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8-3 備える温泉街

 メルヴァの警告は、八百万亭の中にしばらく残った。

 湯の音は変わらない。

 浴場では客が湯に浸かり、厨房からは根菜の煮える匂いが流れ、帳場には宿泊札が並んでいる。

 外の通りにも、いつもの声があった。

 丸福堂の老婆が饅頭の蒸し上がりを知らせる声。

 結界ロードで遊びすぎた子供を叱る声。

 土産物屋の主人が、客に絵葉書を説明する声。

 運び屋が荷車を押す音。

 湯守町は、今日も動いていた。

 だからこそ、コハルは怖かった。

 動き始めたから、奪われる。

 客が戻ったから、狙われる。

 湯が温かくなったから、価値を見つけられる。

 帳場の奥で、コハルは両手を握っていた。指先が少し白くなっている。笑っていない彼女を見るのは、アルトにとって少し落ち着かなかった。

「逃げるか」

 アルトが言った。

 コハルは顔を上げた。

 しばらく、答えなかった。

 逃げる。

 それは、当然の選択肢だった。

 相手は魔王軍幹部。しかも、アルトを追放したバルドス。個人ではなく、軍の名を使える男。

 八百万亭は宿だ。

 湯守町は小さな温泉街だ。

 戦うための町ではない。

 コハルは、帳場の奥にかかる両親の肖像を見た。

 その下には、宿泊札。湯めぐり札。丸福堂の納品書。結界ロードの利用記録。祭りの日の売上。リーゼロッテの推薦状の写し。

 全部、この数週間で増えたものだった。

「逃げません」

 コハルは言った。

 声は震えていた。

 けれど、言葉は逃げていなかった。

「ここは、父さんと母さんの宿です。今は、私の宿です。お客様が帰ってきてくれる場所です」

 彼女は窓の外を見た。

「それに、湯守町はようやく動き始めました。丸福堂さんも、土産物屋さんも、運び屋さんも、他のお宿も。みんな、やっともう一度やってみようとしているんです」

 怖い。

 その感情は消えていない。

 顔にも出ている。

 それでも、彼女は言った。

「今ここで逃げたら、もう誰も、この町が変われるって信じられなくなります」

 アルトは黙っていた。

 メルヴァは帳場の端に立ち、腕を組んでいる。魔王軍の黒い軍装は、この宿の木の色と湯気の中では少し浮いていた。

「勇ましいな」

 メルヴァが言った。

 コハルは小さく首を振る。

「勇ましくありません。怖いです」

「なら、なぜ立つ」

「女将なので」

 その言葉は、いつもより静かだった。

 冗談ではなかった。

 メルヴァは少しだけ目を細めた。

「なるほど」

 アルトは帳場から出て、玄関の外へ向かった。

 コハルもついてくる。

 外に出ると、湯守町の通りが見えた。

 祭りの名残の提灯が残っている。結界ロードの赤い目印布が風に揺れている。遠くの坂から、商人の馬車がゆっくり上がってくる。

 アルトは町全体を見た。

 八百万亭。

 丸福堂。

 土産物屋。

 古い旅館。

 神社。

 源泉小屋。

 結界ロード。

 足湯。

 浴場。

 提灯。

 守るべきものは多い。

 多すぎる。

「町全体に防御結界を張る」

 アルトは言った。

「バルドスが来る前に外周を固める。上空も覆う。攻撃魔術、火力魔術、突入、接収部隊の進入。全部止める」

 常春ドームを応用すれば、町全体の上空を覆える。

 結界ロードの個別認識を使えば、町人と客以外を弾ける。

 敵意検知を重ねれば、攻撃意思を持つ者を入口で止められる。

 熱遮断と衝撃分散を張れば、火力魔術も物理攻撃も防げる。

 できる。

 町を要塞にできる。

 守るためには、囲えばいい。

 入れなければいい。

 危険を遮ればいい。

 アルトはそれを当然のように考えた。

「待ってください」

 コハルが言った。

 アルトは振り返る。

「何だ」

「守るだけじゃ、だめです」

「守らないと奪われる」

「はい。でも、守るだけじゃ、違うんです」

 コハルは通りを見た。

 足湯に座っている老人がいる。丸福堂の前で饅頭を買う子供がいる。土産物屋では旅人が絵葉書を選んでいる。結界ロードを、荷車がゆっくり上がっている。

「ここは要塞じゃありません」

 コハルは言った。

「温泉街です」

 風が吹いた。

 提灯が小さく揺れた。

「怖い場所にしたくないんです」

 アルトは黙った。

「防がないといけないものは防ぎます。でも、入口に大きな壁があって、空に怖い結界が張られて、客が入るたびに調べられて、町の人が怯えながら歩くようになったら」

 コハルの声は、少しずつ強くなった。

「それはもう、湯守町じゃありません」

 アルトは町を見た。

 自分の結界なら、町を固くできる。

 誰も入れない場所にできる。

 火も矢も兵士も通さない場所にできる。

 だが、それは温泉街ではない。

 客が帰ってきたいと思う場所ではない。

 メルヴァが口を開いた。

「要塞化は有効だ」

 コハルは彼女を見る。

「はい」

「だが、観光地としては死ぬ」

