1-1 魔王軍、クビになる
「アルト。貴様を、魔王軍第三魔術師団から追放する」
魔王城の会議室で、第二魔術師団長バルドスはそう言った。
会議室は広かった。
無駄に広い。
黒曜石を磨き上げた長卓。壁には歴代魔王の肖像画。天井には魔力灯が吊るされ、赤黒い光を落としている。窓の外には魔王城の尖塔が並び、その向こうで黒い雲がゆっくり渦を巻いていた。
いかにも、重要な決定を下す場所だった。
ただ、そこに呼ばれたアルト本人は、少し眠かった。
昨夜、北方戦線から戻ったばかりだった。前線基地の防壁結界を三日三晩維持し、帰ってきてすぐ報告書を書かされ、仮眠を取ろうとしたところで呼び出されたのである。
追放宣告を受けるには、睡眠時間が足りなかった。
「理由を聞いても?」
アルトは欠伸を噛み殺して言った。
黒髪は、切るのも整えるのも面倒になったまま伸びている。前髪の一部だけが片側へ跳ね、寝癖なのか癖毛なのか本人にもわかっていない。目の下には薄いクマがあり、何を見ても半分眠っているような顔をしていた。
服装も地味だった。
飾り気のない黒いシャツ。旅用のズボン。擦り切れた外套。魔王軍所属の魔術師らしい派手な杖も、宝石つきの指輪もない。
ただ、右手だけに古い黒革の手袋をしていた。
手首のあたりに、銀糸で細い方陣が縫い込まれている。魔王軍結界師に支給される補助具だったが、今では使う者も少ない。攻撃魔術師たちからは、盾持ちの飾りと呼ばれていた。
バルドスは、その締まりのない姿が気に食わないらしかった。
巨大な椅子の前に立ち、赤い軍装の胸を反らす。肩章には第二魔術師団長を示す三本爪の紋章。体格は厚く、声も大きい。火力魔術師にありがちな、自分の声量まで攻撃力に数えているタイプの男だった。
「攻撃力がゼロだからだ」
「結界師なので」
「敵を倒せない」
「味方を死なせません」
「地味だ」
「それは否定しません」
バルドスの眉間に、深い皺が刻まれた。
長卓の周囲には、数名の将校と書記官が座っていた。誰も口を挟まない。すでに結論は出ている、という顔だった。
アルトはそれを見て、ああ、これは本当に決定事項なのだなと思った。
ならば長引かせる必要はない。
眠いし。
「つまり、俺は不要ということですか」
「ようやく理解したか」
「理解は早い方です」
「口の減らぬ男だ」
バルドスは卓上の書類を一枚取り上げた。
分厚い戦果報告書だった。端には赤い封蝋が押されている。魔王軍の正式文書だ。アルトが三徹で書いたものより、紙質がよい。
少し腹が立った。
「貴様の戦歴を確認する。北方戦線、第二十三防衛戦。敵撃破数、ゼロ。西部峡谷会戦、敵撃破数、ゼロ。黒牙砦奪還作戦。敵撃破数、ゼロ」
「はい」
「すべてゼロだ」
「結界師なので」
同じやり取りが戻ってきた。
バルドスは報告書を卓に叩きつけた。黒曜石の卓が鈍い音を立てる。
「だが、味方損耗率は異常に低い」
「それはよかったです」
「よくない!」
怒鳴り声が会議室に響いた。
壁の魔力灯が少し揺れる。書記官がびくりと肩を震わせた。
アルトは右手の指先を、空中で軽く動かした。
人差し指と中指で、見えない障子を閉めるように空気を区切る。
派手な詠唱はない。
杖も振らない。
ただ、指先だけが静かに動く。
その瞬間、魔力灯の周囲に薄い硝子の縁のような線が走った。
灯りの揺れが止まる。
落ちたら危ない。火事になる。会議室で火事になると、報告書がまた増える。
バルドスは気づかない。
「貴様は戦場を何だと思っている」
「人が死ぬ場所です」
「敵を殺す場所だ」
「似ていますが、だいぶ違いますね」
バルドスの目が細くなった。
周囲の将校たちは、いよいよ黙り込む。空気が硬くなる。だがアルトには、その硬さがよくわからなかった。
怒らせたことはわかる。
しかし、間違ったことを言ったつもりはない。
戦場は人が死ぬ場所だ。
敵も味方も、よく死ぬ。
だからアルトは結界を張る。剣を止める。矢を弾く。炎を散らす。毒を隔てる。崩れた壁を支える。逃げ道を作る。血を流している者がいれば、その前に膜を置く。
それだけだ。
それ以上のことは、あまり考えたくなかった。
「黒牙砦奪還作戦では、貴様は敵兵三十七名を結界内に入れたな」
「はい」
「なぜだ」
「砦が崩れかけていたので」
