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9-3 看板が砕かれる前に

 バルドスの周囲で、赤い魔力が揺れた。

 それは火そのものではない。

 火になる前の魔力だった。

 熱を持ち、形を求め、燃やす対象を探す力。火力魔術師たちは、その気配に反応して一斉に杖を構えた。魔導砲の先端に赤い光が灯る。

 湯守町の通りにいた客たちが後ずさった。

 湯上がりの老人が、足湯の縁から立ち上がる。

 丸福堂の老婆が、蒸し器の蓋を両手で押さえる。

 土産物屋の主人が、絵葉書の箱を胸に抱えた。

 運び屋たちは、荷車を道の端へ引く。

 ジンたち冒険者が、客を下がらせる。

 それでも、町は完全には逃げなかった。

 誰もが怖がっている。

 それでも、誰もが自分の場所に残ろうとしていた。

 バルドスはそれを見て、鼻で笑った。

「愚かな町だ」

 彼は火力魔導兵の一人へ顎をしゃくった。

「まずは、あの宿を黙らせろ」

 兵の魔導砲が、八百万亭へ向く。

 正確には、玄関の上。

 古い看板へ。

 そこには、墨で『八百万亭』と書かれていた。

 文字はかすれている。

 木の端には傷がある。

 雨風で黒ずんだ跡もある。

 祭りの日に提灯を掛けた時の小さな釘穴も残っている。

 立派な看板ではない。

 新しくもない。

 だが、コハルの両親が残した看板だった。

 コハルが子供の頃から見上げてきた文字。

 客が来なくなっても、毎朝拭いていた木。

 雪の日も、雨の日も、ぬるい湯しか出せなかった日も、玄関に掲げ続けていた宿の名。

 コハルが息を呑んだ。

「やめてください」

 声は小さかった。

 だが、火力魔導兵の魔力は止まらない。

 砲身の先で、赤い光が膨らむ。

 バルドスは冷たい声で言った。

「撃て」

 火が走った。

 一直線だった。

 赤く、鋭く、乾いた炎。

 湯気を裂き、提灯の灯りを押しつぶし、玄関の看板へ向かう。

 コハルが飛び出した。

 考えるより先だったのだろう。

 彼女は両手を広げるように、玄関の前へ出ようとした。

 アルトが動いた。

 指先がわずかに上がる。

 看板の前に、結界が生まれた。

 薄い。

 透明。

 目には見えないはずの膜。

 だが、炎がそこへぶつかった瞬間、空気が硝子のように光った。

 赤い火が、看板の直前で止まる。

 燃え広がるはずだった炎は、透明な壁に押しつけられ、横へ広がった。まるで見えない硝子に叩きつけられた水のように、火の花が円形に散る。

 熱は、看板へ届かなかった。

 火は、木へ触れなかった。

 八百万亭の文字は、そこに残った。

 炎が消える。

 湯気だけが、静かに上がる。

 通りは、しばらく音を失った。

 コハルは玄関の前で立ち尽くしていた。自分が飛び出したことに、遅れて気づいたようだった。肩が震えている。けれど、看板から目を離していない。

 アルトは、その横へ歩いた。

 いつものように眠そうな顔ではなかった。

 怒鳴ってはいない。

 魔力を荒らしてもいない。

 火力魔術師のように、力を見せつけてもいない。

 ただ、空気が変わっていた。

 彼の周囲だけ、温度が少し下がったように感じられた。

 それは冷気ではない。

 境界が引かれた気配だった。

 ここから先は通さない。

 そういう静けさ。

 アルトはバルドスを見た。

「そこは壊すな」

 短い言葉だった。

 コハルが、彼を見た。

 町人たちも、彼を見た。

 バルドスは少しだけ目を細めた。

 やがて、低く笑った。

「看板か」

 その声には嘲りがあった。

「貴様は本当に、くだらぬものを守る男だな。砦でも敵兵を守り、ここでは木の板を守るか」

 アルトは答えない。

 バルドスは続けた。

「守るだけか」

 赤い魔力が、彼の背後でさらに膨らむ。

「攻撃もせず、敵を倒しもせず、ただ受け止めるだけ。それで何を成したつもりだ」

 アルトは看板を一度見た。

 八百万亭。

 古びた文字。

 かすれた墨。

 それでも、宿の名を示すもの。

 この看板がなくても、湯は残るかもしれない。

 建物も残るかもしれない。

 だが、コハルにとっては違う。

 宿が宿であるために、そこにあるべきものだった。

 アルトは言った。

「十分だ」

 バルドスの笑みが止まる。

「何?」

「守るだけで十分だ」

 アルトの声は静かだった。

「ここでは」

 その言葉は、強くはなかった。

 けれど、町の中に深く落ちた。

 ここでは。

 戦場ではなく。

 魔王城の会議室でもなく。

 敵撃破数を数える場所でもなく。

