10-4 守る力の価値
火は消えた。
湯気だけが残った。
湯守町の空を赤く染めていた禁呪は、もうない。黒赤い炎はアルトの結界に分解され、熱だけを源泉脈へ流され尽くしていた。
空は、冬の灰色へ戻っている。
だが、町は以前の冬には戻らなかった。
八百万亭の浴場から、白い湯気が立っている。
丸福堂の裏手からも、土産物屋の奥からも、湯守神社の石鉢からも、新しい湯気が上がっている。古い旅館の屋根の上にも、濃い湯気が揺れていた。
湯守町のあちこちで、源泉が息を吹き返していた。
バルドスは、湯に濡れたまま拘束された。
黒い軍装は重く肌に張りつき、赤い肩章からは湯が滴っていた。火力魔導兵たちは、もう命令を聞かなかった。何人かは視線を落とし、何人かは魔導砲を地面へ置いた。
メルヴァがバルドスの前に立つ。
その顔は冷静だった。
サウナで整っていた時の顔ではない。魔王軍幹部として、軍の規律を背負う者の顔だった。
「バルドス・グラント。独断による私兵運用、正式命令なき民間地接収行為、軍用禁呪の無許可発動、帝国関係者への攻撃未遂。以上の件について、総司令部へ身柄を送る」
バルドスは歯を食いしばった。
「私の判断は、魔王軍の利益にかなう」
「利益と暴走は違う」
メルヴァは短く言った。
「それに、お前は失敗した」
その言葉に、バルドスの顔が歪んだ。
失敗。
火力主義者にとって、最も認めがたい言葉だったのだろう。
彼はアルトを睨んだ。
だが、もう炎は出なかった。
出しても湯になる。
その事実が、彼の魔術師としての誇りを折っていた。
リーゼロッテの使者も、正式な抗議文をメルヴァへ渡した。帝国客への攻撃未遂。皇女推薦地への軍事行動。政治的にも、バルドスは逃げ場を失っていた。
バルドスは魔王軍兵に囲まれ、町の入口へ連れていかれる。
結界ロードを下る時、足元が少しだけ滑りかけた。
アルトは無意識に滑り止め結界を張った。
バルドスがそれに気づき、屈辱に顔を歪める。
「貴様……」
「転ばれると面倒だ」
アルトは淡々と言った。
バルドスは何も返せなかった。
魔王軍の黒い列が、湯守町から遠ざかっていく。
その背中を、町人たちは黙って見送った。
完全に姿が消えるまで、誰も大きな声を出さなかった。
雪の街道に黒い軍装が小さくなり、やがて山の向こうへ消える。
その瞬間だった。
丸福堂の老婆が、ぽつりと言った。
「……湯が、出たねえ」
誰かが笑った。
次に、運び屋の男が拳を上げた。
「町が焼けなかったぞ!」
ジンが叫んだ。
「八百万亭も無事だ!」
土産物屋の主人が、店の奥から湯気の立つ手湯を見て声を上げた。
「うちにも湯が戻った!」
神社の管理人は、石鉢の前で静かに手を合わせていた。
グランが大声で言う。
「浮かれるな! 湯量と温度を測るまでは客を入れるな!」
「今それを言うのかよ!」
ジンが笑う。
「今言わねえと、誰かが入るだろうが!」
グランは怒鳴り返した。
町に笑いが広がった。
恐怖がほどけていく。
固まっていた客たちも、少しずつ外へ出てきた。湯気の上がる町を見て、驚き、笑い、手を叩く。誰かが「すごい」と言い、誰かが「また来る」と言った。
湯守町は、ほとんど被害を受けていなかった。
看板は無事。
宿も無事。
道も無事。
客も町人も、大きな怪我はない。
それどころか、源泉が増えた。
町は、奪われなかった。
焼かれなかった。
守られた。
歓声が上がる。
湯気の中で、町人たちが互いに肩を叩き合う。丸福堂の老婆は涙を拭きながら饅頭を配り始めた。土産物屋の主人は、震える手で新しい手湯の周りを拭いていた。ミナは冒険者たちの無事を確認し、ジンは「今日の飯は大盛りだよな」と場違いなことを言って怒られていた。
その中で、アルトだけが少し離れて立っていた。
町の中心。
湯めぐり道の交差点。
極楽大結界を展開した場所だった。
身体は動く。
魔力も、まだ残っている。
消耗していないわけではないが、倒れるほどではない。
それなのに、妙に疲れていた。
戦場の後の疲れとは違う。
砦を守った後でも、部隊を撤退させた後でも、こんな疲れ方はしなかった。あの時は、疲れより先に次の命令が来た。正しかったかどうかを考える間もなく、報告と叱責と移動が続いた。
今は違う。
町が残っている。
それを、見る時間がある。
八百万亭の看板。
丸福堂の湯気。
土産物屋の手湯。
神社の石鉢。
結界ロード。
足湯。
客の靴。
コハルの声。
自分が守ったものが、目に見える場所に残っている。
そのことが、ひどく重かった。
悪い重さではない。
ただ、胸の奥にゆっくり沈んでくる重さだった。
守った。
たぶん、本当に。
アルトは、初めてそう思った。
「アルトさん」
声がした。
振り向くと、コハルが立っていた。
