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10-1 禁呪、町を焼く

 空が、赤くなった。

 夕焼けではない。

 火だった。

 バルドスの背後に広がった禁呪陣が、湯守町の上空を染めている。黒赤い炎が渦を巻き、巨大な翼のように広がりながら、町へ向かって落ちてこようとしていた。

 熱が、まだ届く前から肌を刺した。

 湯気が細くなる。

 提灯の火が怯えるように揺れる。

 八百万亭の暖簾が、風もないのに奥へ吸われる。

 石段に残っていた雪が、赤い光を浴びて水に変わり始める。

 客たちは逃げようとした。

 だが、どこへ逃げればいいのかわからなかった。

 町の外には魔王軍の兵がいる。

 空には禁呪がある。

 道は狭く、老人も子供もいる。

 荷物を持った商人も、湯上がりで足元のおぼつかない客もいる。

 ミナが叫んだ。

「落ち着いてください! 建物の奥へ! 走らないで!」

 ジンたち冒険者が客を誘導する。

 運び屋たちは、結界ロードの脇に荷車を寄せる。

 丸福堂の老婆は、店の奥へ子供たちを押し込んだ。

 土産物屋の主人は、旅人を店内へ入れた。

 グランは浴場の入口に立ち、濡れた床で客が転ばないよう声を張る。

 町人たちは逃げていない。

 怖がっている。

 震えている。

 それでも、自分の場所を守ろうとしていた。

 バルドスは、空へ両腕を上げた。

「見るがいい、アルト」

 黒赤い炎が、魔法陣の中心で膨らむ。

「これが魔術だ」

 その声は熱に歪んでいた。

「これが戦場を変える力だ。ひとつの町を焼き、ひとつの砦を落とし、ひとつの国の進軍を決める。守るだけの術とは違う」

 炎が落ち始める。

 火球というには大きすぎた。

 それは、火の奔流だった。空から流れ落ちる黒い滝。赤い芯を持ち、外側に黒い炎をまとい、触れたものの魔力ごと燃やす禁呪。

 町ひとつを焼くには、十分すぎる規模だった。

 メルヴァが歯を食いしばる。

「馬鹿が……」

 彼女でさえ、止めるには遅すぎる。

 リーゼロッテの使者も、顔色を失っていた。帝国の封書を握ったまま、馬の手綱を引くことも忘れている。

 コハルは、八百万亭の玄関前に立っていた。

 看板を見上げる。

 それから、町を見る。

 丸福堂。

 土産物屋。

 結界ロード。

 足湯。

 神社の石段。

 古い旅館。

 湯気の上がる浴場。

 客の靴が並ぶ下駄箱。

 自分ひとりでは守れなかったもの。

 みんなで、ようやく動かし始めたもの。

「アルトさん」

 彼女は言った。

 声は震えていた。

 だが、届いた。

 アルトは町の中心に立っていた。

 湯めぐり道の交差点。

 かつて常春ドームを展開した場所。

 町の道が集まり、湯気と灯りが交わる場所。

 彼は空を見上げた。

 禁呪が落ちてくる。

 圧倒的な火力。

 バルドスの論理そのものだった。

 燃やす。

 壊す。

 従わせる。

 価値あるものを奪う。

 アルトは、指を上げた。

 町の中に散っていた小さな結界が、反応した。

 最初に応えたのは、八百万亭の浴場だった。

 湯温固定結界。

 ぬるかった湯を温かくした、最初の結界。

 湯の熱を逃がさず、冷気を入れず、源泉の力を湯船の中に留めるための術。今、それは町の中心へ熱の流れを返した。

 次に、厨房と保存庫。

 熱遮断。

 温度維持。

 湿度調整。

 かまどの余熱を守り、餡を凍らせず、牛乳を冷やしすぎなかった小さな術式が、町全体の温度層へつながる。

 結界ロードが光った。

 慣性制御。

 摩擦調整。

 個別認識。

 老人を歩かせ、荷車を上げ、子供を走らせすぎず、竜人族の重さにも耐えた道の結界が、町の地面に力を分散させる筋になる。

 快眠客室の結界が、静かに開いた。

 音をやわらげ、冷気を遮り、過剰な魔力刺激を遠ざけ、眠れない者を眠らせた術式。今は町の内側から、恐怖で乱れた魔力を整える。

 常春ドームの残滓が、空に伸びる。

 寒気を遮り、日差しを通し、湿度を整え、雪を外へ逃がした結界。

 その形が、今度は火を受けるための天蓋になる。

 泉質循環結界が、源泉小屋から応えた。

 湯守町の地下を流れる源泉の魔力が、ゆっくり町を巡る。湯の力。石の力。古くからこの町にあった熱。

 それらが、アルトの結界の内側へ流れ込んでいく。

 最後に、敵意検知結界。

 危ないものだけを拾い、温かさを残すために張った見えない境界。

