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8-2 バルドスの影

 帳場の空気が、少しだけ変わった。

 湯上がりの牛乳。

 温泉饅頭。

 湯守茶。

 サウナで緩んだ肩。

 そのすべてが、まだそこに残っている。

 だが、メルヴァの声はもう湯治客のものではなかった。

 魔王軍幹部の声だった。

「バルドスが、この町の噂を聞いた」

 アルトは黙っていた。

 コハルは、二人の間を見る。

「バルドスさん、というのは」

「アルトを魔王軍から追放した男だ」

 メルヴァが答える。

 コハルの表情が変わった。

 名前だけで、彼女の中の警戒が一段上がったのがわかった。

 アルトを追い出した男。

 攻撃できない結界師を、無能だと切り捨てた男。

 コハルにとっては、それだけで十分だった。

「その方が、なぜ湯守町に」

 コハルは声を抑えて聞いた。

「価値に気づき始めた」

 メルヴァは短く言った。

「遅いな」

 アルトが言う。

「遅い。だが、あの男は一度気づけば動く」

 メルヴァは帳場の机に置かれた湯めぐり札を見た。

 祭りの名残が残る木札。

 湯守印が押され、紐が新しく替えられている。

 観光客には記念品に見える。

 だが、軍人の目には違うものも見える。

「湯温固定」

 メルヴァは言った。

「熱遮断」

 次に、廊下を見た。

「冷気遮断。湿度調整。保存庫の温度管理。厨房の熱効率維持」

 さらに外へ目を向ける。

「結界ロード。荷車の負荷軽減。馬車の走行安定。雪道の滑落防止」

 コハルは黙って聞いていた。

 それは、彼女たちが積み上げてきたものだった。

 宿を温めるため。

 客を迎えるため。

 町を歩けるようにするため。

 祭りを成功させるため。

 けれど、メルヴァが並べると、言葉の意味が変わっていく。

 熱遮断。

 兵站維持。

 輸送安定。

 要塞防御。

 休養効率。

 魔力循環管理。

 温泉街の工夫が、軍事用語に置き換わっていく。

 メルヴァは続けた。

「戦場で使えば、補給路が凍らない。兵站倉庫の食糧が腐らない。負傷兵の体温を保てる。雪山でも部隊が進める。砦の防御力を上げられる。敵の魔術を遮断できる。衝撃を分散できる。兵の疲労も抑えられる」

