6-4 宿から町へ
湯守町の寄合所に、人が集まった。
かつては湯治客向けの案内所だった建物である。今は半分倉庫のように使われていた。壁には古い湯めぐり地図が貼られ、棚には使われなくなった木札や提灯が積まれている。
その中央に、長い机が置かれた。
旅館主。
丸福堂の老婆。
土産物屋の主人。
運び屋の男たち。
湯守神社の管理人。
古い宿の女将。
何人かの町人。
そして、八百万亭の若女将コハル。
アルトは壁際にいた。
グランも、腕を組んで柱にもたれている。腰は少し楽になったらしいが、顔は相変わらず不機嫌だった。
寄合所の中は、静かだった。
期待している空気ではない。
警戒している空気だった。
八百万亭に客が戻った。
結界ロードができた。
丸福堂の饅頭が八百万亭で売れ始めた。
冒険者や商人が湯守町へ来始めた。
それは確かに良いことだった。
だが、良いことは、いつも全員に同じ顔で届くわけではない。
八百万亭だけが先に温まった。
そう見えている者もいる。
コハルは机の前に立った。
手元には、町の地図。八百万亭の宿泊記録。結界ロードの試験結果。グランが書いた浴場点検の覚書。
紙は多い。
けれど、今日のコハルは、紙よりも顔を上げていた。
「今日は、集まってくださってありがとうございます」
深く頭を下げる。
誰もすぐには返事をしなかった。
コハルは続けた。
「八百万亭には、少しずつお客様が戻ってきています。冒険者さん、ギルドの方、商人さん、湯治のお客様。リーゼロッテ様の推薦状もいただきました」
推薦状の名に、数人が反応した。
帝国第三皇女。
その名は、湯守町のような辺境でも重い。
「でも、八百万亭だけでは受け入れきれません」
コハルは地図を広げた。
「部屋が足りません。食事も足りません。荷物運びも、道案内も、土産物も、湯めぐりも、全部足りません」
土産物屋の主人が腕を組んだ。
「足りないから、うちを使いたいってことか」
「はい」
コハルは逃げずに答えた。
「使いたいです。お力を借りたいです」
主人の眉が動いた。
ここで言い繕わなかったことに、少し驚いたのかもしれない。
古い旅館の主人が口を開く。
「八百万亭の客を、こっちへ分ける気が本当にあるのか」
「あります」
「客を独り占めした方が儲かるだろう」
「短い間なら、そうかもしれません」
コハルは地図の八百万亭を指した。
「でも、八百万亭だけが満室になっても、湯守町は戻りません」
静かな声だった。
「泊まれなかったお客様が、そのまま帰ってしまったら、町には何も残りません。土産物屋さんにも、饅頭屋さんにも、他のお宿にも、神社にも、人が来ません」
彼女は次に、町の入口を指す。
「道が歩きにくければ、お客様は疲れてしまいます。夜が暗ければ、不安になります。泊まれる宿が少なければ、次は別の町へ行ってしまいます」
コハルは顔を上げた。
「だから、八百万亭だけでは駄目なんです」
誰もすぐには反論しなかった。
その代わり、運び屋の男が低い声で言う。
「綺麗なことを言うのは簡単だ。実際、どうする」
コハルは頷いた。
「まず、結界ロードを町の入口から各宿へ広げます。ただし、勝手には張りません。道ごとに必要な場所を確認して、安全に試験します」
アルトを見る目が集まる。
アルトは短く言った。
「一律にはしない。老人、子供、荷車、馬車、竜人族で制御を変える。危険なところは張らない」
短い説明だったが、結界ロードを見た者には十分だった。
「次に、浴場です」
コハルはグランの覚書を机に置いた。
「グランさんに、各宿の浴場を見てもらいます。湯船、床、排水、手すり、湯気の逃げ道。すぐ直せるところと、直す順番を分けます」
グランが不機嫌そうに口を開いた。
「ただし、甘くは見ねえ。客を入れられねえ浴場には、入れられねえと言う」
古い旅館の主人が苦い顔をする。
「うちは、そんなに悪いか」
「見なきゃわからん」
「見たら?」
「悪けりゃ悪いと言う」
厳しい。
だが、町の人々は黙って聞いた。
グランの言葉には、商売の匂いではなく、職人の重さがあった。
「それから、共通の湯めぐり札を作りたいです」
コハルは、棚に積まれていた古い木札をひとつ取った。
「昔、湯守町にあったものです。ひとつの札で、複数のお湯を回れる仕組みです。これを新しくします。八百万亭だけでなく、準備できたお宿から参加してもらいます」
湯守神社の管理人が、ゆっくり顔を上げた。
「湯めぐり札を戻すのか」
「戻すというより、新しく作ります。昔と同じ形ではなく、今の町に合う形で」
老人は黙った。
