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E-1 世界最強の観光聖地、その一歩目

 数週間後。

 湯守町は、以前とは別の町になっていた。

 もちろん、山の形が変わったわけではない。

 石段は相変わらず古い。

 坂道は相変わらず急だ。

 八百万亭の看板も、傷だらけのまま玄関の上に掛かっている。

 丸福堂の暖簾も、土産物屋の棚も、湯守神社の石段も、昔からそこにあったものだ。

 けれど、町の中を流れる空気が違っていた。

 朝になると、町の入口に客の列ができる。

 目的は、結界ロードだった。

 老人は杖をつきながら坂を上がり、商人の荷車は滑らず進む。子供たちは決められた三十歩の体験区間を何度も楽しむ。竜人族用の重量補助も、ドワーフ向けの低重心補助も、エルフ向けの揺れ少なめ調整も、いつの間にか案内札に書かれるようになっていた。

 通りの中央には、湯めぐり札を下げた客が歩いている。

 八百万亭。

 花見屋。

 山ノ湯。

 共同湯。

 新しく整備された極楽源泉の足湯。

 すべてを一日で回るのは難しい。

 だから、客は泊まる。

 八百万亭は、予約で埋まっていた。

 かつて空だった下駄箱には、朝から靴が並ぶ。帳場には予約札が重なり、厨房からは根菜の粥と焼き芋の匂いが流れる。湯上がり牛乳は、以前の三倍仕入れても足りない日がある。

 コハルは、毎朝それを見て一瞬だけ固まる。

 それから、すぐに走り出す。

 女将なので。

 古い旅館にも客が戻っていた。

 グランが浴場を見直し、床材を替え、手すりをつけ、排水を直した宿から順に湯めぐり札へ参加している。まだ全部ではない。準備中の宿もある。けれど、閉じっぱなしだった暖簾が少しずつ通りに戻ってきた。

