10-2 火を湯に変える
禁呪は、まだ消えていなかった。
バルドスは、それに気づいた。
自分の禁呪が防がれた。
それだけなら、まだ理解できた。
結界師である以上、防ぐことはある。どれほど強大な火力でも、相性や術式の重ね方次第で、一時的に受け止められることはある。
だが、今、起きていることは違った。
黒赤い炎は、湯守町の上空で止まっている。
透明な天蓋にぶつかり、町へ落ちることはできない。そこまではいい。問題は、その先だった。
炎が減っていない。
消えていない。
ただ、形を変えられている。
禁呪の外側にまとわりついていた黒い敵意は、結界の表面で削ぎ落とされていた。燃やせ、砕け、奪えという術式命令が、町の内側へ入る前に剥がされていく。
赤い熱だけが残る。
純粋な熱量。
それが、アルトの結界の中で細い流れに分けられ、町の地下へ落ちていく。
「何をしている……」
バルドスの声が、初めて揺れた。
アルトは答えなかった。
町の中心で、片手を上げている。
その姿に、派手さはない。叫びもしない。足元も動かない。攻撃魔法のような光もない。
ただ、町全体が彼の術式の中にあった。
禁呪の熱は、町の上空で受け止められ、分解され、整えられる。
火ではなくなる。
破壊ではなくなる。
熱になる。
その熱が、源泉脈へ流れ込んだ。
最初に反応したのは、八百万亭の浴場だった。
湯船が、低く鳴った。
石造りの湯船の底から、こぽ、と泡が上がる。
それはひとつだけではなかった。
こぽ。
こぽこぽ。
湯面が揺れる。
白い湯気が増した。
それまで静かに立ち上っていた湯気が、天井の梁へ向かって厚くふくらむ。浴場の古い木が、湿気を吸って小さく鳴った。
脱衣所の外にいた客が声を上げた。
「湯気が……!」
次に、足湯だった。
通りの途中に作られた小さな足湯から、ふわりと湯気が上がる。
昼間より湯量が増していた。湯の流れが強くなり、縁からあふれそうになる。アルトの結界がすぐに受け止め、ちょうどよい水位に整える。
足湯に座っていた老婦人が、足元を見た。
「まあ……あったかい」
その声は、恐怖の中で奇妙に柔らかかった。
丸福堂の前でも、地面がかすかに震えた。
老婆が蒸し器から顔を上げる。
「何だい」
店の裏手に、古い井戸があった。
昔は湯が出たという。今は枯れ、井戸枠だけが残っていた。店の者も、ほとんど使わなくなっていた場所だった。
その井戸の奥から、音がした。
こぽ。
老婆が目を見開く。
もう一度。
こぽこぽ。
湯気が上がった。
枯れていたはずの井戸から、温かい湯気が立っている。
「まさか」
老婆は蒸し器の蓋を放り出すように置き、井戸へ駆け寄った。
中を覗く。
底に、水があった。
いや、水ではない。
湯だ。
湯守町の湯だった。
「出た……」
老婆の声が震えた。
「丸福の裏湯が、戻った……」
土産物屋の主人も、店の奥で異変に気づいた。
床下から、湿った石の匂いが上がってくる。
昔、店の裏には小さな手湯があったという。観光客が手を温め、湯守印を押した絵葉書を買っていく場所だった。源泉が弱ってから枯れ、板で塞がれていた。
その板の隙間から、湯気が漏れていた。
主人は膝をつき、板を外す。
温かい湯が、そこにあった。
神社の石段でも、変化が起きた。
湯守神社の管理人が、社の脇にある古い石鉢を見た。
祭りの日、そこにはただの雪解け水が溜まっていた。昔は湯が流れ、参拝客が手を温めたという石鉢。
その水面が、ゆっくり揺れた。
白い湯気が上がる。
管理人は、震える手で石鉢に触れた。
「あたたかい」
声が、老いていた。
けれど、その奥に子供のような驚きがあった。
「湯守の湯だ」
湯守町全体が、鳴っていた。
大きな音ではない。
地面の下で、温かいものが目を覚ましていく音。
源泉脈が熱を受け取り、長い間弱っていた湯の流れが、ひとつずつ息を吹き返していく。
八百万亭。
丸福堂の裏湯。
土産物屋の手湯。
神社の石鉢。
古い旅館の浴場。
共同湯。
足湯。
町のあちこちから、白い湯気が上がった。
湯守町の空は、まだ赤い。
禁呪の炎が結界の外側で流れている。
だが、その下では湯が湧いている。
破壊の熱が、町を焼くのではなく、町を温めている。
