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9-1 魔王軍、温泉街に来る

 その日の昼前、湯守町の入口に黒い影が並んだ。

 最初に気づいたのは、結界ロードの端で荷車を押していた運び屋だった。

 彼は坂の下を見て、手を止めた。

 雪の街道に、軍靴の列があった。

 黒い軍装。

 赤い肩章。

 火力魔術師用の耐熱外套。

 杖ではなく、砲身に似た魔導具を背負った兵。

 列の先頭には、背の高い男が立っている。

 第二魔術師団長、バルドス。

 アルトを追放した男だった。

 その名を知らない町人にも、ただならぬ相手だということはわかった。兵たちは観光客のように町を見上げていない。湯を求めている顔でもない。宿を探している足取りでもなかった。

 進軍だった。

 湯守町へ、軍が来た。

 知らせはすぐに八百万亭へ走った。

 帳場で客の宿泊札を整理していたコハルは、顔色を変えた。

 だが、すぐに宿泊札をそろえ、帳場の引き出しへしまった。

「お客様には、いつも通りに」

 声は少し震えていた。

 それでも、はっきりしていた。

「ミナさんに連絡を。グランさんには浴場を閉めないよう伝えてください。丸福堂さんには、通りのお客様を奥へ誘導してもらって。運び屋さんは結界ロードの上に荷車を置かないでください。逃げ道を塞がないように」

 指示が出る。

 以前のコハルなら、ただ慌てていたかもしれない。

 今は違った。

 怖いまま、動いている。

 アルトは玄関へ出た。

 メルヴァもいた。

 黒い軍装を着た彼女は、八百万亭の湯治客ではなく、魔王軍幹部の顔をしていた。

「来たな」

「ああ」

 アルトは短く答えた。

 町の入口では、バルドスが立ち止まっていた。

 彼は、湯守町を見上げていた。

 そこにある景色は、彼が想像していた寂れた辺境ではなかった。

 常春ドームは、常時展開ではない。

 だが、町の上には薄い気候調整結界が残っている。雪は道の端へ逃がされ、通りには湯気が立ち、灯り結界が昼でもやわらかく石段を照らしていた。

 結界ロードを、老婦人がゆっくり上がっている。

 荷車が滑らず進む。

 丸福堂の前では、子供が饅頭を受け取って笑っている。

 足湯には商人が座り、旅の疲れを抜いている。

 古い旅館の暖簾が揺れ、八百万亭の浴場からは白い湯気が上がっている。

 町が生きていた。

 温泉街として。

 バルドスはそれを見た。

 そして、理解した。

 理解してしまった。

「……なるほど」

 低い声だった。

 彼の背後にいた火力魔導兵たちは、町の温かさに戸惑っていた。軍装の黒が、湯気と提灯の中でひどく浮いている。

 バルドスだけは違った。

 彼の目は、客の笑顔を見ていない。

 温泉饅頭の匂いも、湯気も、結界ロードで喜ぶ老人の顔も見ていない。

 彼が見ているのは、構造だった。

 町全体を支える結界。

 熱を逃がさない仕組み。

 人と荷を動かす道。

 源泉を中心にした保温網。

 疲労を抜く湯。

 快眠できる宿。

 雪の中でも動く交通。

 それが戦場に転用された時の姿を、彼は見ていた。

「アルト」

 バルドスは名を呼んだ。

 声は、魔王城の会議室で聞いたものと同じだった。

 大きく、硬く、相手を押さえつける声。

「久しいな。追放者」

 町の空気が止まった。

 通りにいた客が振り向く。

 コハルは八百万亭の玄関前に立った。

 恐怖は残っている。だが、そこを退かなかった。

 アルトは坂の上から、バルドスを見下ろした。

「何しに来た」

「視察だ」

 その言葉に、メルヴァがわずかに眉を動かした。

 メルヴァの視察とは違う。

 湯治ではない。

 バルドスの視察は、奪う前に値踏みする目だった。

「湯守町は、魔王領辺境に属する温泉地である。近年、急激な魔術的発展を遂げ、軍事的価値を持つ施設へ変貌した。その安全確認と管理権限の整理のため、第二魔術師団長たる私が確認に来た」

