9-4 火力の論理
バルドスの魔力が、湯守町の空を赤く染めていた。
炎は、まだ放たれていない。
だが、町の上には熱があった。火になる前の熱。形を持つ前の破壊。空気が乾き、湯気が裂け、提灯の灯りが不自然に細く揺れる。
八百万亭の玄関前に、アルトは立っていた。
背後には、古い看板。
その後ろには、宿。
さらにその奥には、湯。
湯守町の通りには、町人たちがいる。客たちは建物の中へ誘導されていたが、すべての人間が隠れられたわけではない。足湯にいた老人。荷物を抱えた商人。丸福堂の裏へ逃げ込んだ子供。土産物屋の戸口にいる旅人。
守るべきものが、多すぎた。
バルドスは、それを見て笑った。
「良い眺めだ」
彼の背後で、火力魔導兵たちが術式を構えている。
「貴様の結界が、どこまで届くか。見ものだな」
アルトは答えなかった。
バルドスは、ゆっくりと手を上げた。
赤い魔力が、その掌に集まる。
「魔術とは破壊力だ」
それは、演説ではなかった。
信仰だった。
「どれほど遠くへ届くか。どれほど硬いものを砕くか。どれほど多くの敵を焼くか。魔術師の価値は、そこにある」
火の粒が、掌の周囲で弾ける。
「戦争とは勝敗だ。勝つ者が残り、負ける者が消える。砦を落とし、敵兵を焼き、補給路を断つ。そこに情緒など不要だ」
町人たちは、黙っていた。
バルドスの言葉は、湯守町の空気には合わなかった。
だが、その言葉には力があった。
火力魔導兵たちは、彼の言葉に頷いている。彼らにとっては、それが当然なのだろう。戦場で生き、戦場で評価され、戦場で昇る者たちにとって、破壊力はわかりやすい価値だった。
「守る力は、攻める力に従属する」
バルドスは続けた。
「盾は剣を前へ出すためにある。城壁は兵を守り、兵は敵を殺す。補給は進軍のためにあり、休養は次の戦闘のためにある」
彼は八百万亭を見た。
「温泉を温めるために高度魔術を使う。眠れぬ客を眠らせるために結界を組む。坂道を老人のために歩きやすくする。馬鹿げている」
その声は、はっきりと町へ届いた。
「才能の浪費だ」
アルトは、その言葉を聞いていた。
かつてなら、反論できなかった。
魔王城の会議室で、バルドスに同じようなことを言われた時、アルトは何も返せなかった。
攻撃力ゼロ。
撃破数ゼロ。
命令違反。
敵兵まで守る欠陥品。
そう言われて、黙っていた。
自分でも、自分の力をどう使えばいいのかわからなかったからだ。
結界を張ることはできた。
火を止めることも、矢を止めることも、崩れる壁を支えることもできた。
だが、その先がわからなかった。
誰を守るべきか。
どこまで守るべきか。
守った結果、何が残るのか。
戦場では、答えが見えなかった。
だから黙っていた。
けれど今は違う。
アルトは、町を見た。
八百万亭の暖簾が揺れている。
その奥には、湯上がりの客がいる。
不安そうに身を寄せ合っているが、誰もまだ泣いてはいない。コハルが怖い顔で迎えたくないと言った場所だからだ。
丸福堂の老婆が、子供たちを店の奥へ押し込んでいた。
手は震えている。
それでも、蒸し器の火は落としていない。湯守町の饅頭屋として、彼女はまだ店を閉じていない。
グランが、浴場の入口で手すりを確認している。
こんな時でも、客が逃げる時に転ばないかを見ている。職人の目だった。
ミナが冒険者たちに指示を出している。
ジンは剣を抜きかけ、ミナに止められ、客の誘導へ戻った。戦うだけではなく、守る役目を選んでいる。
町の入口には、リーゼロッテからの使者が到着していた。
帝国の紋章をつけた騎馬の使者が、息を切らしながらメルヴァの横に立っている。書状を持っている。政治の力も、ようやく町へ届き始めていた。
