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7-4 若女将、初めて客になる

 祭りの夜、湯守町には灯りが残っていた。

 提灯の火が、石段に並んでいる。

 八百万亭の前だけではない。丸福堂の軒先にも、土産物屋の店先にも、古い旅館の玄関にも、湯守神社の階段にも、小さな灯りがともっていた。

 常春ドームの外側では、雪が静かに降っている。

 けれど町の中には、もう吹雪の冷たさはなかった。湯気が上がり、灯りがにじみ、魔力花が通りの端で薄桃色の花弁を閉じかけている。

 昼間の喧騒は、少しずつ遠のいていた。

 それでも、完全な静けさではない。

 どこかの宿から笑い声が聞こえる。

 湯めぐりを終えた客が、宿の前で感想を言い合っている。

 丸福堂では、老婆が明日の仕込みの数を相談している。

 土産物屋の主人は、売れ残りではなく、売れた後の空いた棚を見ていた。

 古い旅館にも、人が泊まっている。

 閉じていた戸が開き、畳まれていた暖簾が揺れ、使われていなかった下駄箱に靴が並んでいる。

 湯守町は、昔に戻ったわけではなかった。

 戻れないものはある。

 コハルの両親はいない。

 昔の客も、そのまま帰ってくるわけではない。

 傷んだ浴場も、閉じた店の跡も、まだ残っている。

 それでも町は、今日、新しく動き始めた。

 祭りは成功した。

 事故も多かった。

 饅頭は膨らみすぎ、竜人族は熱湯を求め、エルフはサウナで顔を赤くし、ドワーフは水風呂の深さに文句を言い、子供たちは結界ロードを遊具にした。

 それでも、誰も途中でやめようとは言わなかった。

 町の人々は走った。

 笑った。

 文句を言いながら手を貸した。

 客は驚き、湯に入り、饅頭を買い、灯りの下を歩いた。

 祭りは、町の息になった。

 その夜。

 八百万亭の帳場で、コハルはまだ動こうとしていた。

 前掛けには、饅頭の粉と湯守印の朱がついている。髪は少し乱れ、耳も疲れたように垂れている。手には帳簿と、祭りの売上を書いた紙と、明日の仕込みの覚書。

 目は半分閉じかけている。

 それでも、彼女は帳場の机に紙を並べた。

「明日の朝、丸福堂さんへお礼と追加の相談をして、土産物屋さんには絵葉書の発注数を聞いて、運び屋さんには結界ロードの荷運び時間を確認して、それからグランさんに山ノ湯の手すりの件を――」

「寝ろ」

 アルトは言った。

 コハルは顔を上げた。

「まだ寝ません。後片付けが」

「終わらない」

「終わらせます」

「無理だ」

「女将なので」

「女将でも倒れる」

 コハルは口を開きかけた。

 だが、言葉が出る前に、身体が少し傾いた。

 アルトは指先を動かし、机の角にぶつかりそうになった彼女の肩を、薄い結界で止めた。

 コハルは一拍遅れて瞬きをする。

「……今、少し寝てました?」

「立ったままな」

「器用ですね、私」

「危ないだけだ」

 アルトは帳簿を閉じた。

 コハルが慌てる。

「あっ」

「今日は入れ」

「え?」

「風呂だ」

 コハルは、何を言われたのかわからない顔をした。

 アルトは浴場の方を見る。

「お前の宿の湯だろ」

 その言葉に、コハルは黙った。

 帳場の灯りが、彼女の横顔を照らしている。

 祭りの日、コハルはずっと客を案内していた。湯めぐり札を配り、足湯へ誘導し、饅頭の列を整理し、結界ロードの説明をし、他の宿へ客を送り、湯上がりの老人に椅子を出した。