「敵だぞ」
「崩れたら死にます」
「死なせればよかったのだ!」
バルドスは手袋をはめた拳で卓を叩いた。
今度は、長卓全体が小さく震えた。インク壺が倒れかけたので、アルトはまた指を動かした。
薄い硝子の線が、インク壺の周囲に一瞬だけ走る。
壺は倒れず、元の位置に戻った。
インクがこぼれると、書記官が泣く。
書記官は気づかず、紙を押さえている。
アルトは少し満足した。
「貴様は命令を理解していない」
「砦を守れ、という命令でした」
「敵を逃がすな、という意味でもある」
「そうでしたか」
「そうだ!」
「次から書いてください」
会議室の空気が、さらに悪くなった。
アルトは、これは言わない方がよかったかもしれない、と思った。
だが、実際、命令は正確な方がいい。結界術は境界を決める魔術だ。どこまで守るか。何を遮断するか。誰を入れて、誰を外へ出すか。条件が曖昧だと、術式が濁る。
もっとも、アルトの場合、術式が濁っても大抵は何とかなる。
何とかなるから、よけいに問題なのだろう。
「貴様の結界は強い」
バルドスは、忌々しげに言った。
「それだけは認めてやる。だが、強いだけだ。敵を焼けぬ。城壁を砕けぬ。首を取れぬ。戦果にならぬ」
「味方は生きています」
「勝たねば意味がない」
「生きていれば、次があります」
「次を作るのは勝者だ!」
言葉が会議室に叩きつけられる。
アルトは黙った。
ここで言い返しても、話は進まない。
バルドスは火力を信じている。
アルトは結界を張る。
それだけの違いだった。
ただ、魔王軍という組織では、バルドスの方が正しいのだろう。
戦場では、守る力は評価されにくい。
守った命は数字にならない。
死ななかった兵の数は、勝利の歌には入らない。
燃えなかった砦は、勲章にならない。
アルトは、そういう場所に向いていなかった。
向いていないことは、薄々わかっていた。
「よって、魔王軍第三魔術師団所属、結界術師アルト。貴様を本日付で除籍処分とする」
バルドスは別の書類を差し出した。
除籍通知書だった。
すでに署名も封印もある。
見事な手際だ。
追放だけは火力魔術より速い。
「装備品、軍服、認識票を返還しろ。私物は本日中にまとめて出ていけ」
「退職金は」
「あると思うのか」
「聞いただけです」
「ない」
「でしょうね」
アルトは首から下げていた認識票を外した。
小さな黒鉄の板。そこには、魔王軍第三魔術師団、結界術師アルト、と刻まれている。何年も身につけていたものだったが、外してみると軽かった。
思ったより、ずっと軽い。
彼はそれを卓上に置いた。
軍の外套も脱ぐ。椅子の背にかける。
将校の一人が、少しだけ意外そうな顔をした。
泣くか、怒るか、縋るか。
そういう反応を期待していたのかもしれない。
アルトはどれもしなかった。
追放は困る。
金がない。住む場所もない。次の食事の予定もない。
だが、前線へ戻らなくていい。
それは、少しだけありがたかった。
「最後に言っておく」
バルドスが低い声で言った。
「攻撃できぬ結界など、戦場では湯気にも劣る」
湯気。
アルトはその言葉だけ、少し気に入った。
湯気はいい。温かそうだ。
戦場の煙より、ずっといい。
「そうですか」
「何がおかしい」
「いえ。湯気は嫌いじゃないので」
バルドスの顔が赤くなった。
怒鳴られる前に、アルトは小さく頭を下げた。
「では、お世話になりました」
誰も返事をしなかった。
アルトは会議室を出た。
重い扉が背後で閉まる。
廊下は静かだった。魔王城特有の冷たい石の匂いがする。遠くで兵士たちの足音が響いていた。
アルトは空になった首元に手をやる。
認識票がない。
軍服もない。
所属もない。
身軽だった。
そして、ひどく眠かった。
「まず、寝る場所か」
彼はそう呟いた。
その時、廊下の端で魔力灯が一つ、ぱちりと音を立てて消えかけた。
アルトは歩きながら、右手袋の指先を振った。
人差し指と中指が、見えない障子を閉めるように動く。
薄い結界が灯の周囲を包み、魔力の流れを整える。銀糸の方陣が、手首でかすかに光った。
光は何事もなかったように戻った。
誰も見ていない。
誰にも褒められない。
戦果にもならない。
それでよかった。
アルトは欠伸をしながら、魔王城の出口へ向かった。




