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9-2 再雇用という名の鎖

「戻れ、アルト」

 バルドスは、もう一度言った。

 命令だった。

 頼みではない。交渉でもない。かつて魔王城の会議室で追放を告げた時と同じ声だった。相手の意思を聞くつもりのない、上から落ちてくる声。

「貴様を第二魔術師団預かりとして再雇用する。追放処分は、私の裁量で取り消してやる」

 火力魔導兵たちが、坂の下で整列している。

 黒い軍装。

 赤い肩章。

 魔導砲。

 耐熱外套。

 湯守町の湯気と提灯の灯りの中で、その黒さだけが異物だった。

 バルドスは続ける。

「まず、この町全体に張った結界を解除しろ。次に、温泉施設、結界ロード、気候制御、疲労回復湯、快眠客室、すべての術式を軍へ提供する」

 町人たちがざわめいた。

 丸福堂の老婆が、蒸し器の蓋に手を置いたまま固まっている。

 土産物屋の主人は、店先の絵葉書を見た。

 運び屋たちは、結界ロードの端で顔を見合わせる。

 古い旅館の女将は、暖簾を握りしめた。

 それらは、彼らがようやく取り戻し始めたものだった。

 湯守町のために作ったものだった。

 だが、バルドスの言葉の中では、すべてが軍の設備として数え上げられていた。

「この小娘には、最低限の管理者としての役目を残してやる」

 バルドスはコハルを見た。

「宿の表向きの顔くらいは必要だろう。兵の保養地には、給仕と案内がいる」

 コハルの顔が白くなる。

 給仕。

 案内。

 表向きの顔。

 女将ではない。

 町の代表でもない。

 ただ、奪われた宿に残される飾りのような役目。

 それは、八百万亭を残すという言葉の形をした没収だった。

 アルトは静かに言った。

「断る」

 短い声だった。

 バルドスの眉が動く。

「何だと」

「戻らない。結界も渡さない。町も渡さない」

 火力魔導兵たちの間に、わずかな緊張が走った。

 メルヴァは、剣の柄に手を置いたまま黙っている。

 コハルはアルトを見ていた。

 その横顔は、いつもと同じように眠そうで、面倒そうだった。

 けれど、逃げる顔ではなかった。

 バルドスの顔に、苛立ちが浮かんだ。

「貴様は、まだ自分の立場がわかっていないようだな」

 声が低くなる。

「攻撃力ゼロの無能が、誰のおかげで生きてこられたと思っている」

 その言葉に、町の空気が硬くなった。

 アルトは答えなかった。

 バルドスは一歩前に出る。

「魔王軍にいたからだ。軍の庇護があったからだ。戦場で役に立たず、敵を焼けず、首を取れず、ただ壁を張るだけの男が、なぜ今日まで生きてこられたと思っている」

 アルトは黙っている。

 コハルの手が震えた。

 彼女は何か言おうとした。

 だが、アルトの横顔を見て、言葉を飲み込んだ。

 バルドスは、町人たちへ向かって声を張った。

「この男を救世主のように思っているなら、勘違いだ」

 通りの客も、町人も、兵も、全員が聞いていた。

「アルトは戦場で命令違反を繰り返した。敵兵まで結界内へ入れた。砦の崩落から敵を助け、逃げ道を塞がず、味方の火力魔術を通すべき時に術式を濁らせた」

 言葉が、ひとつずつ落ちる。

「黒牙砦奪還作戦。敵兵三十七名を結界で保護。北方戦線、敵の斥候部隊を閉じ込めず逃走を許す。西部峡谷会戦、橋梁爆破の衝撃を緩和し、敵部隊の一部が撤退に成功」

 町人たちがざわめく。

 敵を助けた。

 命令違反。

 戦場で成果を上げなかった。

 その言葉は、重かった。

 湯守町の人々は、アルトが魔王軍を追放されたことは知っている。攻撃力ゼロと評価されたことも聞いている。だが、具体的に何をしたのかまでは知らなかった。

 バルドスは、そこを突いていた。

「この男は守る相手を選べぬ。敵味方の区別もつかぬ。戦場では無能だ。だから追放された」

 アルトは、少しだけ俯いた。

 その動きは小さかった。

 だが、コハルには見えた。

 バルドスの言葉は、全部が嘘ではない。

 だから刺さる。

 アルトは、敵兵も守ったのだろう。

 命令違反もしたのだろう。

 戦場で求められる成果を上げなかったのだろう。

 そして、たぶん今でも、本人には自分が正しかったのかわかっていない。

 死にそうな者の前に結界を張った。

 それだけだった。

 けれど、それが戦場では間違いになる。

 その重さを、アルトはずっと抱えていたのかもしれない。

 バルドスは勝ち誇るように笑った。