 誰よりも湯守町の湯を売っていた。

 けれど、自分では入っていない。

 いつもそうだったのだろう。

 女将だから。

 客が先だから。

 仕事が残っているから。

 湯は、迎える人のためのものだから。

 コハルは、帳場の奥を見た。

 そこには、両親の肖像がかかっている。

 祭りの灯りが窓から入り、古い額の端を淡く照らしていた。

「私が、入っていいんでしょうか」

 声は小さかった。

「宿の湯だろ」

「はい」

「お前の宿だろ」

 コハルは、少しだけ困ったように笑った。

「そうなんですけど」

「なら、入ればいい」

 単純な言葉だった。

 けれど、コハルには少し難しかったのかもしれない。

 彼女は長い間、自分の宿の湯を客のために守ってきた。

 ぬるい湯を、申し訳ないと思いながら出していた。

 温かくなった湯を、嬉しくて売り込んでいた。

 祭りの日には、町中の湯を紹介して走り回った。

 だが、その湯に自分が客として入ることを、考えていなかった。

 コハルはしばらく黙っていた。

 やがて、帳簿を机に置いた。

「では、少しだけ」

「少しじゃなくていい」

「でも」

「今日は客じゃないのか」

 コハルが顔を上げる。

 アルトは言った。

「今日くらいは」

 それ以上は言わなかった。

 コハルは、何かを受け取るように、ゆっくりうなずいた。

「はい」

 浴場へ向かう廊下は静かだった。

 客たちは、それぞれの部屋で休んでいる。祭りの疲れと湯の温かさで、宿全体が深く眠り始めていた。

 脱衣所の前で、コハルは一度立ち止まる。

 暖簾を見る。

 古い紺色の暖簾。

 白く染め抜かれた『湯』の字。

 何度も洗われ、少し端がほつれている。

 それでも、今日一日、多くの客がこの暖簾をくぐった。

「アルトさん」

「何だ」

「覗いたら、宿泊代一生分です」

「見ない」

「一生分です」

「見ないと言った」

「念のためです」

 ほんの少しだけ、いつもの調子が戻った。

 だが、声はまだ疲れている。

 アルトは暖簾の外に座った。

 廊下の壁にもたれ、浴場の方へ背を向ける。

 コハルは暖簾をくぐった。

 脱衣所の戸が閉まる。

 しばらく、布の擦れる音がした。

 それから、浴場の戸が開く音。

 湯気が廊下へ少し流れてくる。

 木の匂い。

 石の匂い。

 温泉の匂い。

 祭りの夜の、少し甘い空気。

 湯が揺れる音がした。

 静かな音だった。

 ざぶん、ではない。

 遠慮がちに、湯面が広がる音。

 コハルが、息を吐いた。

 長い息だった。

 ずっと胸の奥にためていたものが、湯にほどけていくような息。

 アルトは廊下で、何も言わなかった。

 浴場の中から、コハルの声が聞こえた。

「……こんなに」

 そこで一度、声が止まる。

 湯が小さく揺れる。

「こんなに、あったかかったんですね。うちのお湯」

 アルトは目を伏せた。

 その言葉は、ただ湯温の話ではなかった。

 ぬるかった頃の湯。

 客に寒いと言われた湯。

 両親が守っていた湯。

 コハルがひとりで守ろうとしていた湯。

 町の人々が諦めかけていた湯。

 その全部が、今、コハルの身体を包んでいる。

「お前が守ってきた湯だ」

 アルトは言った。

 浴場の中が、静かになった。

 湯音だけがする。

 しばらくして、コハルが小さく笑った。

「私だけでは、守れませんでした」

「でも、残っていた」

「はい」

「なら、守っていたんだろ」

 コハルは答えなかった。

 湯が、また少し揺れる。

 やがて、彼女はぽつりと話し始めた。

「父さんは、よく言っていました。お湯は待っているだけじゃ駄目だって」

 アルトは黙って聞く。

「来てくれた人に、ちゃんと届くようにしなきゃいけない。湯船までの道も、脱衣所の温度も、上がったあとのお茶も、全部含めて温泉なんだって」

 それは、グランの言葉にも少し似ていた。

 いい湯は、湯だけではできない。

 湯船、床、排水、光、人の流れ。

 コハルの父も、きっと同じものを見ていたのだろう。

「母さんは、お客様が帰る時に必ず言っていました。またのお帰りをお待ちしておりますって」

 コハルの声が、湯気の向こうで少し揺れた。

「今日、私、何回も言えました」

 アルトは、昼間の町を思い出す。

 客の笑い声。

 提灯の灯り。

 魔力花。

 結界ロード。

 饅頭の匂い。

 常春ドームの外側を滑っていく雪。

 コハルは、今日、町のあちこちで頭を下げていた。

 八百万亭の女将として。

 湯守町の案内役として。

 新しい温泉街の最初の声として。

「戻ったわけじゃないんですよね」

 コハルが言った。

「父さんと母さんがいた頃に、戻ったわけじゃない」

「ああ」

「でも、違う形で、また灯りがつきました」

「ああ」

「新しいんですね」

「ああ」

 短い返事しかできなかった。

 けれど、今はそれで十分な気がした。

 浴場の中で、コハルが深く息を吐く。

「アルトさん」

「何だ」

「アルトさんも、帰ってきていいですからね」

 アルトは返事をしなかった。

 廊下の灯りが、静かに揺れている。

 帰る。

 その言葉は、彼にはまだ少し重かった。

 魔王城は、帰る場所ではなかった。

 前線基地も違う。

 兵舎も、会議室も、荷馬車の上も、雪の山道も。

 どこにも属さない方が楽だと思っていた。

 守る範囲を決めず、面倒なものから離れ、温かい湯があればそれでいいと思っていた。

 けれど今、暖簾の向こうには八百万亭の湯がある。

 廊下には客の寝息がある。

 町には祭りの余韻がある。

 外には雪が降り、内側には湯気が残っている。

 コハルが言った。

 帰ってきていい。

 その言葉に、どう答えればいいのか、アルトにはまだわからなかった。

 だから、彼は指先を動かした。

 暖簾の外に張っていた保温結界を、少しだけ厚くする。

 脱衣所の冷気を消す。

 廊下から入る夜風をやわらげる。

 湯上がりの身体が冷えないようにする。

 それだけだった。

 浴場の中から、コハルの声がした。

「……今、少し暖かくなりました」

 アルトは答えない。

 コハルは、小さく笑った。

「ありがとうございます」

 廊下の向こうで、祭りの最後の提灯が揺れている。

 湯守町は、もう眠り始めていた。

 だが、その眠りは、昨日までとは違っていた。

 明日また灯りをつけるための眠りだった。

 アルトは暖簾の外で、静かに座っていた。

 湯の音がする。

 誰かが帰ってきてもいい場所の音だった。


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