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1-3 吹雪の山道

 荷馬車は、山道の手前で止まった。

 御者は手綱を引き、雪に半分埋もれた道標を顎で示した。

 北――湯守町。

 西――鉱山街道。

「兄ちゃん、湯守町ならこっちだ。悪いが、俺は西へ行く」

「ここから歩きか」

「天気が良けりゃ半日だな」

 アルトは空を見た。

 灰色の雲が低く垂れこめている。針葉樹の森は白く、枝の上の雪が風に削られていた。

「天気が悪い場合は」

「知らねえ方が幸せなこともある」

「いい助言だ」

 アルトは荷台から降りた。

 荷物は少ない。着替えが一組。古い術式帳。乾いたパンが半分。銅貨はもうない。認識票もない。軍服もない。

 あるのは結界術だけ。

 今のところ、宿代にはならない。

「湯守町は昔は湯治客で賑わったらしいが、今は寂れてるって話だ」

 御者が言った。

「温泉はあるのか」

「あるにはある。ぬるくなったって噂だがな」

「ぬるいのか」

「俺は入ったことねえ」

「そうか」

 ぬるい温泉。

 それは温泉としてどうなのだろう。

 温泉とは、温かいから温泉なのではないのか。

 魔王軍を追放され、全財産を荷馬車代に使い、たどり着く先がぬるい温泉。

 人生は、なかなか火力が低い。

 バルドスなら怒鳴るだろう。

 湯も人生も火力が足りん、と。

「山道は魔物も出る。雪狼に気をつけろよ」

「狼か」

「群れで来るぞ」

「囲まれたら、囲い返す」

「何だそりゃ」

「結界師なので」

 御者は最後までよくわからない顔をして、鉱山街道へ去っていった。

 車輪の音が遠ざかる。

 森の音と、風の音だけが残る。

 アルトは北の道を見た。

 細い山道だった。雪に覆われ、奥は白く霞んでいる。温泉の気配はない。宿の灯りもない。

 彼は歩き出した。

 最初は道が見えた。

 古い轍もあり、木には赤い布が結ばれていた。雪の日でも迷わないための目印だろう。

 だが、すぐに雪が強くなった。

 風が横から叩きつける。

 赤い布は白い吹雪に溶け、足跡も消えた。

 アルトは右手を上げた。

 黒革の手袋の指先で、空気を軽く区切る。

 冷気を遮る。

 風を曲げる。

 足元の雪を少し固める。

 身体は楽になった。

 ただ、腹は膨れない。

 眠気も消えない。

 道も見えない。

 魔術は万能ではない。

 少なくとも、空腹と睡眠不足と方向音痴には弱い。

「困ったな」

 あまり困っていない声で、アルトは呟いた。

 森の奥で、影が動いた。

 雪狼だった。

 灰白色の毛並み。氷のような青い目。普通の狼より一回り大きい。三頭、いや五頭。群れで、こちらを見ている。

 アルトは杖を構えなかった。

 炎も撃たない。

 右手袋の指先で、見えない障子を閉めるように空気をなぞる。

 匂いを散らす。

 体温をぼかす。

 敵意と獲物の境界をずらす。

 雪狼の目から、アルトという存在の意味が薄れていく。

 獲物ではない。

 敵でもない。

 追う理由のないもの。

 先頭の雪狼が鼻を鳴らした。

 やがて、興味を失ったように横を向く。

 群れは吹雪の中へ消えた。

「戦場でこれをやると、怒られる」

 アルトは呟いた。

 雪狼には怒られなかった。

 それで十分だった。

 だが、道はわからない。

 雪は強くなる。

 足が重くなる。

 防寒結界を張っていても、疲労までは消えない。眠気も消えない。アルトは森の中の大きな岩に背を預けた。

「少しだけ」

 休むだけ。

 そう思った。

 風を遮る。

 雪を避ける。

 体温を逃がさない。

 結界は張った。

 たぶん、大丈夫だ。

 その「たぶん」が、少しずつ薄くなっていく。

 湯気。

 ふと、そんなものを思い浮かべた。

 温かい湯。

 白い湯気。

 誰にも怒鳴られない場所。

 報告書を書かなくていい場所。