前掛けは汚れている。髪も少し乱れている。目元は赤い。泣いたのか、泣きそうなのか、どちらともつかない顔だった。
それでも、彼女はまっすぐ立っていた。
八百万亭の女将として。
湯守町の代表として。
そして、アルトの前に立つ一人の人間として。
コハルは深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
アルトは、少し困った。
礼を言われると、いつも困る。
だから、いつものように言った。
「宿代の分だ」
コハルは顔を上げた。
少しだけ、目を丸くする。
それから、小さく笑った。
「もう何泊分ですか」
「計算は任せる」
「私に任せると、一生分になりますよ」
冗談のつもりだったのだろう。
少しだけ、いつもの調子を戻そうとした言葉だった。
アルトは、町を見た。
八百万亭の湯気。
新しい源泉。
客の笑い声。
コハルの立つ玄関。
そして、言った。
「なら、それでいい」
コハルが固まった。
完全に固まった。
耳まで動かない。
通りの向こうで、ジンが何かを言いかけ、ミナに肘で止められた。丸福堂の老婆はにやりとした。グランはわざとらしく咳払いをした。
アルトは、自分が何を言ったのか、少し遅れて理解した。
だが、取り消す気にはならなかった。
コハルは、しばらく何も言わなかった。
それから、ゆっくり顔を赤くした。
「それは」
「何だ」
「住み込み看板結界師の契約更新、ということでよろしいですか」
「たぶん」
「たぶん」
「正式な契約書は、あとで作れ」
「作ります」
コハルは小さく頷いた。
それから、目元を押さえる。
「すみません。ちょっと、今は商売の話に逃げます」
「そうか」
「はい。女将なので」
声は震えていた。
けれど、笑っていた。
二人の間に、何かが変わっていた。
恋人という言葉には、まだ遠い。
約束というには、少し曖昧だ。
けれど、アルトにとって八百万亭は、もうただの滞在先ではなかった。
コハルにとってアルトは、もう拾った結界師ではなかった。
帰ってきていい場所。
そう言われた場所に、彼は残ることを選んだ。
そこへ、グランの怒鳴り声が飛んできた。
「おい、若女将!」
コハルは慌てて振り向く。
「はい!」
「新しい湯口、三つは使える。二つは危ない。ひとつは湯量が多すぎる。名前をつける前に囲いを作れ!」
「名前は大事です!」
「安全が先だ!」
「はい!」
コハルは走り出しかけ、すぐに止まった。
そして、町の人々へ向かって声を張る。
「皆さん! 新しい源泉の確認が取れました! 安全確認が済んだ場所から順に、湯守町の新しい湯として整備します!」
町人たちが集まる。
丸福堂の老婆。
土産物屋の主人。
運び屋たち。
旅館主。
神社の管理人。
ミナ。
ジン。
メルヴァ。
リーゼロッテの使者。
皆が、湯気の上がる町を見る。
コハルは両手を握った。
「まず、名前を決めましょう」
グランが顔をしかめる。
「だから安全が先だと」
「安全確認しながら決めます!」
「器用なことを言うな!」
コハルは胸を張った。
「新しい源泉の名前は――」
少し間を置く。
町の人々が彼女を見る。
アルトも、嫌な予感がして見た。
コハルは満面の笑みで言った。
「極楽源泉です!」
アルトは嫌そうな顔をした。
「大げさだ」
「いい名前です!」
「大げさだ」
「町を救った源泉ですよ? 大げさなくらいでちょうどいいです!」
丸福堂の老婆が頷いた。
「いいじゃないか。極楽源泉」
土産物屋の主人も言う。
「絵葉書にしやすいな」
運び屋の男が笑う。
「客に説明しやすい」
神社の管理人は、石鉢の湯気を見ながら静かに言った。
「湯守印にも入れよう」
グランは腕を組んで唸った。
「悔しいが、覚えやすい」
ミナは帳面に書き留めた。
「ギルド掲示板にも載せやすいですね」
ジンは笑った。
「極楽源泉、入りたい!」
「安全確認後です!」
コハルが即座に返す。
町人たちが笑った。
アルトはため息をついた。
「決まりか」
「決まりです!」
コハルは笑った。
その笑顔は、初めて八百万亭の湯が温かくなった朝のものに似ていた。
けれど、あの時より少し強い。
自分ひとりで抱えていた宿ではない。
町と一緒に動かしている宿の女将の顔だった。
湯守町の空には、もう禁呪の赤はない。
冬の雲の下、あちこちから湯気が上がっている。
八百万亭の看板は無事だった。
結界ロードには、また子供が集まり始めている。
丸福堂の蒸し器から甘い匂いが漂う。
新しい源泉の湯気が、町の灯りに混じっていた。
攻撃力ゼロの結界師が守った町は、焼け残ったのではない。
温まった。
そして、その温かさを、町の人々は新しい名で呼び始めた。
極楽源泉。
湯守町は、またひとつ名物を手に入れた。




