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1-4 湯守町へ

 二人は、吹雪の中を進んだ。

 コハルが前を歩く。

 片手に提灯。もう片方の手で荷車の取っ手を押さえている。腰につけた小さな鈴が、歩くたびに鳴った。

 ちりん。

 ちりん。

 白い闇の中で、その音だけが道の形を持っていた。

 アルトは荷車の後ろにつき、右手を軽く動かした。黒革の手袋の指先で、見えない障子を閉めるように空気を区切る。

 車輪の下の雪を少し固める。

 荷の重さを逃がす。

 崖側へ傾きかける力を、道の内側へ戻す。

 それだけで、荷車はどうにか進んだ。

「アルトさん、すごいですね!」

 コハルが振り返る。

「荷車が、さっきよりずっと軽いです!」

「荷車は軽くしていない」

「でも軽いです!」

「押す力が逃げないようにしている」

「つまり軽いです!」

「説明をまとめるな」

 コハルは笑った。

 寒さの中でも、声がよく通る。

 この少女は、吹雪より声が強い。

「それで、湯守町まであとどのくらいだ」

「もう少しです」

「そのもう少しは、信用できるのか」

「できます。女将の勘です」

「危ない基準だな」

「でも、だいたい当たります」

「だいたい」

「たぶん」

「たぶんが出たな」

 コハルの耳が、雪の中でぴくりと動いた。

「大丈夫です。道鈴もありますから」

「道鈴?」

「昔、湯治客が迷わないように、町の入口から山道にかけて鈴を吊るしていたんです。今はほとんど外れてますけど、風で鳴ると道がわかります」

「それで俺を見つけたのか」

「はい。あと、女将の勘です」

「どちらが主な理由だ」

「勘です」

 危ない宿だな、とアルトは思った。

 だが、提灯の灯りは確かだった。

 鈴の音も、吹雪の中で細く続いている。

 しばらく歩くと、森が開けた。

 雪の向こうに、町の灯りが見えた。

 多くはない。

 むしろ少ない。

 暗い山あいに、いくつかの窓明かりが頼りなく浮かんでいるだけだった。

 石段。

 古い橋。

 閉じた土産物屋。

 雪に埋もれた看板。

 軒先に吊るされた提灯は、いくつも火が消えていた。

 湯守町。

 その名に反して、町は冷えていた。

 ただ、空気の底にかすかな匂いがある。

 硫黄に似た、湿った石の匂い。

 古い木材に染みた湯気の匂い。

 眠っている温泉街の匂い。

 アルトは少しだけ顔を上げた。

「温泉の匂いがする」

 コハルの耳が立った。

「わかりますか!」

「少し」

「あります。ちゃんとあります。ちょっと元気がないだけで」

「温泉にも元気があるのか」

「あります。うちの子ですから」

 コハルはそう言って、町の奥へ進んだ。

 その声は明るかった。

 だが、アルトは町を見ていた。

 閉じた店の戸。

 雪に埋もれた足跡。

 誰も座っていない足湯の跡。

 看板だけが残った古い旅館。

 かつて人がいた場所から、人の気配が抜けている。

 コハルの言う「元気がない」は、温泉だけの話ではなさそうだった。

 八百万亭は、石段を少し上がった場所にあった。

 大きな宿ではない。

 だが、かつては立派だったのだろう。玄関の梁は太く、瓦屋根も重厚だった。古びた木の看板には、墨で『八百万亭』とある。文字は少しかすれているが、丁寧に磨かれていた。

 その横に、小さな札が掛かっている。

『本日空室あり』

 さらにその下に、手書きの紙。

『明日も空室あります』

 さらにその下。

『だいたい空室あります』

 アルトは紙を見た。

「正直だな」

「誠実営業です」

「悲しくならないか」

「なります!」

 コハルは元気よく答え、荷車を玄関脇へ寄せた。

「ありがとうございます。これで明日の朝食が粥だけになる危機は回避されました」

「粥は出るのか」

「出ます。芋入りです。豪華です」

「基準が低いな」

「今は伸びしろです」

 コハルは玄関の戸へ手をかけた。

 戸は途中で引っかかった。

「よいしょ」