 それが、落ちてくる禁呪をはっきり捉えた。

 攻撃意思。

 破壊魔力。

 町を焼く目的。

 すべてが、赤く見えた。

 アルトは息を吐いた。

 今まで、別々に張ってきた結界だった。

 湯を温めるため。

 廊下を寒くしないため。

 客を眠らせるため。

 坂を歩けるようにするため。

 祭りを晴れやかにするため。

 町を怖がらせず守るため。

 ばらばらの小さな術。

 だが、違った。

 すべては同じだった。

 人がそこで過ごせるように、境界を整える術。

 熱と冷気の境界。

 疲労と回復の境界。

 眠れない夜と朝の境界。

 滑る道と歩ける道の境界。

 恐怖と安心の境界。

 戦場と温泉街の境界。

 それが、アルトの結界術だった。

 彼は、町全体に多層結界を展開した。

 一層目。

 衝撃分散。

 空から落ちる禁呪の圧を、町の上空で受け止め、結界ロードと石段と地中の岩盤へ薄く逃がす。壊さない。揺らさない。町の形を変えずに、力だけを流す。

 二層目。

 魔力分解。

 黒赤い炎を構成する魔力の流れを読む。火になる前の命令をほどく。燃やせ、砕け、奪えという術式の骨を、一本ずつ外す。

 三層目。

 熱捕獲。

 ただ遮るのではない。

 火力を受け止め、その熱だけを切り分ける。湯守町の源泉、浴場、足湯、厨房へ流せる形に変える。燃やす熱ではなく、温める熱へ。

 四層目。

 敵意遮断。

 禁呪に乗ったバルドスの意思を、町の内側へ入れない。壊す意思。従わせる意思。奪う意思。そのすべてを外側に残す。

 五層目。

 温湿度維持。

 町の中の空気を守る。

 客が息をできるように。

 湯気が立つように。

 提灯が消えないように。

 饅頭が焦げないように。

 浴場の湯が冷めないように。

 子供が泣き出さないように。

 アルトは、その五層を重ねた。

 極楽大結界。

 名前をつけたのは、コハルだった。

 祭りのあと、冗談めかして言った。

 八百万亭と湯守町全体が、極楽みたいに温かい場所になればいいですね、と。

 その時、アルトは聞き流した。

 だが今、町全体を包むこの結界には、その名前が一番合っていた。

 禁呪が落ちた。

 黒赤い炎が、湯守町の上空に衝突する。

 轟音。

 空が割れるような音だった。

 客たちが身をすくめる。

 町人たちが目を閉じる。

 コハルが両手を握る。

 メルヴァが剣を抜きかける。

 バルドスが笑みを浮かべる。

 だが、町は焼けなかった。

 炎は、透明な天蓋にぶつかった。

 そして、広がった。

 赤い奔流は、硝子に当たった水のように四方へ流れる。黒い炎が結界の表面を舐める。火花が散る。熱が膨らむ。魔力が軋む。

 しかし、下には落ちない。

 八百万亭の看板は燃えない。

 丸福堂の蒸し器は倒れない。

 土産物屋の絵葉書は灰にならない。

 神社の湯守印は焦げない。

 結界ロードの赤い布は、燃えずに揺れている。

 火の音が、少しずつ変わっていった。

 破壊の音ではなくなる。

 炎の熱が、結界の三層目に捕まる。

 黒い敵意だけが外側へ流される。

 赤い熱だけが、細い流れに変えられて町の地下へ落ちる。

 源泉が、低く鳴った。

 八百万亭の浴場で、湯が揺れた。

 足湯の湯気が、ふわりと増えた。

 厨房のかまどの火が、静かに強まった。

 丸福堂の蒸し器から、甘い湯気がさらに立った。

 コハルが目を見開く。

 バルドスの禁呪が、町を焼いていない。

 町を温めている。

 バルドスも、それに気づいた。

「何を……」

 声が掠れた。

「何をした、アルト!」

 アルトは空を見上げたまま答えた。

「熱を逃がさないようにした」

 最初に湯船へ張った結界と同じ言葉だった。

 ただ、規模が違う。

 意味が違う。

 温泉宿のぬるい湯を温めた術が、今、町ひとつを禁呪から守っている。

 黒赤い炎は、まだ落ち続けている。

 だが、町は焼けない。

 湯守町の空には、巨大な透明の天蓋が広がり、その上を炎が流れていた。

 炎の下で、湯気が立っている。

 客の呼吸が戻る。

 町人たちが、ゆっくり目を開く。

 コハルは、八百万亭の看板を見た。

 無事だった。

 アルトは、町の中心に立っている。

 攻撃していない。

 誰も焼いていない。

 ただ、守っている。

 それだけで、禁呪は町へ届かなかった。


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