 そこで一度、言葉を切る。

「国が変わる」

 重い言葉だった。

 コハルは、膝の上の手を握った。

 アルトの結界は、八百万亭では湯を温めた。

 湯守町では道を歩けるようにした。

 眠れない皇女を眠らせた。

 饅頭を膨らませすぎた。

 子供の結界ロード遊びを制限した。

 どれも、町を温めるための力だった。

 だが、その力は戦場でも使える。

 それも、ただ使えるだけではない。

 極めて強い。

 コハルは初めて、アルトの力が外からどう見えるのかをはっきり理解した。

 便利な宿の名物ではない。

 国が欲しがる力。

 軍が欲しがる力。

 奪われるかもしれない力。

「でも」

 コハルは声を絞った。

「バルドスさんは、アルトさんを追放したんですよね。価値がないって」

「そうだ」

 メルヴァは頷く。

「あの男は火力しか見なかった。燃やした数、壊した数、倒した数。それだけで魔術師の価値を測る」

 アルトは、魔王城の会議室を思い出していた。

 黒曜石の長卓。

 赤い軍装。

 大きな声。

 攻撃力ゼロ。

 敵撃破数ゼロ。

 味方損耗率は異常に低いが、戦果にならない。

 そして最後の言葉。

 攻撃できぬ結界など、戦場では湯気にも劣る。

 今、その湯気が町を変えている。

 皮肉な話だった。

 だが、バルドスがそれを知れば、笑って済ませる男ではない。

 メルヴァは静かに言った。

「あの男は、価値のわからないものは壊す。価値がわかったものは奪う」

 帳場の奥で、湯の音がした。

 いつもなら落ち着く音だった。

 今は、その温かささえ、狙われるものに思えた。

「奪うって」

 コハルの声が少し掠れた。

「アルトさんを、ですか」

「アルトだけでは済まない」

 メルヴァは首を振った。

「湯守町そのものを接収しようとする可能性がある」

 コハルの顔色が変わった。

「町を」

「魔王軍の保養地、兵站拠点、結界技術試験地。名目はいくらでも作れる。バルドスなら、魔王軍の名を使って押し通そうとするだろう」

「そんなこと」

 コハルは言いかけて、止まった。

 できない、と言いたかったのだろう。

 だが、相手は魔王軍幹部である。

 軍の権力がどれほど大きいのか、コハルは知らない。

 だが、弱い町が強い組織に逆らう難しさは知っている。

 湯守町は、ようやく動き始めたばかりだ。

 八百万亭に客が戻り、丸福堂の蒸し器に火が入り、土産物屋が棚を整え、古い旅館に灯りがともり、結界ロードに人が歩き、祭りの日に町が笑った。

 それを、軍に取られる。

 温泉街ではなく、基地にされる。

 客ではなく、兵士が来る。

 湯めぐり札ではなく、軍の通行証が配られる。

 その想像だけで、コハルの手が震えた。

 アルトは静かに聞いていた。

 表情は大きく変わらない。

 けれど、目だけが少し低くなっていた。

 メルヴァは彼を見た。

「お前もわかっているはずだ。バルドスは、守る力を軽んじていた。だが、守る力が戦争を変えると理解したなら、今度はそれを兵器にする」

 アルトは答えなかった。

 思い出す。

 黒牙砦。

 崩れかけた石壁。

 逃げ遅れた敵兵。

 味方の怒号。

 バルドスの叱責。

 なぜ敵を閉じ込めなかった。

 なぜ逃がした。

 なぜ殺さなかった。

 アルトには、その問いへの答えが今でもうまく言えない。

 死にそうだったから。

 それだけだった。

 だが、バルドスにとって、その答えは失格の理由だった。

 戦場では、守る相手を選ばなければならない。

 敵は守らない。

 味方だけ守る。

 逃げ道は閉じる。

 炎は通す。

 悲鳴は聞かない。

 それができないアルトは、軍に向いていなかった。

 ここでは違う。

 八百万亭では、眠れない客を眠らせればよかった。

 湯守町では、歩きにくい道を歩けるようにすればよかった。

 疲れた者を休ませ、冷えた者を温め、帰ってきたい場所を整えればよかった。

 誰を守るかを、刃で分けなくていい。

 それが、この町だった。

 その時だった。

 アルトの目が、帳場の外へ向いた。

 ごく小さな違和感だった。

 玄関の灯りが、一瞬だけ揺れた。

 風ではない。

 結界ロードの赤い布が、かすかに震える。

 それも風ではなかった。

 アルトは立ち上がった。

「アルトさん?」

 コハルが不安そうに見る。

 メルヴァの目も細くなった。

「何だ」

「外」

 アルトは短く言い、玄関へ向かった。

 外に出ると、夜の湯守町があった。

 祭りの提灯がいくつか残っている。

 丸福堂の軒先から甘い匂いが薄く流れてくる。

 結界ロードには、夜間の灯り結界がやわらかく伸びている。

 見た目は、いつも通りだった。

 だが、空気の端に何かが触れていた。

 敵意検知結界。

 祭りのあと、念のため町の外縁へ薄く張っていたものだ。

 強い敵意や攻撃意思があれば、すぐに引っかかる。

 火力魔術の予兆も、乱暴な侵入も拾える。

 しかし今の反応は、薄かった。

 まるで、町の輪郭を遠くから撫でるだけの指。

 そこに明確な敵意はない。

 攻撃意思もない。

 ただ、見る。

 測る。

 記録する。

 それだけの魔力だった。

 だから反応が遅れた。

 アルトは空を見上げる。

 常春祭りの時に張った気候結界の名残。そのさらに外側を、黒い火の鳥のようなものが滑っていた。

 鳥ではない。

 魔力で作られた偵察体。

 黒い炎の形をしているが、熱はほとんどない。翼は薄く、夜空に溶ける。目にあたる部分だけが、赤く細く光っていた。

 斥候魔法。

 火力魔術師の系統だった。

 アルトはすぐに結界で捕まえようとした。

 だが、黒い火の鳥は一瞬早く、ふっと高度を上げる。攻撃ではない。ただ、逃げる。空の外側を滑り、町の上を一周する。

 八百万亭。

 丸福堂。

 結界ロード。

 足湯。

 源泉小屋。

 湯守神社。

 古い旅館。

 赤い目が、それらを見ていた。