メルヴァは剣に手を置いている。
魔王軍幹部として、軍の暴走を止めるために立っている。サウナで落ちた女ではない。だが、たぶんそれも嘘ではない。
そして、コハル。
八百万亭の玄関前。
彼女はアルトの少し後ろに立っていた。
顔は青い。
怖がっている。
それでも、町から目を逸らしていない。
守る範囲が見えた。
アルトは、初めてそう思った。
何もかもではない。
世界全部ではない。
戦場の敵味方すべてでもない。
遠い国のすべての命でもない。
ここだ。
この町。
この湯。
この宿。
この道。
この看板。
ここに来た人が、また帰ってきたいと思う場所。
その範囲なら、見える。
守れる。
守りたいと、思える。
コハルが、静かに言った。
「アルトさん」
アルトは振り向いた。
コハルは、まっすぐ彼を見ていた。
「全部守らなくていいです」
その言葉は、意外だった。
アルトは少しだけ目を開く。
コハルは続けた。
「世界全部とか、戦場全部とか、敵とか味方とか、私にはわかりません」
声は震えている。
けれど、言葉は折れていなかった。
「でも、ここはわかります」
彼女は八百万亭を見た。
湯守町の通りを見た。
「この街を守ってください」
アルトは黙って聞いた。
「ここに来た人が、また帰ってきたいと思う場所を」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
帰ってきたい場所。
かつてのアルトには、なかった言葉だった。
魔王軍は帰る場所ではなかった。
戦場も、兵舎も、会議室も、雪の山道も違った。
だが、八百万亭には湯がある。
湯守町には灯りがある。
コハルは、帰ってきていいと言った。
ならば。
アルトは前を向いた。
バルドスは、まだ赤い魔力を練っている。
「無駄話は終わったか」
「ああ」
アルトは答えた。
「決めた」
「何を」
「この町を守る」
バルドスが笑った。
「守るだけで私に勝てると思うか」
「勝つ必要はない」
「何?」
アルトは指を上げた。
町全体に張っていた見えない結界が、静かに反応する。
八百万亭の湯。
結界ロード。
浴場の手すり。
丸福堂の蒸し器。
足湯。
常春ドームの残滓。
夜の灯り結界。
保存庫。
快眠客室。
神社の石段。
土産物屋の戸口。
今まで町のために張ってきた小さな結界が、ひとつずつ線でつながっていく。
戦場の防御陣ではない。
生活のための結界網。
人が歩き、眠り、食べ、湯に入り、帰ってくるための網。
それが今、町を守る形へ変わっていく。
アルトは言った。
「帰る場所が残ればいい」
バルドスの目が、怒りで赤くなった。
「最後まで寝ぼけたことを」
彼は両腕を広げた。
火力魔導兵たちが、一斉に魔力を送る。
バルドスの背後に、巨大な赤い魔法陣が開いた。
円ではない。
炎の翼のように広がる、破壊用の禁呪陣。
メルヴァの顔色が変わった。
「バルドス、やめろ。それは軍用禁呪だ。町へ向けるものではない」
「黙れ」
バルドスの声は、熱に歪んでいた。
「守るだけで十分だと言ったな、アルト」
魔法陣の中心に、黒赤い炎が生まれる。
普通の炎ではない。
熱だけではなく、魔力そのものを燃やす火。
結界を焼き、術式を焦がし、対象を内側から崩す火。
「ならば守ってみせろ」
空気が震えた。
湯気が一瞬で細くなる。
提灯の火が逆向きに揺れる。
客たちが息を呑む。
町の外側の雪が、赤く照らされる。
バルドスは禁呪を発動した。
黒赤い炎が、湯守町へ向かって落ちてくる。
アルトは動かなかった。
ただ、町全体の結界を、静かに開いた。
攻撃力ゼロの結界師は、初めて自分の意思で、守る場所を選んだ。