「はい」

 メルヴァは、少しだけ口元を緩めた。

「わかっているならいい」

 アルトはメルヴァを見た。

「お前もか」

「私は軍人だ。だから、要塞の匂いはわかる。兵士は安心するが、客は帰る」

 言葉は短い。

 だが、重かった。

 コハルはアルトに向き直る。

「防御は、見えないようにできませんか」

「できる」

「お客様が怖がらないように。町の人たちが、いつも通りに店を開けられるように。危ないものだけ外に出して、温かさは残すように」

 危ないものだけ外に出す。

 温かさは残す。

 簡単に言う。

 とても難しいことを。

 だが、アルトにはわかり始めていた。

 守るというのは、ただ壁を張ることではない。

 眠れる部屋を作ることも、守ること。

 冷えた指先を温めることも、守ること。

 転ばず歩ける坂を作ることも、守ること。

 町が止まらないようにすることも、守ること。

 そして今。

 怖くない防御を作ることも、守ることなのだ。

 アルトは町の空気を見る。

 客の動線。

 町人の通路。

 荷車の道。

 夜の灯り。

 浴場の湯気。

 屋根の雪。

 外から近づく敵意。

 固めるのではない。

 危険と日常の境界だけを、薄く、見えないように引く。

「できる」

 アルトは言った。

 コハルの顔が少しだけ明るくなる。

「ただし、面倒だ」

「はい」

「敵意検知を町の外側に薄く張る。攻撃意思を持つ者だけ、足元を重くする。魔力を練った瞬間に流れを散らす。火力魔術は熱を外へ逃がす。衝撃は地面へ流す。ただ、客や町人には触れない」

 コハルは真剣に聞いていた。

「それなら、町はいつも通りに見えますか」

「見える」

「お客様は怖がりませんか」

「気づかない」

「町の人たちは」

「いつも通り歩ける」

 コハルは深く息を吐いた。

「それでお願いします」

 アルトは頷いた。

 守り方にも種類がある。

 そのことを、彼はまたひとつ学んだ。

 その日から、湯守町は静かに備え始めた。

 大きな壁は作らない。

 武装した兵を立たせない。

 町の入口に物々しい札も出さない。

 八百万亭は営業を続ける。

 丸福堂は饅頭を蒸す。

 土産物屋は絵葉書を並べる。

 結界ロードは客を運ぶ。

 浴場には湯気が立つ。

 その裏側で、町は少しずつ強くなった。

 グランは浴場の補強を急いだ。

「客が慌てて逃げることになっても、足元で転ばせるな」

 それが彼の言葉だった。

 ミナはギルドへ走り、冒険者たちに湯守町周辺の警戒依頼を出した。

 ただし、町の中で武器を見せびらかさないこと。客のふりをして自然に滞在すること。異常を見つけたら、まず知らせること。

 ジンはすぐに手を上げた。

「八百万亭の飯が出るならやる」

 ミナは真顔で言った。

「仕事です」

「仕事もする」

 コハルは、リーゼロッテへ早馬を出した。

 魔王軍が動くかもしれないこと。

 バルドスという男が湯守町を狙っていること。

 帝国の客も訪れているため、万一の際には政治的な証言が必要になること。

 ただし、アルトの結界術を軍事利用に渡すつもりはないこと。

 最後に、こう書いた。

『湯守町は、温泉街としてこの件に向き合います』

 アルトはその文を見た。

「硬いな」

「ミナさんに教わりました」

「なるほど」

「変ですか」

「いや」

 悪くなかった。

 メルヴァは、魔王軍内部の証拠を集めると言った。

「バルドスが正式命令ではなく私兵で動くなら、止める材料になる。逆に正式命令を偽装するなら、その証拠も要る」

「危なくないんですか」

 コハルが訊いた。

 メルヴァは無表情だった。

「危ない」

「では」

「だが、サウナの借りがある」

 真顔で言った。

 コハルは少し困った顔をした。

「サウナ、すごいですね」

「危険だからな」

 メルヴァはそう答えた。

 その夜。

 アルトは町の中心に立ち、見えない結界を張った。

 常春ドームほど派手ではない。

 空に膜は見えない。

 雪が滑り落ちることもない。

 魔力花も開かない。

 ただ、町の外縁に薄い境界が生まれた。

 危険だけを拾う結界。

 敵意だけに重くなる道。

 火力魔術だけを鈍らせる空気。

 衝撃だけを逃がす地面。

 客は気づかない。

 町人も、ほとんど気づかない。

 けれど、湯守町は守られている。

 要塞ではなく、温泉街として。

 コハルは八百万亭の玄関で、それを見ていた。

「見えないんですね」

「ああ」

「でも、守られているんですね」

「ああ」

 コハルは、湯気の上がる町を見た。

「ありがとうございます」

 アルトは返事をしなかった。

 代わりに、結界をほんの少しだけ整えた。

 玄関から入る客の足元が、冷えないように。

 危険を外に出し、温かさは残す。

 それは、いまの彼にできる一番この町らしい守り方だった。


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