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8-4 温泉街は営業中

 翌朝、湯守町はいつも通りに開いた。

 丸福堂の煙突から湯気が上がる。

 土産物屋の主人が、店先に絵葉書を並べる。

 運び屋が、結界ロードの端に積もった雪を払う。

 八百万亭の玄関では、コハルが暖簾をかけた。

 紺地に白い『湯』の字。

 何度も洗われ、端が少しほつれている暖簾だった。けれど、今は古びているというより、使われ続けているものに見えた。

 町は営業中だった。

 魔王軍の影が近づいている。

 バルドスが来るかもしれない。

 湯守町ごと奪われるかもしれない。

 それでも、朝になれば宿は戸を開ける。

 饅頭屋は饅頭を蒸す。

 湯は湯船に満ちる。

 客はやってくる。

「おはようございます。八百万亭へようこそ」

 コハルは笑顔で頭を下げた。

 最初の客は、商人の一行だった。

 荷馬車二台。

 護衛の冒険者が三人。

 荷物には布地と薬草。

 昨夜は隣町に泊まり、朝一番で湯守町へ入ってきたらしい。

 御者は結界ロードに乗るなり、笑った。

「いやあ、これは楽だ。馬も助かる」

 コハルはすぐに答える。

「荷運び用の補助もございます。お荷物は運び屋さんが宿までお運びします。湯めぐり札をご希望でしたら、帳場でお求めいただけます」

 声は明るい。

 手順も滑らかになっていた。

 以前なら、客が来ただけで慌てていた。今は違う。客の数、荷物の量、入浴か宿泊か、食事の有無、足腰の状態。それを見ながら、案内を組み立てている。

 女将の顔だった。

 アルトは少し離れた場所で、町の外縁に張った見えない結界を調整していた。

 客には見えない。

 町人にも見えない。

 ただ、危険だけを拾う。

 敵意。

 攻撃魔力。

 火力魔術の前兆。

 偽装された軍用術式。

 不自然な斥候魔法。

 それらが町へ入る手前で、薄く引っかかるようにしてある。

 強く弾くのではない。

 強く弾けば、相手に結界の位置を悟られる。

 客も違和感を覚える。

 町が要塞のようになる。

 だから、湯守町の空気は温かいままにしていた。

 饅頭の匂い。

 湯気。

 提灯。

 足湯の笑い声。

 結界ロードではしゃぐ子供。

 湯上がり牛乳の瓶が触れ合う音。

 その全部を壊さないように、危険だけを遠ざける。

 簡単なようで、面倒だった。

 かなり面倒だった。

 だが、今のアルトはその面倒さを、前ほど嫌だとは思わなくなっていた。

 午前中、町は穏やかに動いた。

 老婦人が足湯に座り、湯守茶を飲んだ。

 ギルド職員が半日快眠プランの予約を入れた。

 ジンが依頼帰りに八百万亭へ寄り、今日も飯はあるかと聞いた。

 丸福堂では、常春ふくらみ饅頭が正式商品になりかけていた。

 グランはそれを見て、眉間に皺を寄せた。

「事故から生まれた菓子を名物にするな」

 老婆は鼻で笑った。

「売れれば名物だよ」

「乱暴な理屈だ」

「職人も似たようなもんだろ。使われたもんが残る」

 グランは反論しなかった。

 たぶん、少し納得したのだ。

 昼過ぎ。

 八百万亭の食堂は、客でほぼ埋まっていた。

 商人。

 冒険者。

 湯治客。

 ギルド職員。

 町の運び屋まで、休憩がてら湯守茶を飲んでいる。

 コハルは盆を持って、食堂と厨房を行き来していた。

 笑顔だった。

 忙しい。

 目が回るほど忙しい。

 けれど、笑っていた。

 アルトは廊下で、彼女の横を通りかかった。

 コハルは盆を持ったまま、小さく言った。

「アルトさん」

「何だ」

「怖いです」

 声は、とても小さかった。

 食堂の客には聞こえない。

 厨房の音にも紛れる。

 けれど、アルトには聞こえた。

 コハルは笑顔のまま、椀を盆に載せ直した。

