10-3 攻撃力ゼロの勝利
バルドスの禁呪は、まだ空に残っていた。
黒赤い炎は、湯守町の上空で結界に受け止められ、分解され、熱だけを源泉脈へ流され続けている。
もはや、町を焼く火ではなかった。
湯を沸かす熱だった。
八百万亭の浴場からは、濃い湯気が上がっている。丸福堂の裏湯からも、土産物屋の手湯からも、神社の石鉢からも、新しい湯気が立っている。
湯守町は焼けていない。
むしろ、湧いていた。
その光景を前に、火力魔導兵たちは動けなくなっていた。
彼らは、バルドスの私兵だった。
火力を信じ、破壊を成果とし、燃やすことに価値を置いてきた兵たちだった。
その彼らの前で、最強火力の禁呪が、温泉街の源泉強化に使われている。
魔導砲を構える腕が下がった。
誰かが呟く。
「……撃っても、湯になるのか」
別の兵が、魔導砲の砲身を見下ろす。
「なら、何を撃てばいい」
戦意が、音もなく抜けていった。
攻撃が防がれたからではない。
攻撃の意味を奪われたからだった。
バルドスは歯を食いしばる。
「構えろ」
兵たちは動かない。
「構えろと言っている!」
怒号が響く。
それでも、誰もすぐには魔導砲を上げなかった。
メルヴァが一歩前へ出た。
彼女の手には、数枚の書類があった。魔王軍の封蝋が押されたもの。命令系統の記録。兵站移動の許可書。第二魔術師団の内示書。
「そこまでだ、バルドス」
声は冷静だった。
バルドスが睨む。
「メルヴァ。貴様、何のつもりだ」
「お前の独断専行の証拠を押さえた」
メルヴァは書類を掲げた。
「湯守町接収に関する正式命令は存在しない。第二魔術師団の演習名目で私兵を動かし、辺境温泉地へ進軍。さらに軍用禁呪を民間地へ向けて発動した」
「軍事的必要があった」
「ない」
メルヴァは即答した。
「ここには魔王軍総司令部の承認も、魔王直轄印もない。お前個人の判断だ」
バルドスの顔が歪む。
「戦略的価値を見れば、誰でも理解する」
「価値を理解することと、奪うことは違う」
その言葉に、町の人々が静かに息を呑んだ。
さらに、町の入口から蹄の音が聞こえた。
帝国の紋章をつけた騎馬の使者が、結界ロードを上がってくる。馬は疲れているが、道に助けられて転ばず進んでいた。
使者は坂の上で馬を止め、封書を掲げた。
「帝国第三皇女リーゼロッテ・フォン・エルディア殿下より、抗議文を預かっております!」
バルドスの眉が跳ねる。
使者は続けた。
「湯守町には、帝国皇族推薦による湯治客および商人が滞在中。魔王軍兵による接収行為、および民間湯治地への禁呪行使は、帝国客への攻撃未遂として正式に抗議対象となります!」
ざわめきが広がった。
政治の言葉だった。
町の人々には、細かな外交手続きまではわからない。
だが、バルドスがさらに追い詰められたことはわかった。
魔王軍内部では、メルヴァが証拠を握っている。
対外的には、リーゼロッテの名で抗議が届いた。
軍事的には、禁呪はアルトに防がれ、熱源として利用された。
兵たちは戦意を失い、町は焼けていない。
バルドスは、政治的にも、軍事的にも、魔術的にも詰んでいた。
だが、彼は認めなかった。
火力主義者は、自分の火が負けたことを認められなかった。
「黙れ」
低い声だった。
「全員、黙れ」
彼の足元から赤い魔力が噴き上がる。
禁呪の大部分はアルトの極楽大結界に捕らえられている。だが、バルドス自身にはまだ魔力があった。
個人攻撃。
軍でも、政治でも、町でもない。
最後に残ったのは、アルトへの憎悪だった。
「アルト」
バルドスは、燃えるような目で彼を見た。
「貴様は、私を倒せない」
彼の右手に、赤い炎の槍が生まれる。
「攻撃できぬ貴様に、私は倒せん!」
炎の槍が走った。
速い。
町を焼く禁呪とは違う。
一点突破の個人攻撃。
結界師本人を貫くための火力魔術。
コハルが叫ぶ。
「アルトさん!」
アルトは動かなかった。
いや、動いたのは足元だった。
バルドスの足元。
結界ロードの一部が、かすかに光る。
そこは、祭りの日に子供たちが遊びすぎて渋滞を起こした場所だった。老人の歩幅を助け、荷車の重さを逃がし、竜人族の体重にも耐えた結界。
今、その下には、禁呪から流された膨大な熱が巡っている。
アルトは、バルドスの炎の槍を正面から撃ち落とさなかった。
攻撃しない。
炎の魔力を、足元の結界へ流した。
流れを変える。
熱を逃がす。