 丸福堂の温泉饅頭は、昼前に売り切れることが増えた。

「こんなに作れるかねえ」

 老婆は毎日そう文句を言う。

 そう言いながら、昨日より少し多く蒸す。

 常春ふくらみ饅頭は、正式に祭り名物から通常商品の仲間入りをした。事故から生まれた菓子だとグランは今でも渋い顔をするが、売れているので誰もやめようとは言わない。

 土産物屋の主人は、新しい絵葉書を並べた。

 雪の中に浮かぶ常春ドーム。

 極楽源泉から立ち上る湯気。

 結界ロードを上がる荷車。

 八百万亭の古い看板。

 その横には、昔の湯守町の絵葉書も置かれている。

 昔と今。

 ふたつ並べて買う客が多かった。

 湯守神社では、湯守印に新しい印が増えた。

『極楽源泉』

 神社の管理人は、最初こそ大げさな名だと言っていたが、今では誰より丁寧にその印を押している。

 グランは、八百万亭の食堂の隅で新しい図面を広げていた。

 大浴場の設計図である。

 紙には、湯船の配置、排水、手すり、種族別の深さ、外気浴スペース、サウナ、水風呂、足腰の弱い客用の段差、竜人族用の広めの動線まで書き込まれている。

 コハルが覗き込む。

「すごいです。もう温泉の城ですね」

「城にするな。浴場だ」

「でも、世界最強の大浴場って感じがします」

「最強とか言うな。客が無茶をする」

「では、世界最高で」

「そっちも危ない」

 グランは文句を言いながら、図面の端に『極楽大浴場案』と書き込んだ。

 本人は気づいていないふりをしていた。

 ミナはギルドから正式な書類を持ってきた。

「ギルド職員および登録冒険者向けの福利厚生契約です」

 コハルは帳場で目を輝かせた。

「福利厚生」

「定期利用契約です。疲労回復風呂、装備乾燥、快眠半日プラン、魔力循環調整。ギルドとして月額で契約したいと」

「月額」

 コハルの耳が立った。

 完全に商売の耳だった。

 アルトは横から言う。

「計算を間違えるなよ」

「失礼ですね。今回はミナさんがいます」

「自力ではないのか」

「正確性を買いました」

 ミナは真面目に頷いた。

「帳簿は私も確認します」

「助かる」

 アルトが即答したので、コハルは少しだけ不服そうだった。

 メルヴァは、また来ていた。

 本人は視察と言っている。

 だが、八百万亭のサウナ利用記録には、彼女の名前がすでに五回書かれている。

 この日も、サウナと水風呂と外気浴を終えたあと、湯守茶を飲んでいた。

「異常はない」

 無表情で言う。

 コハルはにこにこしている。

「視察結果ですね」

「そうだ」

「次回の視察予約も入れておきますか」

「必要だ」

「いつになさいますか」

「来週」

 即答だった。

 アルトは言った。

「もう湯治だろ」

「視察だ」

「毎週視察するのか」

「継続的確認が必要だ」

「便利な言葉だな」

 誰も反論しなかった。

 反論しても無駄だからである。

 リーゼロッテからは、正式な礼状が届いた。

 帝国第三皇女の名で、八百万亭と湯守町へ感謝が記されていた。湯治地としての価値を認める文言もあり、帝国からの客が今後さらに増える可能性があるという。

 コハルは礼状を両手で持って震えた。

「アルトさん」

「何だ」

「字が綺麗です」

「そこか」

「内容もすごいです。でも字が綺麗です」

「皇女だからな」

「皇女様って、字も皇女様なんですね」

 礼状は、八百万亭の帳場奥に飾られることになった。

 ただし、コハルはその横に小さく丸福堂の納品書も貼った。

 アルトが聞いた。

「なぜ並べた」

「どちらも大事なので」

 その答えに、アルトは何も言わなかった。

 悪くないと思ったからだ。

 八百万亭は、今日も忙しい。

 朝は冒険者再起動プランの出発対応。

 昼は商人の荷物保護客室の準備。

 午後は足腰やすらぎ風呂の客。

 夕方は湯めぐり札の整理。

 夜は快眠客室とサウナの温度調整。

 コハルは走る。

 ミスもする。

 帳簿も時々怪しい。

 それでも、町を動かしている。

 アルトは、少し逃げようとした。

 八百万亭の裏口から、そっと外へ出ようとしたのだ。

 温泉に入りたい。

 昼寝もしたい。

 可能なら、誰にも呼ばれずに一時間ほど何もしないでいたい。

 裏口の戸に手をかけた瞬間、背後から声がした。

「アルトさん」

 逃げられなかった。

 振り返ると、コハルが紙束を抱えて立っていた。

 顔は笑っている。

 非常に危険な笑顔だった。

「何だ」

「次の企画です」

「聞かない」

「空中露天風呂です!」

 アルトは戸に手をかけたまま止まった。

「なぜ空に風呂を作る」

「景色がいいからです!」

「落ちる」

「落ちないようにするのが結界師さんのお仕事です!」

「俺を床扱いするな」

「床ではありません。空中安全基盤です」

「言い換えただけだ」

「まずは空中足湯からでも」

「縮小しても空にあるだろ」

「試験運用です」

「便利に使うな、その言葉を」

 コハルは笑った。

 その笑顔は、もう潰れかけの宿をひとりで背負っていた若女将のものではなかった。

 客が戻る喜びを知り、町に頭を下げる痛みを知り、祭りを動かし、魔王軍を前に立ち、町を守られた人の笑顔だった。

 強くなった。

 それでも、よく走り、よく慌て、よく商売の匂いを嗅ぐ。

 アルトはため息をついた。

「まず、今ある湯の安全確認が先だ」

 コハルの顔が明るくなる。

「つまり、その次なら検討ですね」

「違う」

「聞きました。検討です」

「言っていない」

「帳簿に書いておきます」

「書くな」

 彼女はもう走り出していた。

 帳場へ向かいながら、大きな声で言う。

「グランさん! 空中露天風呂の安全構造について相談があります!」

 食堂の奥から、グランの怒号が返る。

「馬鹿言うな!」

「相談だけです!」

「相談から事故が始まるんだ!」

 町の中に笑いが広がった。

 アルトは裏口の前で立ち尽くした。

 逃げる機会を失った。

 だが、不思議と嫌ではなかった。

 外では、結界ロードに客の列ができている。

 常春ドームの下では、季節外れの花が咲いている。

 丸福堂から甘い湯気が上がっている。

 土産物屋の絵葉書が風に揺れている。

 神社の石鉢からは、極楽源泉の湯が静かにあふれている。

 八百万亭の看板は、今日も玄関の上にある。

 古くて、傷だらけで、少しだけ煤けている。

 それでも、そこにある。

 客が見上げる。

 町人が通り過ぎる。

 コハルが毎朝拭く。

 アルトは、その看板を見た。

 攻撃力ゼロ。

 追放者。

 戦場に向かなかった結界師。

 その言葉は、もう彼のすべてではなかった。

 ここでは、湯を温める者。

 道をつなぐ者。

 眠りを守る者。

 町を焼かせなかった者。

 そして、たぶん。

 帰ってきていい者。

 帳場から、コハルの声が飛んだ。

「アルトさん! 空中足湯の試算、お願いします!」

「やらない」

「試算だけです!」

「やらない」

「温泉入り放題ですよ!」

「もう入っている」

「一生分です!」

 アルトは少しだけ黙った。

 それから、ゆっくり帳場へ向かった。

「試算だけだ」

 コハルの耳が、勢いよく立った。

「はい!」

「作るとは言っていない」

「はい!」

「聞いていないな」

「はい!」

 湯守町は、世界最強の観光聖地になったわけではない。

 まだ、その一歩目だった。

 それでも、町には客の笑い声があり、湯気があり、灯りがあり、帰ってきたいと思える場所があった。

 そして、その中心で。

 攻撃力ゼロの結界師は、今日も面倒そうな顔で、温泉街の未来を支えていた。



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