 肩で押す。

 がたん、と音を立てて戸が開いた。

 中から冷たい空気が流れてきた。

「温泉宿なのに寒いな」

「そこは今、改善予定です」

「いつ」

「お客様が増えたら」

「順番が難しいな」

「そこを何とかするのが若女将です」

 玄関の土間には、古い番傘と下駄箱があった。

 下駄箱は空に近い。

 帳場にはそろばんと帳簿が置かれている。壁には、男女二人の古い肖像画がかかっていた。笑っている。たぶん、コハルの両親だろう。

 廊下は暗い。

 床板は歩くと鳴った。

 奥から、かすかに湯の音が聞こえる。

 コハルは提灯を置き、両手を広げた。

「ようこそ、湯守町一番の老舗旅館、八百万亭へ!」

 アルトは周囲を見た。

「客は?」

「今日は貸し切りです」

「俺しかいないのか」

「貸し切りです!」

「言い方で押すな」

 コハルは咳払いをした。

「お部屋へご案内します。足元にお気をつけください。たまに板が鳴ります」

「たまに?」

 ぎし、と床が鳴った。

「頻繁に鳴ります」

「正直だな」

「誠実営業です」

 案内された部屋は、古いが掃除されていた。

 畳は少し色あせている。障子の桟には補修の跡がある。窓際には小さな火鉢。布団は押し入れから出したばかりらしく、少しだけ湿気を含んでいた。

 コハルは慌てて布団を叩いた。

「すみません。今、乾いている途中です」

「途中の布団は初めて見た」

「完成まであと少しです」

 アルトは座った。

 身体が重い。

 吹雪の中を歩き、荷車を押し、結界を張り続けたせいで、眠気が戻ってきていた。寒い。腹も減っている。

 しばらくして、コハルは盆を持って戻ってきた。

 芋粥と漬物。

 湯気は弱いが、温かい。

「粗末ですが」

「温かいなら十分だ」

 アルトは粥を食べた。

 塩気がある。芋は少し煮崩れている。特別うまいわけではない。だが、吹雪の山道のあとでは、かなりありがたかった。

 コハルは向かいに正座し、なぜか期待した顔で見ている。

「どうですか」

「温かい」

「味は」

「温かい」

「そこ以外もお願いします」

「芋が入っている」

「食材確認ですね」

 コハルは少し肩を落とした。

 だが、すぐに笑った。

「でも、食べられるならよかったです」

 その笑い方だけは、宿の古さと合っていた。

 無理に明るくしている。

 だが、嘘ではない。

 この宿を本当に大事にしている。

 アルトは粥を食べ終えた。

 身体の芯はまだ冷えている。火鉢の火は弱い。部屋の隅からすきま風が入ってくる。

 コハルが立ち上がった。

「それでは、お風呂をどうぞ」

「温泉か」

「はい。八百万亭、自慢のお湯です」

 そこだけ、少し声が強くなった。

 アルトは顔を上げる。

「温かいのか」

 コハルは笑顔のまま固まった。

 一拍。

 二拍。

 耳が、ゆっくり伏せる。

「……努力します」

「努力で温度は上がるのか」

「上げます。気持ちで」

「物理法則に嫌われそうだな」

「今夜だけは仲良くしてもらいます」

 コハルは盆を抱え、逃げるように部屋を出ていった。

 廊下の向こうで、小さく声が聞こえる。

「薪、あとどれだけあったっけ……いや、でも全部使うと明日の朝が……」

 アルトは障子の向こうを見た。

 湯守町。

 八百万亭。

 ぬるいかもしれない温泉。

 やたら前向きな若女将。

 面倒な場所に来た気がした。

 ただ、悪い場所ではなさそうだった。

 すきま風が、足元を撫でる。

 アルトは指先を少し動かしかけて、やめた。

 まだ客だ。

 余計なことをする理由はない。

 そう思った。

 廊下の向こうで、コハルがまた何かにぶつかった音がした。

「大丈夫です! 備品は無事です!」

 誰に向かって言っているのかは、わからない。

 アルトは少しだけ目を閉じた。

「……本当に大丈夫か、この宿」

 返事の代わりに、奥の浴場から、か


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