「でも、怖い顔でお客様を迎えたくないです」

 アルトは彼女を見た。

 笑顔は崩れていない。

 だが、指先に力が入っている。盆の縁を握る手が、少しだけ硬い。

 怖くないわけではない。

 怖いまま、笑っている。

 アルトは言った。

「器用だな」

 コハルは、ほんの少しだけ笑みを深くした。

「女将なので」

 それは、いつもの言葉だった。

 けれど、今は違って聞こえた。

 強がりでもある。

 覚悟でもある。

 仕事でもある。

 自分を支えるための言葉でもある。

 コハルは食堂へ出ていった。

「お待たせいたしました。根菜の温粥と、丸福堂さんの温泉饅頭です」

 客の顔が明るくなる。

 椀から湯気が上がる。

 アルトは廊下に立ったまま、それを見ていた。

 怖い顔で迎えたくない。

 その言葉は、アルトの結界にも似ていた。

 怖がらせない防御。

 見えない防御。

 温泉街のまま守る防御。

 アルトは町の外縁の結界を少しだけ調整した。

 強くしすぎない。

 客の通行は邪魔しない。

 ただし、敵意だけは見逃さない。

 夕方が近づくにつれ、空が灰色になっていった。

 山の向こうから、冷たい雲が流れてくる。雪が降るかもしれない。湯守町では珍しいことではない。客たちは、早めに湯へ入ろうと浴場へ向かった。

 八百万亭の外では、結界ロードが淡く光っている。

 夜用の道灯り結界が働き始めたのだ。

 足元だけが見える。

 雪の白と石段の黒が、柔らかく分かれる。

 提灯の光が、道の端をなぞる。

 観光客のひとりが感心したように言った。

「夜道まで綺麗ですね」

 運び屋の男が胸を張る。

「湯守町の新名物だ」

 以前なら言わなかっただろう。

 自分の町を、そんなふうに言うことは。

 アルトは町の中心で立ち止まった。

 結界に、小さな反応があった。

 敵意ではない。

 まだ攻撃でもない。

 だが、外側を探る感触。

 見えない指で、町の輪郭を撫でるような魔力。

 斥候魔法だった。

 アルトは空を見上げた。

 灰色の雲の下。

 透明な結界のさらに外側に、黒い火の鳥のようなものが飛んでいた。

 鳥ではない。

 魔力で作られた偵察体。

 翼は炎の形をしているが、熱はない。

 目にあたる部分だけが赤く光り、湯守町の上を円を描いている。

 火力魔術師の偵察魔法。

 バルドスの系統だった。

 アルトは表情を変えなかった。

 まだ撃ち落とさない。

 撃ち落とせば、こちらが気づいたと知らせることになる。

 敵意検知結界にだけ、薄く印を残す。飛行経路、魔力の癖、術者との距離。全部を拾う。

 黒い火の鳥は、八百万亭の上空を一度回った。

 丸福堂の煙突。

 結界ロード。

 足湯。

 湯守神社。

 そして、八百万亭。

 その目が、町を見ていた。

 温泉街としてではない。

 価値ある拠点として。

 奪えるものとして。

 アルトは低く息を吐いた。

 背後から、メルヴァの声がした。

「来たか」

 振り返らなくてもわかった。

 彼女は軍装のまま、八百万亭の玄関に立っていた。

 湯治客ではなく、魔王軍幹部の顔だった。

「斥候だ」

 アルトは答えた。

「バルドスの魔力か」

「近い」

「本人ではないな」

「まだ」

 黒い火の鳥は、空を一周し、山の向こうへ飛び去っていった。

 町の人々は、ほとんど気づいていない。

 客も、湯へ向かっている。

 コハルは食堂で笑顔のまま、夕食の案内をしている。

 温泉街は営業中だった。

 その外側で、戦場の気配が近づいている。

 アルトは空を見た。

 バルドスが近い。

 湯守町の灯りが、夕暮れの中でひとつずつともり始めていた。



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