんですけど、悪くないんです! そこが大事なんです!」
「声が大きい」
「すみません。褒められ慣れていなくて」
コハルは少し照れたように笑った。
その笑い方は、先ほど帳場で見せたものより幼く見えた。いや、幼いというより、宿を褒められた時だけ、年相応に戻るのだろう。
「私は外で待っています。何かありましたら呼んでください」
「呼ぶことがあるのか」
「お湯が熱すぎるとか」
「その可能性は低そうだな」
コハルの笑顔が、わずかに固まった。
ほんの一瞬だった。
すぐに明るい顔へ戻る。
「……はい。低いです」
アルトは、それ以上言わなかった。
服を脱ぎ、浴場の戸を開ける。
中は広かった。
天井には太い木の梁が渡っている。長い年月で黒く色づき、湯気を吸って艶を持っていた。壁は板張り。ところどころに修繕跡がある。床は石。湯船も石造りで、角は丸く削られている。
かつて、多くの人がここに入ったのだろう。
旅人。商人。冒険者。老人。子供。湯治客。
湯船の縁には、そういう人々の手が触れてきた丸みがあった。
ただ、湯気が薄い。
浴場全体に、寒さが残っている。
湯船には湯が張られていた。透明に近いが、わずかに白く濁っている。源泉の匂いはある。泉質は悪くない。むしろ、かなりいい。
だが、湯面から立つ湯気が弱かった。
アルトは湯船の縁にしゃがみ、手を入れた。
ぬるい。
冷たいわけではない。
水ではない。
だが、温泉宿の湯としては、明らかに力が足りない。
「ぬるいな」
言った瞬間、脱衣所の向こうで物音がした。
「すみません!」
コハルの声だった。
近い。たぶん、戸の外にいる。
「責めてない」
「でも、ぬるいですよね!」
「ぬるい」
「正直ですね!」
「嘘をついても温度は上がらない」
「それは、そうですけど!」
戸の向こうで、コハルが小さく息を吸う気配がした。
「昔は、もっと熱かったんです」
声の調子が少し変わった。
明るさは残っている。けれど、その奥に細い悔しさがあった。
「父さんがいた頃は、湯守町でも評判のお湯でした。芯まで温まるって。旅の疲れが抜けるって。冬でも湯上がりに汗をかくくらいだって」
アルトは湯面を見た。
静かな湯だった。
「でも、何年か前から源泉の温度が下がってきて……。加温しようにも薪代も高くて。魔導釜を直すお金もなくて。お客様が来ても、寒い宿だって言われて帰られて」
そこで、コハルは笑おうとした。
笑おうとして、うまく笑えなかった。
「温泉宿なのに、お湯がぬるいんです。致命的ですよね」
アルトは黙っていた。
脱衣所の向こうで、コハルが慌てたように続ける。
「あ、でも、泉質はいいんです! 本当に! 腰痛にも冷えにも効くって昔から言われていて、湯守町の湯は、ちゃんと力があるんです。ただ、今はちょっと、元気がないだけで」
「うちの子、だったか」
「はい?」
「さっき言っていた。温泉はうちの子だと」
戸の向こうで、コハルが黙った。
アルトは湯から手を上げた。
指先に、温泉成分が薄く残る。
魔力鉱物の粒子。
地下熱の残滓。
硫黄に似た成分。
血行を促す微細な魔力。
疲労で濁った魔力回路を、少しだけ整える性質。
悪くない。
むしろ、かなりいい湯だ。
問題は、熱が逃げていることだった。
湯船から。
床石から。
浴場の隙間から。
源泉から引いてくる途中の配管から。
浴場全体が、冷気に負けている。
湯が弱いのではない。
守られていないだけだ。
アルトは湯船の縁に指を置いた。
結界を張る。
大きなものではない。
まず、湯面の上に薄い膜を置く。
湯気を逃がしすぎないようにする。
次に、湯船の石の内側へ熱遮断の層を張る。
湯の熱が石へ奪われる速度を落とす。
床下から上がる冷気を隔てる。
