8-1 視察という名の湯治
湯けむり常春祭りから数日後。
湯守町には、まだ祭りの余熱が残っていた。
提灯の一部は片付けられず、そのまま通りに残っている。魔力花はほとんど閉じたが、日当たりの良い石段の脇にだけ、まだ薄桃色の花が咲いていた。結界ロードには荷車が通り、丸福堂の前では祭り饅頭の再販を求める客が並んでいる。
八百万亭も忙しかった。
冒険者。
商人。
湯治客。
祭りを見て泊まりに来た旅人。
肩こりのギルド職員。
腰痛のドワーフ。
冷え性の老婦人。
客の種類が増えたぶん、アルトの結界調整も細かくなっていた。
ジンのような若い冒険者には疲労回復。
商人には荷物保護と快眠。
老人客には足元の冷えを取る湯。
ドワーフには深めの水流結界。
エルフには湿度を抑えたサウナ。
そして今、八百万亭の帳場には、非常に面倒そうな客が立っていた。
黒い軍装。
外套の襟には、魔王軍幹部を示す銀の紋章。
腰には細身の剣。
髪は淡い銀色で、肩のあたりできっちり結ばれている。
表情はほとんど動かない。
背筋はまっすぐで、目は冷たい。
女だった。
年齢は二十代後半にも、三十代にも見える。魔族は見た目で年を測りにくい。だが、ただ者ではないことだけは一目でわかった。
コハルは帳場の前で固まっていた。
耳が直立している。
「ま、魔王軍……」
客の女は、無表情のまま名乗った。
「魔王軍第七機動軍副司令、メルヴァ・レギオン。湯守町の現状を視察に来た」
視察。
そう言った。
だが、彼女の手元には、視察用の書類より先に、湯めぐり札の案内を握っていた。
しかも、視線は帳場ではなく、浴場へ続く廊下の方へ何度も向いている。
アルトは奥から出てきて、彼女を見た。
「メルヴァか」
「久しいな、アルト」
「なぜここにいる」
「視察だ」
「本当にか」
「視察だ」
メルヴァは一切表情を変えずに言った。
ただ、首元の筋肉が少し硬い。肩も張っている。魔力の流れは整っているが、全体的に重い。低血圧気味の魔族特有の、朝に弱そうな流れだった。
さらに、彼女の目は浴場の案内札に向いていた。
『サウナ試験運用中』
明らかに読んでいる。
かなり興味がある顔だった。
表情は無いが、目の奥だけが少し動いている。
アルトは言った。
「湯治だな」
「視察だ」
「肩が凝っている」
「軍務上の負荷だ」
「低血圧もある」
「体質だ」
「サウナを見ている」
「設備確認だ」
「入りたいのか」
「視察だ」
頑固だった。
コハルは二人のやり取りを聞きながら、少しずつ落ち着きを取り戻したらしい。魔王軍幹部と聞いて青くなっていた顔が、女将の顔へ変わっていく。
彼女は深く頭を下げた。
「ようこそ、湯守町、八百万亭へ。視察でも湯治でも、お客様ならまず湯めぐり札です!」
アルトは少し感心した。
魔王軍幹部相手にも、客として扱うらしい。
メルヴァは、一拍だけ黙った。
それから、懐から硬貨を出した。
「いくらだ」
「こちらです」
コハルが料金表を差し出す。
メルヴァはきっちり確認し、過不足なく支払った。
律儀だった。
「領収書は必要でしょうか」
「必要だ。視察なので」
「はい」
コハルは領収書を書きながら、ちらりとアルトを見た。
口には出さないが、目が言っている。
視察なんですか。
アルトは首を横に振った。
たぶん違う。
メルヴァは湯めぐり札を受け取ると、すぐに質問した。
「サウナとは何だ」
やはりそこだった。
コハルの耳が立つ。
「高温の部屋で身体を温め、そのあと水風呂や外気浴で整える、新しい湯治体験です」
「整える」
「はい。身体と心が、こう……整います」
コハルは両手で謎の形を作った。
説明になっていない。
メルヴァは真剣に聞いている。
「軍務で乱れた魔力循環にも効果があるのか」
「あります」
アルトが言った。
「ただし、やりすぎるな」
「やりすぎるな、とは」
「長く入りすぎるな。熱に耐える訓練ではない」
メルヴァの眉がわずかに動いた。
図星だったらしい。
「私は軍人だ。熱耐性はある」
「そういう客ほど倒れる」
「倒れん」
「倒れる前に出ろ」
「命令か」
「宿の注意だ」
メルヴァは少し黙った。
それから頷く。
「従おう。視察なので」
言い張る。
コハルは案内に入った。
「では、まずサウナ室へご案内します。八百万亭のサウナは、アルトさんの結界で高温空気を安定させています。種族差に合わせて温度調整も可能です」
サウナは、祭りのあと正式に試験運用が続けられていた。
もとは使われていなかった小部屋を、グランが改修したものだった。壁材は熱と湿気に強いものへ替え、床は滑りにくくし、扉の開閉で熱が逃げすぎないようにしてある。
アルトはそこに高温空気安定結界を張っている。
熱を均一にする。
息苦しくなりすぎないよう空気を動かす。
種族ごとに耐熱差を見て、温度の上がり方を調整する。
魔力循環が乱れたら、外へ出る合図を出す。