 コハルが玄関まで出てきた。

「鳥……ですか?」

「偵察だ」

 アルトは言った。

 声は低かった。

 メルヴァも外へ出る。

 黒い火の鳥を見て、すぐに理解した顔になった。

「バルドスの斥候魔法だな」

「たぶん」

「気づくのが遅れたな」

 メルヴァの声は責めるものではなかった。

 だが、軍人の評価として鋭かった。

 アルトは頷いた。

「攻撃意思が薄い。敵意もほとんどない。見るだけだった」

「戦場なら、そこを突かれる」

 メルヴァは言った。

 コハルが二人を見る。

「見るだけでも、危険なんですか」

「十分に危険だ」

 メルヴァは答える。

「攻撃する前に、敵は見る。道幅、客の流れ、結界の位置、術者の反応速度、守る対象の優先順位。今の鳥は、それを測っている」

 コハルの顔が青くなる。

 アルトは、黒い火の鳥の軌道を追った。

 確かに、あれは町を撫でただけではない。

 調べている。

 どこに結界があるか。

 どこで反応するか。

 どこならすり抜けられるか。

 敵意検知は、敵意が薄ければ遅れる。

 火力魔術なら捕まえられる。

 突入なら止められる。

 だが、見るだけの魔法には、反応が鈍い。

 穴だった。

 防御結界の穴。

 黒い火の鳥は、最後に八百万亭の上を回った。

 その赤い目が、一瞬、アルトを見た気がした。

 アルトは指を動かす。

 今度は敵意ではなく、記録魔力そのものを遮断する結界を張った。

 火の鳥の翼が、びくりと乱れる。

 赤い目が消えかける。

 しかし、完全には捕まえられない。

 鳥は、夜空の向こうへ逃げた。

 山の上。

 雪雲の奥。

 バルドスがいる方向へ。

 町には、また湯の音だけが戻った。

 コハルは拳を握っていた。

「今のが、バルドスさんに見えたんですか」

「一部は」

 アルトは答えた。

「結界ロードと、八百万亭と、町の配置。全部ではないが、見られた」

 メルヴァは腕を組む。

「早いな」

「もう動いているのか」

「その可能性が高い」

 メルヴァは夜空を見た。

「あの男は、価値のわからないものは壊す。価値がわかったものは奪う」

 帳場で聞いた言葉が、今度は夜気の中に落ちた。

 コハルは唇を結んだ。

 怖い。

 それは顔に出ていた。

 だが、今度は震えたまま黙っていなかった。

「アルトさん」

「何だ」

「今の穴は、塞げますか」

 アルトはすぐには答えなかった。

 敵意検知だけでは足りない。

 攻撃意思だけを拾う守りでは、斥候を見逃す。

 だが、ただ強く覆えば、客の魔力も、町人の動きも、商人の荷の記録魔法も全部弾いてしまう。

 温泉街が、要塞になる。

 それはコハルが望まない守り方だろう。

「考える」

 アルトは言った。

 コハルは頷いた。

「はい」

 メルヴァは、その答えを聞いてから口を開いた。

「戦場なら、偵察を防ぐには二つある。ひとつは全部弾く。もうひとつは、見せてもいいものだけを見せる」

「見せてもいいものだけ」

 コハルが繰り返す。

「そうだ。要塞なら前者でいい。温泉街なら、後者の方が向いている」

 メルヴァは八百万亭を見た。

「客が安心しているところは見せていい。町が賑わっているところも、ある意味では見せていい。だが、結界の核、源泉脈、避難経路、術者の反応速度は見せるな」

 アルトは黙って聞いた。

 メルヴァは湯治客ではない。

 サウナで落ちる魔王軍幹部ではある。

 だが、それ以前に軍人だった。

 戦場で何を見られると危険なのかを知っている。

「助かる」

 アルトが言うと、メルヴァは無表情で頷いた。

「サウナの借りだ」

「借りが大きくないか」

「極めて危険なサウナだったからな」

 コハルは少しだけ困った顔をした。

 だが、笑えなかった。

 夜空にはもう、黒い火の鳥はいない。

 それでも、見られた。

 湯守町は、外から見つけられた。

 帳場へ戻ると、湯上がりの牛乳も、温泉饅頭も、湯守茶も、まだそこにあった。

 けれど、もう同じには見えなかった。

 温かいものは、狙われる。

 守るには、温かさを消さずに、危険だけを遠ざけなければならない。

 メルヴァは、改めて言った。

「来るぞ」

 彼女の声は低かった。

「バルドスが」

 コハルは息を呑む。

「お前を連れ戻しに。いや」

 そこで、メルヴァは帳場の外を見た。

 八百万亭の玄関。

 湯守町の灯り。

 結界ロード。

 湯気。

「この町ごと奪いに」

 沈黙が落ちた。

 湯の音だけがした。

 コハルは、ゆっくり拳を握った。

 怖い。

 それは顔に出ていた。

 それでも、彼女は立っていた。

「アルトさん」

 声は震えていた。

 だが、逃げる声ではなかった。

「この町を、守れますか」

 アルトはすぐには答えなかった。

 守れるか。

 火力ではない。

 攻撃力でもない。

 敵を倒す力でもない。

 守る力。

 それしかない。

 だが、その守りにも穴があると、今見えた。

 強く覆えばいいわけではない。

 全部を隠せばいいわけでもない。

 ここは要塞ではない。

 温泉街だ。

 アルトは短く言った。

「考える」

 コハルは頷いた。

「はい」

 メルヴァは、その答えを聞いても急かさなかった。

 ただ、湯めぐり札を帳場に置き、代わりに宿泊札を取った。

 コハルが思わず見る。

「お泊まりに?」

「視察を続ける」

「サウナですか」

「それもある」

 メルヴァは真顔で言った。

 だが、帳場の空気はもう前と同じではない。

 魔王軍の影は、湯守町の外側まで来ていた。

 雪よりも冷たいものが、少しずつ町へ近づいている。

 アルトは玄関の外を見た。

 常春祭りの提灯が、夜風の中で小さく揺れていた。

 その灯りは、まだ温かい。

 だからこそ、守り方を間違えてはいけなかった。



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