E-2 八百万亭の夜
夜の八百万亭は、昼間とは別の顔をしていた。
客は寝静まっている。
廊下には、まだ湯気の匂いが残っていた。木の梁に染みた温泉の匂い。畳の乾いた匂い。厨房からかすかに流れてくる根菜の甘い匂い。湯上がりの客が通ったあとに残る、牛乳瓶の冷たい気配。
帳場の灯りは落とされている。
ただ、玄関の小さな灯りだけが残っていた。
八百万亭の看板を、下から淡く照らしている。
古く、傷だらけの看板。
火にも、雪にも、時間にも耐えて、まだそこにある。
アルトは露天風呂の縁に立っていた。
客が使う時間は終わっている。
湯面には、夜の灯りが揺れていた。湯気が細く立ち上がり、露天の上でほどけていく。空には雲が流れ、ところどころに星が見えた。
山の夜風は冷たい。
だが、露天風呂の周りだけは冷えすぎない。
アルトは指先を動かした。
湯温を少しだけ整える。
熱すぎず、ぬるすぎず。
湯気がきれいに立ち、夜風に持っていかれすぎない程度に。
湯面が、静かに揺れた。
こぽ、と源泉の音がする。
以前より力のある音だった。
バルドスの禁呪から流し込まれた熱は、もう暴れていない。町の地下でゆっくり馴染み、源泉脈の中を巡っている。八百万亭の湯も、極楽源泉も、丸福堂の裏湯も、神社の石鉢も、今はそれぞれの温度で息をしていた。
壊すための火は、温める湯になった。
馬鹿げた話だ。
けれど、湯守町ではそうなった。
アルトは湯面を見ていた。
そこへ、足音がした。
軽い足音。
急いではいない。
それでも、どこか忙しさの癖が残っている歩き方だった。
「まだ起きていたんですね」
コハルだった。
寝間着ではない。仕事着でもない。薄い羽織を肩にかけ、髪を少しだけほどいている。昼間の勢いはない。夜の空気に合わせるように、声も静かだった。
「湯を見ていた」
「異常ですか」
「いや」
「なら、よかったです」
コハルは露天の縁まで来て、町の方を見下ろした。
八百万亭は、少し高い場所にある。
露天風呂の端からは、湯守町の通りが見えた。
以前は暗かった道。
雪に埋もれ、店の戸が閉まり、灯りの少なかった通り。
今は違う。
丸福堂の軒先に、小さな灯りが残っている。
土産物屋の二階にも、人の気配がある。
古い旅館の窓に、客室の灯りがひとつともっている。
結界ロードの赤い目印布が、夜風に小さく揺れている。
神社の石鉢からは、白い湯気が上がっている。
町全体が、眠っていた。
死んだような眠りではない。
明日また客を迎えるための眠りだった。
コハルは、しばらくその景色を見ていた。
「戻ったんじゃないんですね」
ぽつりと言った。
アルトは彼女を見る。
「何が」
「この町です」
コハルは、町の灯りから目を離さなかった。
「昔に戻ったんじゃなくて、新しくなったんですね」
その声には、もう寂しさだけではなかった。
父と母がいた頃の八百万亭。
灯りが並んでいた昔の湯守町。
帳場の隅で温泉饅頭を食べながら見ていた景色。
それは戻らない。
けれど、今の町には今の灯りがある。
結界ロードがあり、極楽源泉があり、常春ドームがあり、冒険者再起動プランがあり、サウナで落ちる魔王軍幹部がいる。
昔にはなかったものばかりだ。
それでも、ちゃんと湯守町だった。
アルトはうなずいた。
「ああ」
「少し、怖かったんです」
コハルは笑った。
小さな笑いだった。
「変えすぎたら、父さんと母さんの宿じゃなくなる気がして」
アルトは答えなかった。
湯面が揺れる。
夜風が、露天の上を通る。
「でも、今日、お客様が看板を見上げて言ってくださったんです。いい宿ですねって」
コハルは八百万亭の看板の方を見た。
「古い看板のままなのに。廊下もまだ鳴るのに。帳場も狭いのに」
「いい宿だろ」
アルトは言った。
コハルが振り向く。
「アルトさんが、そういうことを言いますか」
「言った」
「言いましたね」
「ああ」
コハルは少しだけ嬉しそうにした。
それから、また町を見た。
「新しくなっても、残るものはあるんですね」
「あるんじゃないか」
「はい」
二人は、しばらく黙っていた。
露天風呂の湯気が、夜の中へ静かに上がっていく。
遠くで、結界ロードの灯りがひとつ瞬いた。夜間安全結界が切り替わったのだろう。町の端で、運び屋の詰所の戸が閉まる音がした。
八百万亭の中では、客が眠っている。
深い眠りだった。
誰かがまた明日、朝食を食べ、湯に入り、土産を買い、坂を下りていく。
そして、たぶん言う。
また来る、と。
コハルが、少し照れたように口を開いた。
「アルトさん」
「なんだ」
「ここ、あなたの宿でもありますからね」
アルトは、少し黙った。
その言葉は、湯気の中にゆっくり残った。
あなたの宿。
帰ってきていい場所。
泊まる場所ではなく。
居ていい場所。
アルトは、町の灯りを見た。
魔王軍には、そういう場所はなかった。
戦場にも、兵舎にも、会議室にも、雪の山道にもなかった。
けれど、ここにはある。
八百万亭の古い看板。
帳場の狭い机。
湯上がり牛乳。
温泉饅頭。
面倒な改装計画。
空中足湯の試算。
コハルの声。
アルトは、短く答えた。
「……そうか」
コハルは、それ以上何も言わなかった。
その代わり、少しだけ笑った。
アルトは指先を動かした。
露天風呂の周りに、一枚だけ結界を張る。
夜風がやわらかくなる。
山から下りてくる冷気は、湯気の手前で角を失い、肌を刺す前にほどける。湯面の熱は逃げすぎず、灯りは湯気の中で淡く滲む。
町の灯りが、湯面に映った。
八百万亭の露天風呂から見える湯守町は、静かだった。
けれど、寂しくはなかった。
湯気が上がる。
灯りが残る。
誰かが眠っている。
誰かが明日、また帰ってくる。
コハルは町を見ていた。
アルトも、同じ町を見ていた。
昔には戻らない。
けれど、新しくなったこの町には、帰ってきたいと思える温かさがあった。
湯守町は、今日もあたたかい。