源泉脈のひとつへ落とす。
ただし、全部は落とさない。
ほんの少しだけ、上へ返す。
地面が鳴った。
こぽ。
バルドスの足元で、小さな泡が出た。
彼は一瞬、何が起きたのかわからない顔をした。
次の瞬間。
どん、と熱湯が噴き上がった。
温泉だった。
湯守町の源泉が、バルドスの足元から派手に吹き出した。
もちろん、命を奪う温度ではない。
アルトは調整していた。
熱い。
かなり熱い。
だが、火傷で死ぬような温度ではない。
勢いはあるが、骨を砕くほどではない。
吹き飛ばされ、転がり、全身ずぶ濡れになる程度。
その程度だった。
バルドスは、見事に宙へ浮いた。
「なっ――」
言葉は最後まで出なかった。
温泉の柱に押し上げられ、軍装の裾がめくれ、赤い外套が湯気に包まれる。手に作りかけていた炎の槍は、湯気の中でしゅう、と音を立てて消えた。
そして、彼は通りの端へ転がった。
どしゃり。
湯しぶきが上がる。
黒い軍装はずぶ濡れ。
髪は顔に貼りつき、肩章から湯が滴っている。
火力魔導兵たちは、呆然とそれを見ていた。
町も、しばらく沈黙した。
最初に笑ったのは、やはりジンだった。
「温泉で吹っ飛んだ……」
その声をきっかけに、ざわめきが広がる。
丸福堂の老婆が口元を押さえた。
土産物屋の主人が肩を震わせた。
グランは腹を抱えて笑った。
「火力馬鹿が、湯あたりしたぞ!」
メルヴァでさえ、わずかに目を逸らした。
たぶん笑いをこらえていた。
バルドスは、湯気の中で起き上がろうとした。
だが、足元がぬるりと滑る。
アルトはすぐに滑り止め結界を張った。
転んで頭を打たれると困る。
バルドスはそれにも気づき、さらに屈辱で顔を歪めた。
「貴様……攻撃したな……!」
アルトは首を横に振った。
「攻撃はしていない」
町の視線が、アルトへ集まる。
彼は淡々と言った。
「温泉が出ただけだ」
沈黙。
コハルが隣で小声で言った。
「言い訳としては強引です」
「そうか」
「はい」
けれど、彼女の口元は笑っていた。
怖がっていた町にも、笑いが戻っていた。
攻撃力ゼロ。
その言葉は、バルドスがアルトを蔑むために使ったものだった。
だが今、アルトは誰も焼かず、誰も殺さず、町も壊さず、バルドスを止めた。
攻撃しなかった。
守った。
火を湯に変えた。
そして最後に、温泉で吹き飛ばした。
メルヴァが前へ出る。
「バルドス・グラント。魔王軍第七機動軍副司令メルヴァ・レギオンの名において、貴様の独断専行、民間地への禁呪行使、および命令書偽装の疑いを総司令部へ報告する」
バルドスは湯気の中で、歯を食いしばった。
リーゼロッテの使者も書状を掲げる。
「帝国側も、正式に抗議いたします」
火力魔導兵たちは、もう動かなかった。
むしろ、何人かは魔導砲を下ろしていた。
その視線は、バルドスではなく、湯守町へ向いている。
焼けなかった町。
湯気の上がる町。
自分たちの火力を、温泉に変えた町。
彼らは、火力だけでは説明できないものを見てしまった。
アルトは、町の中心で極楽大結界を少しずつ緩めた。
禁呪の熱はもうほとんど源泉へ流し終えている。
上空の黒赤い炎は薄くなり、空の赤も消え始めていた。
残ったのは、湯気だった。
町のあちこちから、白い湯気が上がっている。
八百万亭。
丸福堂。
土産物屋。
神社。
古い旅館。
足湯。
結界ロードの脇に湧いた新しい小さな湯口。
湯守町は、バルドスの禁呪によって焼かれなかった。
代わりに、さらに温泉街になった。
コハルは、その光景を見て、深く息を吸った。
そして、まだ湯気の中で呆然としている客たちへ向かって声を張った。
「皆さん! ただいま源泉が増えました!」
アルトが横を見る。
「今、案内するのか」
「はい!」
コハルの声は震えていた。
けれど、もう恐怖だけではなかった。
「危険箇所を確認次第、新しい湯めぐり候補としてご案内します! 今は足元にお気をつけください!」
グランが叫ぶ。
「先に俺が見る! 勝手に客を入れるな!」
「お願いします!」
町が動き出した。
騒ぎの後始末として。
新しい源泉の確認として。
そして、温泉街として。
アルトはその様子を見た。
バルドスを倒した感覚はなかった。
勝ったという実感も、薄い。
ただ、町が残っている。
湯が出ている。
コハルが声を出している。
それで十分だった。
攻撃力ゼロの結界師は、誰も焼かずに勝った。




