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1-2 追放者、行くあてがない

 魔王城の外へ出ると、風が冷たかった。

 城内の空気とは違う。魔王城の内側は、石と鉄と魔力灯の匂いがする。廊下は冷たいが、どこか閉じている。外の風は、もっと雑だった。土の匂い。馬の匂い。城下町の煮炊きの匂い。焼いた肉の脂と、安い酒場の煙と、鍛冶場から流れてくる金属の熱。

 アルトは城門の前で立ち止まった。

 黒い尖塔を見上げる。

 何年も出入りしていた場所だった。けれど、追い出されてみると、そこは思ったより遠く見えた。いや、遠くなったのではない。こちらに引き返す理由がなくなっただけだ。

 首元が軽い。

 認識票がない。

 肩も軽い。

 軍の外套がない。

 懐も軽い。

 これは、元からだった。

「……まずいな」

 アルトは小さく呟いた。

 自由になった。

 それはいい。

 前線勤務もない。報告書もない。バルドスの大声を聞く必要もない。早朝訓練で火力魔術師たちが的を爆破する音に起こされることもない。

 とてもいい。

 だが、自由には宿代がいる。

 食費もいる。

 移動費もいる。

 当面の予定はない。預金もほとんどない。魔王軍の結界師は危険手当が少ない。なぜなら、上層部の認識では、結界師は後方で守っているだけだからである。

 守っているだけ。

 便利な言葉だった。

 その「だけ」で三日寝ていないこともあるのだが、給与明細には反映されない。

 アルトは城下町へ歩き出した。

 魔王城下は、魔族と亜人と人間の商人が入り混じる雑多な町だった。戦時下とはいえ、生活はある。武器屋。薬草屋。革細工店。食堂。安宿。酒場。魔導具屋。怪しい占い師。もっと怪しい占い師。さらに怪しい占い師を取り締まる、やはり怪しい憲兵。

 人は多い。

 だが、アルトを知る者は少なかった。

 火力魔術師なら違っただろう。戦場で大きな炎を上げる者は、城下でも名前が売れる。英雄譚にもなる。酒場で一杯おごられることもある。

 結界師は違う。

 何も起きなかった場所に、名前は残らない。

 燃えなかった兵站庫。

 倒れなかった城壁。

 死ななかった歩兵。

 崩れなかった橋。

 毒が混ざらなかった水瓶。

 それらは、ただ「無事だった」と記録される。

 無事だったものに、拍手は起きない。

 アルトは露店の前で足を止めた。

 串焼きの匂いがした。

 肉に甘辛いタレを塗り、火で炙っている。脂が落ち、炭火の上で小さく爆ぜた。

 腹が鳴った。

「一本、銅貨三枚だよ」

 露店の親父が言った。

 アルトは懐を探った。

 銅貨が二枚。

 銀貨はない。

 希望もない。

「……半分で銅貨二枚にならないか」

「ならないね」

「そうか」

 交渉は失敗した。

 アルトは串焼きに別れを告げ、歩き出した。

 城下の通りを抜ける途中、荷馬車が横を通った。荷台には木箱が積まれている。魔導鉱石の輸送箱だった。表面に冷却札が貼ってあるが、札の一つが剥がれかけている。

 アルトは歩きながら、指先を少し動かした。

 薄い結界を一枚、箱の周囲に張る。

 冷気を逃がさず、外気の熱を遮る。ついでに揺れの衝撃も少し逃がす。箱の中の鉱石が割れれば、運送屋が泣く。泣いた運送屋は酒場で愚痴る。愚痴った酒場の店主は面倒な顔をする。面倒は少ない方がいい。