コハルは、八百万亭の玄関前でその光景を見ていた。
息をすることも忘れていた。
通りの向こう、丸福堂の裏から湯気が上がる。
土産物屋の奥からも湯気。
神社の石段にも、白い息のような湯気。
古い旅館の屋根からも、昨日より濃い湯気が立つ。
湯守町が。
源泉が。
戻っていく。
いや、戻るだけではない。
もっと強く、もっと広く、町全体へ熱を巡らせていく。
「源泉が……!」
コハルの声が震えた。
涙がこぼれそうになっている。
だが、彼女は目を逸らさなかった。
グランが浴場の入口から飛び出してきた。
彼は石段に手をつき、地面の熱を確かめる。次に八百万亭の浴場の湯気を見て、丸福堂の方を見た。
そして、低く笑った。
「馬鹿げてやがる」
顔は笑っている。
職人が、自分の理解を超えたものを見た時の笑いだった。
「火山でも起こしたのか」
アルトは町の中心で、空を見たまま答えた。
「熱源をもらった」
「もらった?」
グランが笑う。
「あの禁呪をか」
「ああ」
バルドスの顔が歪んだ。
彼は、自分の禁呪を見上げた。
黒赤い炎は、まだ流れ続けている。
だが、それはもう攻撃として町へ届いていない。結界の内側で熱だけを抜かれ、源泉へ落とされている。
つまり、禁呪は消されたのではない。
防がれただけでもない。
利用されている。
町を焼くための火が、湯守町の湯を沸かしている。
「貴様……」
バルドスの声が、怒りで震えた。
「私の禁呪を、何に変えた!」
アルトは、ようやくバルドスを見た。
表情は変わらない。
いつものように、淡々としている。
「源泉」
短い答えだった。
町が、沈黙した。
そのあとで、誰かが笑った。
最初は、ジンだった。
「源泉って」
彼は半分泣きそうな顔で笑った。
「魔王軍の禁呪で、湯が沸いたのかよ」
次に、丸福堂の老婆が笑った。
「ありがたいねえ。燃やしに来て、湯を戻してくれるなんて」
土産物屋の主人も、板を外した手湯の前で肩を震わせた。
運び屋たちが顔を見合わせる。
グランが腹の底から笑った。
「火力馬鹿が、町の湯沸かし係になったぞ」
その言葉で、町に笑いが広がった。
恐怖が完全に消えたわけではない。
空にはまだ禁呪がある。
バルドスはまだそこにいる。
火力魔導兵も、武装したままだ。
それでも、笑いが生まれた。
湯守町らしい笑いだった。
壊されるはずだった町が、逆に温まっている。
それは、火力の論理を根元からひっくり返す光景だった。
バルドスの顔が、赤から白へ、白からまた赤へ変わる。
怒り。
屈辱。
理解できないものへの恐怖。
「ふざけるな……」
彼は低く唸った。
「ふざけるな、アルト!」
禁呪の火勢が増す。
だが、増した分だけ、源泉へ流れる熱も増える。
八百万亭の湯気がさらに濃くなる。
丸福堂の裏湯が強くなる。
神社の石鉢から湯があふれる。
足湯の湯量が増え、アルトの結界があわてるように水位を調整する。
コハルは涙を拭った。
そして、町の人々へ向かって叫んだ。
「お客様を、湯気の強い場所から少し下げてください! 丸福堂さん、裏湯の周りは滑らないように! グランさん、湯量が増えた浴場を見てください! ミナさん、神社の石段へ人を回してください!」
女将の声だった。
泣いている暇はなかった。
源泉が戻った。
なら、客を守り、町を回さなければならない。
コハルはアルトを一度だけ見た。
その目には、感謝と驚きと、どうしようもない喜びがあった。
「アルトさん!」
「何だ」
「あとで、全源泉の名前を決めます!」
「今か」
「大事です!」
アルトは少しだけ息を吐いた。
こんな時でも、コハルはコハルだった。
だが、その声が町を動かしている。
恐怖に固まりかけた町が、また仕事を始めている。
湯守町は、焼かれていない。
湯守町は、沸いている。
バルドスの禁呪は、まだ空を赤く染めていた。
けれど、その赤はもう破壊だけの色ではなかった。
湯気の白と混じり、提灯の灯りと重なり、源泉の熱へ変わっていく。
アルトは結界を保ったまま、静かに言った。
「火は、使い方を間違えなければ温かい」
バルドスは歯を食いしばった。
火力主義者の禁呪は、攻撃力ゼロの結界師によって、温泉街最大の熱源に変えられていた。