「この町も同じだ。貴様らは、この男の力を正しく使えていない。湯を温める? 客を眠らせる? 饅頭を蒸す? 坂を楽にする?」

 彼は吐き捨てるように言った。

「くだらん」

 その瞬間、コハルが前に出た。

 アルトの横を抜ける。

 彼女はバルドスの前に立った。

 膝は震えていた。

 怖いのだ。

 それでも、退かなかった。

「くだらなくありません」

 声は大きくなかった。

 けれど、はっきり届いた。

 バルドスが見下ろす。

「小娘」

「小娘でも、女将です」

 コハルは言った。

 その声に、町の人々が顔を上げた。

「アルトさんは、うちのお湯を温かくしてくれました」

 最初の言葉は、八百万亭からだった。

「ぬるくなって、お客様に寒いと言われていたお湯を、もう一度温かくしてくれました」

 コハルは続ける。

「すきま風だらけだった宿を、寒くない宿にしてくれました。厨房の火を保ってくれました。保存庫の餡を凍らないようにしてくれました。客室で眠れるようにしてくれました」

 丸福堂の老婆が、黙って聞いている。

 土産物屋の主人も。

 運び屋たちも。

「冒険者さんの装備を乾かして、疲れを取って、翌朝また歩けるようにしてくれました。眠れなかったお客様を、朝まで眠れるようにしてくれました。足の悪いお客様が坂を上がれるように、結界ロードを作ってくれました」

 声が、少しずつ強くなる。

「町の道をつなげてくれました。お祭りの日に、雪の中でも湯守町に灯りをつけてくれました。子供が笑って、饅頭屋さんが火を入れて、土産物屋さんが棚を開けて、古い旅館にお客様が泊まるところまで、連れてきてくれました」

 アルトは、コハルを見ていた。

 彼女は泣いていなかった。

 怒鳴ってもいなかった。

 ただ、自分が見てきたことを、ひとつずつ並べていた。

 魔王軍の戦果報告とは違う。

 敵撃破数ではない。

 燃やした数でも、壊した数でもない。

 温まった湯。

 眠れた客。

 歩けた坂。

 灯った町。

 それが、コハルにとっての戦果だった。

「それのどこが無能なんですか」

 コハルはバルドスをまっすぐ見た。

 通りが静まり返った。

 バルドスの顔から、笑みが消えた。

 コハルは一歩も退かなかった。

「敵を焼けないから無能なんですか。誰かを殺せないから価値がないんですか。守る相手を選べないから、役に立たないんですか」

 彼女の声が、少し震えた。

 だが、止まらない。

「ここでは、守る相手を選ばなくていいんです」

 アルトの目が、わずかに動いた。

「お客様は、みんな温まっていいんです。疲れた人は、みんな休んでいいんです。眠れない人は、眠っていいんです。足の悪い人は、坂を上がれていいんです。町の人は、もう一度店を開けていいんです」

 コハルは、アルトの方を一度だけ見た。

「だから、アルトさんの結界は、この町に必要なんです」

 その目は、まっすぐだった。

 アルトは、何も言えなかった。

 胸の奥に、長い間動かなかったものが触れた。

 敵を守ったことが正しかったのか、今でもわからない。

 命令違反だったのかもしれない。

 戦場では間違いだったのかもしれない。

 魔王軍には向いていなかったのかもしれない。

 けれど、この町では。

 守る相手を選ばないことが、間違いではなかった。

 バルドスが低く言った。

「感情論だ」

 コハルは答えた。

「商売です」

 その返しに、町人たちの間で小さな笑いが起きた。

 緊張の中の、ほんの少しの笑い。

 コハルは続ける。

「お客様がまた来たいと思ってくださるなら、それは価値です。町の人がもう一度働けるなら、それは価値です。眠れた人が朝ご飯を食べられるなら、それは価値です」

 そして、はっきり言った。

「あなたが見えていないだけです」

 バルドスの目に、怒りが灯った。

 火力魔術師の怒り。

 燃やす前の熱。

 アルトは静かに一歩前へ出た。

 コハルの横に立つ。

 今度は俯かなかった。

 バルドスを見る。

「俺は戻らない」

 声は静かだった。

「ここにいる」

 コハルが、隣で小さく息を吸った。

 バルドスは、拳を握った。

 その周囲に、赤い魔力が揺れ始める。

 見えない防御結界が、町の空気の中で静かに反応した。

 温泉街は、まだ営業中だった。

 だが、戦場の火が、ついに湯気の前まで来ていた。


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