 そんな場所が本当にあるなら、悪くない。

 ちりん。

 鈴の音がした。

 アルトは目を開けようとした。

 まぶたが重い。

 ちりん。

 もう一度、音がする。

 吹雪の向こうに、小さな灯りが揺れていた。

 提灯だった。

 その下に、人影がある。

 少女が一人、雪に取られた荷車を押していた。荷台には薪と、豆の袋と、温泉饅頭用らしい粉袋が積まれている。車輪は雪に埋まり、荷車は崖側へ傾いていた。

「動いてください……! 今日動かないと、明日の朝食が粥だけになります……!」

 明るい声だった。

 こんな吹雪には、あまり似合わない声だった。

 少女の頭には、獣の耳があった。

 犬の耳か、狐の耳か。

 どちらにしても、人間の耳ではない。

 荷車が、ずるりと滑った。

「あっ」

 少女の声が裏返る。

 アルトは右手を上げた。

 薄い硝子の線が、車輪の前に走る。

 荷車は、崖へ落ちる寸前で止まった。

 少女は取っ手を握ったまま固まる。

「……止まった?」

「止めた」

 アルトが言うと、少女は吹雪の中で振り返った。

 目が合う。

 彼女は一瞬、驚いた顔をした。

「人ですか!」

「たぶん」

「たぶんで雪山に立たないでください!」

「正論だな」

 少女は提灯を高く上げ、アルトを見た。

 黒髪は雪で濡れ、目の下にはクマ。外套は薄く、荷物は小さい。どう見ても、計画的な旅人ではない。

「もしかして、遭難者ですか」

「温泉を探している」

「遭難者ですね」

「温泉はあるのか」

「あります」

 アルトは少しだけ背筋を伸ばした。

「温かいか」

 少女は、一瞬だけ言葉に詰まった。

「……努力はしています」

「微妙な答えだな」

「今は少しぬるいです。でも、ちゃんと温泉です。湯守町の八百万亭です。古いですけど、宿です。たぶん」

「たぶんで宿を名乗るのか」

「たぶんで雪山に立っている人に言われたくありません」

 それはそうだった。

 少女は深く頭を下げた。

「私はコハルです。八百万亭の若女将をしています。助けていただいて、ありがとうございます」

「アルト」

「アルトさんですね。結界師さんですか?」

「たぶん」

「たぶん多いですね」

「よく言われる」

 コハルは荷車を見た。

「これ、動かせますか」

「動かすだけなら」

「八百万亭までお願いします」

「宿代はない」

 コハルの耳がぴくりと動いた。

「……ないんですか」

「ない」

「本当に?」

「本当に」

 コハルは吹雪の中で少し考えた。

「では、労働で」

「何をさせる気だ」

「まずは荷車を八百万亭までお願いします。あと、もし可能なら、浴場の寒さを少しだけ何とかしていただけると」

「浴場が寒いのか」

「少しだけ」

「温泉なのに」

「少しだけです」

 その言い方で、かなり寒いのだとわかった。

「温泉入り放題は」

 コハルの耳が立った。

「つけます」

 アルトは即答した。

「行く」

 コハルの顔がぱっと明るくなる。

「ようこそ、八百万亭へ!」

「まだ着いていない」

「気持ちの上では着きました!」

「危険な考え方だな」

 二人は荷車を押して、吹雪の道を進み始めた。

 アルトが結界で車輪を支え、コハルが提灯を掲げる。雪はまだ強い。森は暗い。道は細い。

 それでも、さっきより進む方向ははっきりしていた。

 提灯の灯りの向こうに、かすかな湯気が見えた。

 白い雪の中に、白い湯気。

「見えますか」

 コハルが言った。

「あれが八百万亭です」

 アルトは湯気を見た。

 戦場の煙ではない。

 報告書の山でもない。

 誰かの怒鳴り声でもない。

 湯気だった。

 温かいかどうかは、まだわからない。

 だが、少なくともそこには屋根がある。

 人がいる。

 そして、温泉がある。

 それだけで、今は十分だった。


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