浴場の隙間から入る風を曲げる。
源泉から流れ込む湯の魔力を、湯船の中でゆっくり循環させる。
温度を上げるのではない。
逃げていたものを留める。
散っていたものを戻す。
それだけだった。
湯面が、かすかに揺れた。
最初は小さな波だった。
やがて、湯船の中心から白い湯気が立った。
薄かった湯気が、少しずつ濃くなる。
浴場の空気が変わった。
冷たい石の匂いがやわらぎ、木の梁に染みた古い湯の匂いが戻ってくる。壁の板が、湿気を吸ってわずかに音を立てた。ずっと眠っていた場所が、ゆっくり息を吹き返すようだった。
アルトは湯に足を入れた。
さっきより温かい。
いや、熱を足したわけではない。湯の中にあった熱が、逃げなくなっただけだ。湯船全体に温度が行き渡り、表面と底の差がなくなっている。
彼はそのまま肩まで浸かった。
湯が身体を包む。
吹雪で固まっていた筋肉が、少しずつほどける。
指先に血が戻る。
背中の冷えが消える。
目の奥に残っていた眠気が、重さを変える。
これは、いい。
アルトは湯船の縁に頭を預けた。
「ちょうどいい」
脱衣所の向こうが、静かになった。
一拍。
二拍。
コハルの声がした。
「ちょうどいい……?」
「ああ」
「うちのお湯が?」
「他に湯はないだろ」
「うちのお湯が、ちょうどいい……?」
同じ言葉を、信じられないように繰り返している。
アルトは目を閉じた。
「温度だけならな」
「温度だけでも大事件です!」
戸の向こうで、何かが倒れた音がした。たぶん桶か何かだ。
「大丈夫か」
「大丈夫です! たぶん! それより、アルトさん!」
「何だ」
「今、何しました!?」
「結界を張った」
「結界で、お湯が温かくなるんですか!?」
「熱を逃がさないようにしただけだ」
「だけ、の意味が広すぎませんか!?」
アルトは湯の中で息を吐いた。
白い湯気が、天井の梁へ向かって昇っていく。
悪くない。
悪くないどころか、かなりいい。
魔王城の会議室より、前線基地の簡易寝台より、荷馬車の毛皮の上より、ずっといい。
コハルの声が、戸の向こうからまた聞こえた。
「アルトさん」
「何だ」
「その結界、明日の朝まで持ちますか?」
「持つ」
「薪は使わずに?」
「使わずに」
「魔力はたくさん使いますか?」
「ほとんど使わない」
戸の向こうが、また静かになった。
今度の沈黙は、さっきと違った。
驚きのあとに、何かが走った気配がある。
計算。
いや、コハルは計算が苦手そうだ。
だが、商売の匂いを嗅いだ気配はあった。
アルトは目を閉じたまま言った。
「何か考えているな」
「いえ」
「声が近い」
「いえ」
「戸に耳をつけていないか」
「つけてません」
「嘘が薄い」
コハルは少し黙り、それから小さく言った。
「アルトさん」
「何だ」
「あなた、もしかして……」
そこで言葉が止まる。
アルトは湯に沈みながら、次の言葉を待った。
コハルは、妙に真剣な声で言った。
「うちの救世主ですか?」
アルトは目を開けた。
湯気の向こうに、古い梁が見える。
「違う」
「では」
「客だ」
戸の向こうで、コハルが何かを考える気配がした。
「……お客様は神様です」
「急に危ない方向へ行くな」
「でも、神様なら宿にいてもらっても問題ありませんよね?」
「ある」
「では、長期滞在のお客様ということで」
「勝手に話を進めるな」
コハルの声は、もう完全に元気を取り戻していた。
アルトは湯船の中で、もう一度息を吐いた。
体が温まっていく。
浴場が温まっていく。
古い宿の奥で、弱っていた湯が静かに力を取り戻していく。
面倒なことになりそうだった。
だが、今はどうでもよかった。
湯がちょうどいい。
それだけで、かなりのことは許せた。