水風呂には、種族別冷却結界。
魔族と人間では冷たさの感じ方が違う。ドワーフは水深に文句を言う。エルフは急な冷却を嫌う。竜人族はそもそも水風呂を疑う。すべて同じでは対応できない。
外気浴スペースには、風量調整結界。
湯冷めしない。
だが、身体に風は届く。
呼吸が浅くならず、熱だけがゆっくり抜ける。
メルヴァは説明を聞きながら、無表情で頷いていた。
だが、視線は真剣だった。
戦場の作戦説明を聞く時の顔と、たぶん同じなのだろう。
「合理的だ」
メルヴァは言った。
「熱による血流促進。冷却による収縮。外気による安定化。魔力循環にも応用できる」
「そうですね」
コハルは頷いた。
おそらく半分も理解していないが、堂々としている。
「では、視察してくる」
メルヴァはそう言い、サウナへ向かった。
もちろん、入浴描写はない。
暖簾の外で、コハルとアルトは待った。
しばらくして、サウナ室の中から、低い声が聞こえた。
「……熱い」
コハルが少し緊張する。
「大丈夫でしょうか」
「大丈夫だ。まだ平気な声だ」
「平気な声がわかるんですか」
「戦場で聞いた」
「あまり温泉宿向きではない判断ですね」
サウナの中から、また声。
「だが、不快ではない」
メルヴァの声は、相変わらず冷静だった。
しかし、その冷静さの下に、わずかな驚きが混じっている。
少し経って、アルトが言った。
「出ろ」
中から返事。
「まだいける」
「出ろ」
「あと少し」
「出ろ」
短い沈黙。
やがて扉が開く音がした。
メルヴァは水風呂へ向かった。
水音。
そのあと、非常に小さな声。
「……なるほど」
コハルの耳が動いた。
「今のは、良い反応ですか」
「たぶん」
さらに外気浴。
夜に近い午後の風が、外気浴スペースへやわらかく流れている。常春ドームの試験で得た湿度と風の調整を、小さく応用したものだった。
メルヴァは外気浴用の長椅子に横になったらしい。
しばらく声がなかった。
コハルが不安そうにする。
「倒れてませんか」
「呼吸は安定している」
「寝てます?」
「近い」
しばらくして、メルヴァが戻ってきた。
顔色が違った。
無表情は無表情のまま。
だが、頬に血色があり、肩の位置が少し下がっている。目の奥の硬さも、わずかに緩んでいた。
彼女は脱衣所の外で、静かに立った。
そして言った。
「これは危険だ」
コハルの顔が青くなった。
「危険なんですか?」
メルヴァは重々しく頷く。
「帰りたくなくなる」
沈黙。
コハルの耳が、ぴんと立った。
「それは……褒め言葉でしょうか」
「極めて危険な褒め言葉だ」
メルヴァは真顔だった。
アルトは壁にもたれた。
「落ちたな」
「落ちていない」
「整ったか」
「……整った」
認めた。
コハルは胸の前で両手を握った。
「ありがとうございます! では、湯上がりのお飲み物はいかがでしょうか。牛乳、湯守茶、丸福堂さんの小さいお饅頭もございます」
「すべて頼む」
即答だった。
「視察では」
アルトが言う。
「視察には比較対象が必要だ」
「何の比較だ」
「牛乳と茶と饅頭の相性だ」
「真面目な顔で言うな」
メルヴァは湯上がり牛乳を飲んだ。
瓶を持つ姿勢まで軍人のようにまっすぐだったが、一口飲んだあと、ほんの少しだけ目を細めた。
「良い」
次に湯守茶。
「落ち着く」
最後に温泉饅頭。
沈黙。
コハルが身を乗り出す。
「いかがでしょう」
「……追加で」
「はい!」
完全に湯治客だった。
視察ではない。
しかし、本人だけは視察と言い張るのだろう。
アルトはその様子を見ながら、昔の魔王軍を思い出していた。
メルヴァは、バルドスとは違う。
戦場では冷静な武人として知られていた。無駄な攻撃を好まず、撤退判断も早い。勝つために必要なら、兵を休ませることもできる指揮官だった。
だからこそ、湯守町に来た理由が気になった。
ただの湯治だけではない。
評判を聞いて興味を持ったのは確かだろう。
肩も凝っていた。
サウナにも興味津々だった。
だが、魔王軍幹部がわざわざ辺境の温泉街へ来るには、別の理由もあるはずだった。
メルヴァは饅頭を食べ終えると、帳場の椅子に座った。
湯上がりで完全に緩んでいるように見える。
だが、声だけは低くなった。
「アルト」
「何だ」
「話がある」
コハルの耳がわずかに揺れる。
空気が変わった。
湯治客の顔から、魔王軍幹部の顔へ戻っていく。
ただし、肩はまだ軽そうだった。
「バルドスが、この町の噂を聞いた」
アルトは黙った。
コハルは、バルドスという名を知らない。
だが、アルトの表情が少しだけ変わったことには気づいた。
メルヴァは続ける。
「お前を追放した男だ」
帳場の空気が、静かに冷えた。
外では、常春ドームの残り香のような柔らかい光が、まだ町の屋根に残っている。
その温かさの中へ、魔王軍の影が差し始めていた。