 言葉だけは整っていた。

 だが、メルヴァが低く言う。

「正式命令ではないな」

 バルドスの視線が、初めてメルヴァへ向いた。

「第七機動軍副司令が、なぜここにいる」

「視察だ」

「ふざけるな」

「お前が言うな」

 短い応酬だった。

 バルドスの目が細くなる。

「これは第二魔術師団の案件だ」

「命令書を見せろ」

 メルヴァが言った。

 バルドスは懐から封書を出した。

 赤い封蝋。

 魔王軍の紋。

 それらしく整えられた書式。

 だが、メルヴァは受け取ってすぐに見抜いた。

「軍総司令部の承認印がない」

「緊急措置だ」

「私兵を連れて辺境の温泉街へ来る緊急措置か」

「軍事的価値があると判断した」

「判断したのは、お前だろう」

 バルドスは答えなかった。

 答えないことで、答えていた。

 独断に近い。

 少なくとも、正式な接収命令ではない。

 コハルはそのやり取りを聞いていた。

 わからない言葉も多い。

 軍の階級も、命令系統も、完全には理解できない。

 だが、ひとつだけはわかった。

 この男は、湯守町を客として見ていない。

 所有物として見ている。

 バルドスは町を見回した。

「驚いたぞ、アルト」

 彼は笑った。

 その笑いには、喜びではなく欲があった。

「貴様の結界術は、防御ではなかったのだな」

 アルトは黙った。

「都市を変える力だ」

 バルドスは、結界ロードを指した。

「あの道。雪中輸送に使える。重装備の兵を、山岳地帯でも進められる」

 次に八百万亭の浴場を見た。

「疲労回復の湯。兵の回復効率を上げられる。負傷兵の後送拠点にもなる」

 さらに町の上空を見る。

「気候制御。補給基地を冬でも稼働させられる。熱遮断、魔力遮断、衝撃分散。これを要塞に組み込めば、難攻不落の補給基地が作れる」

 彼の声は、次第に熱を帯びていった。

 火力魔術師の熱だった。

 燃やすための熱。

 奪うための熱。

「なぜ気づかなかった。貴様は、戦場で敵を焼けぬ無能ではなかった。もっと大きな使い道があったのだ」

 アルトは、静かに息を吐いた。

 今さらだった。

 価値がないと言われ、追放された。

 次に、価値があると気づかれ、奪われそうになっている。

 結局、バルドスは何も見ていなかった。

 守った命も。

 温まった湯も。

 眠れた客も。

 歩けるようになった町も。

 ただ、使えるかどうかだけを見ている。

 コハルが一歩前へ出た。

「接収は、お断りします」

 声は大きくなかった。

 だが、通りに響いた。

 バルドスの目が、初めてコハルへ向いた。

「何だ、小娘」

 その言い方に、アルトの指が少しだけ動いた。

 コハルは怯まなかった。

「私は八百万亭の女将、コハルです。湯守町の旅館組合の代表としても、今はここに立っています」

 旅館組合。

 正式には、まだ名前だけだった。

 しかし、祭りの後に町の宿が集まり、共同で客を受け入れるための仕組みを作り始めていた。その代表として、コハルが立っている。

「ここは温泉街です」

 コハルは言った。

「軍の基地ではありません」

 バルドスは笑った。

 低く、見下すような笑いだった。

「小娘が価値を語るな」

 その瞬間、アルトの中で何かが静かに動いた。

 怒り、というほど激しくはない。

 だが、確かに反応した。

 小娘。

 価値を語るな。

 バルドスは、同じことをしている。

 魔王城の会議室で、アルトの結界を戦果にならないと切り捨てた時と同じだ。

 見ようとしないものを、下に置く。

 数字にしやすいものだけを見る。

 火力だけを見る。

 壊せるものだけを価値と呼ぶ。

 コハルは、拳を握っていた。

 だが、声は震えなかった。

「価値なら、語れます」

 彼女は町を見た。

「この町の湯が、どれだけ冷えていたか。お客様がどれだけ戻ってこなかったか。丸福堂さんが火を入れる日を減らしていたことも、土産物屋さんの棚に埃が積もっていたことも、古い旅館の下駄箱が空だったことも、私は知っています」

 町の人々が、静かに聞いていた。

「それでも、もう一度やってみようって、みんなで決めました。お客様が眠れるように、歩けるように、温まれるように。祭りの日に、もう一度灯りをつけました」

 コハルはバルドスを見た。

「あなたが見ているのは、基地に使える便利な設備かもしれません。でも、私たちにとってここは、帰ってきてもらう場所です」

 バルドスの表情が冷えた。

「くだらん」

 短い言葉だった。

「湯気と饅頭と笑顔で、軍の価値を測るな。これは資源だ。戦略拠点だ。貴様らのような者が抱えていいものではない」

 火力魔導兵たちが、一歩前へ出る。

 町の空気が硬くなる。

 客たちが不安げに後ずさる。

 だが、見えない防御結界はまだ発動しない。

 敵意はある。

 だが、攻撃ではない。

 アルトは、町の境界を感じていた。

 コハルが作ろうとした、怖くない防御。

 ここは要塞ではない。

 温泉街だ。

 だから、まだ撃たない。

 まだ、止めるだけだ。

 バルドスはアルトを見た。

「戻れ、アルト」

 命令する声だった。

「貴様の居場所はここではない。魔王軍だ」

 アルトは返事をしなかった。

 バルドスは続ける。

「そして、この町は軍が管理する。温泉街などという低俗な形で終わらせるには惜しい」

 コハルの顔が白くなる。

 町の人々がざわめく。

 丸福堂の老婆が、蒸し器の前で拳を握った。

 土産物屋の主人が、絵葉書の箱を抱えた。

 グランが金槌を手に取った。

 ミナが冒険者たちへ目配せをする。

 メルヴァは、静かに剣の柄へ手を置いた。

 アルトは一歩前へ出た。

「バルドス」

 その声は低かった。

 派手ではない。

 だが、町の空気が少しだけ変わった。

 バルドスが笑う。

「ようやく理解したか。貴様の力は、このような湯治場に置くものでは――」

「違う」

 アルトは遮った。

 バルドスの眉が動く。

「ここは湯治場だ」

 アルトは言った。

「それがいい」

 短い言葉だった。

 コハルが、横で息を呑んだ。

 バルドスの顔から、笑みが消えた。

 温泉街の湯気が、二人の間をゆっくり流れていた。


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