 温かい湯があり、客が眠り、町人が店を開き、子供が結界ロードで遊び、饅頭が蒸される町。

 ここでは、守るだけで十分だった。

 バルドスの顔が歪んだ。

「まだわからんのか」

 彼は一歩前へ出た。

「守る力は、攻める力に従って初めて意味を持つ。盾は剣を生かすためにある。城壁は兵を守り、兵は敵を焼く。補給路は軍を進ませるためにある。守る力だけで世界は動かん」

 アルトは黙って聞いていた。

 バルドスは拳を握る。

「貴様の力は、私の火力と共にあって初めて完成する。貴様が防ぎ、私が焼く。それが正しい使い道だ」

 メルヴァが低く言った。

「違うな」

 バルドスは彼女を睨む。

「黙っていろ、メルヴァ」

「守る力が、必ず攻撃に従うと思っている時点で、お前は何も見えていない」

「軍人が平和論を語るな」

「軍人だから言っている」

 メルヴァの声は冷静だった。

 だが、手は剣の柄にかかっている。

「必要な火力と、火力しか見ない愚かさは違う」

 バルドスは鼻を鳴らした。

「ならば、見せてやる」

 彼は火力魔導兵たちへ手を上げた。

「全員、散開。町の外周を包囲しろ。結界の継ぎ目を探せ。火力集中で破る」

 兵たちが動く。

 黒い軍装が、湯守町の通りへ広がろうとする。

 だが、足元で結界ロードがわずかに光った。

 敵意検知結界が反応する。

 攻撃意思を持った兵の足だけが、重くなる。

 客や町人には何も起きない。

 火力魔導兵の一人が、足を取られて膝をついた。

「何だ、これは」

 別の兵が魔導砲を構えようとする。

 魔力が砲身へ集まった瞬間、その流れが外へ散った。火になる前の熱が、湯気に紛れるように逃がされる。

 兵が驚く。

「魔力が練れない!」

 バルドスの眉がつり上がる。

「小細工を」

 アルトは立っていた。

 何もしていないように見える。

 だが、町全体が動いていた。

 怖くない防御。

 コハルが望んだ守り。

 客に見せない、町を要塞にしない、温泉街のまま危険だけを外へ押し出す結界。

 今、それが静かに働いている。

 バルドスは奥歯を噛んだ。

「ならば、術者本人を潰す」

 赤い魔力が、彼の全身から噴き上がる。

 火力魔導兵たちのものとは違う。

 濃く、重く、熱い。

 第二魔術師団長。

 火力を信仰し、火力で地位を得た男の魔力だった。

 通りの空気が乾く。

 湯気が一瞬、裂ける。

 コハルは看板の前で、まだ動けずにいた。

 アルトは彼女の前へ一歩出る。

 グランが浴場の入口から声を荒げた。

「客を下げろ!」

 ミナが冒険者たちへ指示を飛ばす。

 ジンたちが客を建物の奥へ誘導する。

 丸福堂の老婆は、子供たちを店の裏へ押し込んだ。

 土産物屋の主人は、店の戸を開けて客を入れる。

 運び屋たちは、結界ロードを空ける。

 町人たちは動いた。

 怯えている。

 けれど、止まっていない。

 それがバルドスの苛立ちをさらに強めた。

「焼き払えば、すべて静かになる」

 彼は低く言った。

 火が集まる。

 ひとつの巨大な炎ではない。

 町の複数箇所を同時に焼くための術式だった。

 八百万亭。

 丸福堂。

 結界ロード。

 足湯。

 古い旅館。

 神社へ向かう石段。

 湯守町の要点すべてを、火力で押し潰す準備。

 アルトの目が細くなった。

 バルドスは本気だった。

 町ごと焼くつもりだ。

 いや、焼き尽くすのではない。

 恐怖を与え、壊し、残ったものを軍の管理下に置くつもりなのだ。

 コハルが、アルトの背中を見た。

「アルトさん」

 声は震えていた。

 アルトは振り返らない。

「下がっていろ」

「でも」

「看板は守った」

 彼は言った。

「次は、町だ」

 その言葉と同時に、湯守町全体の結界が静かに鳴った。

 音ではない。

 だが、町の空気が震えた。

 湯気が立ち上がる。

 提灯の灯りが揺れる。

 結界ロードの赤い布が風もないのに動く。

 バルドスの炎が、形を取り始める。

 火力主義者が、温泉街を焼くために本気になった。

 そして、攻撃力ゼロの結界師は、初めて真正面からその前に立った。


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― 新着の感想 ―
結界ってさ、使い方によっては、攻撃にも防御にも使えるよね? 広げることができるなら、その逆の「狭くする」事も出来る筈。 結界を縮小していけば、その中にいるのは、どうする事も出来ない。結界を破れる攻…
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