 荷馬車は何事もなく通り過ぎた。

 御者は気づかない。

 アルトも礼を求めない。

 癖だった。

 気づいた時には、結界を張っている。

 危なそうなら隔てる。壊れそうなら支える。こぼれそうなら留める。燃えそうなら熱を逃がす。寒そうなら冷気を遮る。

 それだけだ。

 子供の頃からそうだった。

 落ちる皿を割らないようにした。

 雨漏りを一晩だけ止めた。

 喧嘩している子供の拳が、相手の鼻に届く前に少しだけ鈍らせた。

 火鉢の火が布に移る前に、熱を囲った。

 誰かに教わったわけではない。

 境界が見えた。

 ここから先に行かせてはいけないもの。

 ここから外へ逃がしてはいけないもの。

 ここに留めておくべきもの。

 ここから出してやるべきもの。

 ただ、戦場ではそれが厄介だった。

 守る範囲を決めろ、と言われる。

 味方だけを守れ。

 敵は閉じ込めろ。

 逃げ道は塞げ。

 炎は前に通せ。

 悲鳴は聞くな。

 アルトには、それが難しかった。

 敵意の有無はわかる。

 攻撃の軌道も読める。

 魔力の流れも見える。

 だが、死にそうな者の前に結界を張らない理由が、うまく見つからない。

 戦場では、その迷いが邪魔になる。

 たぶん、バルドスの言う通りだった。

 アルトは魔王軍に向いていなかった。

「さて」

 彼は通りの端で立ち止まった。

 向いていない場所から追い出された。

 では、向いている場所はどこか。

 考えてみる。

 静かな場所。

 寒くない場所。

 飯が出る場所。

 できれば寝床がある場所。

 もっと言えば、温かい湯がある場所。

 最後の条件だけ、妙に魅力的だった。

 湯。

 バルドスの言葉が頭に残っている。

 攻撃できぬ結界など、戦場では湯気にも劣る。

 湯気でいいのではないか、とアルトは思った。

 少なくとも湯気は、人を焼かない。人を温める。戦場の煙よりは、ずっとましだ。

 もっとも、温泉地に行く金はない。

 行くあてもない。

 目の前には、安宿の看板があった。

『一泊銀貨一枚。朝食付き』

 アルトは懐をもう一度探った。

 銅貨二枚。

 何度探っても、増えない。

 世の中の多くの問題は、結界では解決できる。

 だが、銅貨二枚を銀貨一枚にする結界はない。

 あったら、それは結界術ではなく偽造である。

 アルトは安宿の前を通り過ぎた。

 その時、背後から甲高い悲鳴が聞こえた。

「危ない!」

 振り向く。

 通りの向こうで、荷馬車が大きく揺れていた。馬が何かに驚いたらしい。車輪が石に乗り上げ、荷台の木箱が崩れかけている。

 そのすぐ下に、小さな子供がいた。

 手に焼き菓子を持ったまま、固まっている。

 周囲の大人たちは動けない。

 御者が手綱を引く。

 馬がいななく。

 木箱が傾く。

 アルトは考えるより先に、指を振った。

 薄い結界が、子供の頭上に生まれる。

 透明な膜。

 厚さは紙一枚ほど。

 だが、落下の衝撃を横へ逃がし、重量を分散し、木箱の角度を変えるには十分だった。

 木箱は子供の頭上で弾かれ、石畳の上に落ちた。

 中身の干し肉が散らばる。

 子供は無事だった。

 一拍遅れて、母親らしい女性が駆け寄り、子供を抱きしめる。御者は青ざめながら謝っている。露店の親父たちが集まる。通りは騒然となった。

 アルトは、その場を離れようとした。

「おい、あんた」

 露店の親父が声をかけてきた。

 串焼きの親父だった。

「今、何かしたか?」

「何も」

「嘘つけ。箱が変な跳ね方したぞ」

「風では」

「今日は無風だ」

「では、運がよかった」

 親父はじっとアルトを見た。

 疑っている顔だった。

 アルトは少し身構えた。感謝されるのは苦手だ。責められるのも面倒だ。説明するのはもっと面倒だった。

 親父は、しばらく黙ったあと、串焼きを一本差し出した。

「食え」

「銅貨は二枚しかない」

「いい。売れ残りだ」

「焼きたてに見える」

「売れ残り予定だ」

 よくわからない理屈だった。

 だが、肉は温かそうだった。

 アルトは受け取った。

「ありがとう」

「礼を言うのはこっちだ。あの子、常連の娘でな」

「そうか」

 アルトは串焼きを食べた。

 うまかった。

 空腹のせいもあるが、かなりうまかった。

 親父は腕を組んで言った。

「あんた、軍の魔術師か?」

「さっきまで」

「今は?」

「無職」

「潔いな」

「追放されたので」

 親父は微妙な顔をした。

「……大変だな」

「そうでもない。眠いだけだ」

「眠い無職か。厄介だな」

 まったくだ、とアルトは思った。

 串焼きを食べ終える頃、城下の西門近くで荷馬車の客引きが声を上げていた。

「西方街道、辺境方面行き! 途中までなら銅貨二枚! 荷台でよけりゃ乗せてくぞ!」

 アルトは親父を見た。

「辺境方面に、温かい場所はあるか」

「この季節に辺境で温かい場所? あるわけないだろ」

「そうか」

「ただ、山奥に温泉街ならあるって聞いたな。湯守町とか何とか。今は寂れてるらしいが」

「温泉」

 アルトは、その単語だけを拾った。

 温泉。

 湯気。

 寝床。

 もしかすると、仕事もあるかもしれない。

 いや、仕事はなくていい。

 温泉があるなら、それでいい。

 彼は残った銅貨二枚を握った。

 全財産だった。

 銀貨一枚の安宿には泊まれない。

 だが、辺境方面行きの荷馬車には乗れる。

 選択肢は少ない方が楽だ。

 迷わなくて済む。

「親父」

「何だ」

「串焼き、うまかった」

「そうかい」

「次に来たら払う」

「無職が偉そうにツケを作るな」

「では、出世したら払う」

「もっと信用できねえ」

 親父は笑った。

 アルトは軽く頭を下げ、西門へ向かった。

 荷馬車の御者は、アルトを見るなり言った。

「荷台だぞ。揺れるぞ。寒いぞ。文句は聞かねえぞ」

「寝られるならいい」

「寝られるかは知らん」

「では、努力する」

 アルトは銅貨二枚を渡し、荷台に乗った。

 荷台には毛皮の束と空き樽が積まれている。座り心地は悪い。だが、魔王城の会議室よりは気楽だった。

 荷馬車が動き出す。

 城下町の門を抜ける。

 魔王城が少しずつ遠ざかる。

 尖塔が黒い雲の下に沈んでいく。

 アルトは荷台の端にもたれ、目を閉じた。

 行くあてはない。

 所属もない。

 金もない。

 職もない。

 温泉が本当にあるかもわからない。

 それでも、前線に戻るよりはましだった。

 馬車が揺れる。

 空き樽が倒れそうになったので、アルトは半分眠りながら結界で支えた。

 誰も気づかない。

 それでよかった。

 西方の空は、少しずつ曇り始めていた。


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