その沈黙には、少しだけ昔の灯りが混じっていた。
「土産物は、町の共通棚を作ります。丸福堂さんのお饅頭、土産物屋さんの湯桶や絵葉書、神社のお守り。最初は少量で構いません。売れた分だけ増やします」
土産物屋の主人が、まだ疑わしげに言う。
「在庫を抱える余裕はない」
「無理には増やしません。帳場での売上も、品ごとに分けて記録します」
主人はアルトを見る。
「この子の帳簿で大丈夫なのか」
コハルの耳が伏せかけた。
アルトが言った。
「そこは俺が見る」
コハルが驚いた顔をする。
アルト自身も、少しだけ驚いていた。
会計を全部やる気はない。
だが、値段の桁を間違えるよりはましだ。
土産物屋の主人は、少しだけ表情を緩めた。
「なら、少しは信用できる」
「少しですか」
コハルが小さく言う。
「今はな」
主人は答えた。
それは、完全な拒絶ではなかった。
「夜の灯りも考えています」
コハルは地図の通りに指を滑らせた。
「魔力灯を増やすお金はありません。でも、八百万亭や各宿の灯りを反射して、道の輪郭が見えるようにできます。強い光ではなく、歩ける灯りです」
「足元と道の端だけ見えればいい」
アルトが補足する。
「全部明るくする必要はない」
提案は多かった。
すべてを一度に実現するのは無理だ。
金も足りない。
人手も足りない。
町の信頼も、まだ十分ではない。
それでも、初めて具体的だった。
ただ「町を戻したい」と言っているのではない。
どこを歩けるようにするか。
どの浴場から直すか。
どの品を売るか。
どの灯りを使うか。
誰が何を担うか。
町の人々は、少しずつ紙を見るようになった。
コハルだけを見るのではなく、地図を見るようになった。
丸福堂の老婆が、最初に言った。
「うちは、饅頭を出すよ。ただし数は少ない。無理に増やさない」
「ありがとうございます」
「売れ残りが出たら、翌朝の粥にでも入れな」
「甘い粥になります」
「客が喜ぶかもしれん」
土産物屋の主人が、古い絵葉書を数枚机に置いた。
「これは昔の湯守町だ。今の町とは違う」
「だからこそ、置きたいです」
コハルは言った。
「昔の町を知っている人にも、新しくなった町を見てもらいたいので」
主人は黙った。
運び屋の男たちは、結界ロードの荷運び時間を試算し始めた。
古い旅館の主人は、グランに浴場を見てほしい日を相談した。
神社の管理人は、湯めぐり札に湯守印を入れられるか考えると言った。
寄合所の空気が、少しずつ変わっていく。
まだ熱くはない。
だが、凍ってはいない。
アルトは壁際で、それを見ていた。
道はつなげた。
結界ロードは、町の入口と八百万亭をつなぎ始めている。
だが、道だけでは足りない。
その先に、どこへ帰るのか。
どの宿へ泊まるのか。
どの店へ寄るのか。
どの灯りを見て歩くのか。
それを決めるのは、町の人々だった。
アルトは短く言った。
「道はつなげた。あとは、どこに客を帰すかだ」
寄合所が静かになった。
コハルが、ゆっくりアルトを見る。
その言葉は、町の人々にも届いたようだった。
帰す。
客をただ通すのではない。
泊まらせるだけでもない。
帰ってきたい場所を作る。
それは八百万亭だけの言葉ではなく、湯守町全体の言葉になり得るものだった。
湯守神社の管理人が、古い湯めぐり札を手に取った。
「灯りが要るな」
ぽつりと言った。
「夜に湯をめぐるなら、灯りが要る」
コハルの耳が立った。
「はい」
「昔は、祭りの日に通り全部へ提灯を出した」
「湯けむり祭りですか」
「知っているのか」
「父が話してくれました」
管理人は、古い壁の地図を見た。
「もう何年もやっていない」
「では」
コハルは息を吸った。
その場にいる全員を見る。
饅頭屋。
土産物屋。
旅館主。
運び屋。
神社の管理人。
グラン。
アルト。
そして、地図の中の湯守町。
「祭りをしましょう」
誰もすぐには答えなかった。
コハルは続ける。
「湯守町に、もう一度灯りをつけるんです」
それは、昔へ戻るための祭りではない。
町がこれから客を迎えるための祭りだった。
結界ロード。
湯めぐり札。
浴場改修。
土産物の棚。
夜の灯り。
全部を、町の人々と客に見せる。
湯守町はまだ終わっていない。
そう伝えるための祭り。
コハルは机の上に、古い湯めぐり札を置いた。
「八百万亭だけではなく、湯守町でお迎えする祭りです」
寄合所の中に、沈黙が落ちた。
やがて、丸福堂の老婆が言った。
「饅頭は、祭りの分もいるね」
土産物屋の主人が、深く息を吐いた。
「提灯、倉庫に残っていたはずだ」
運び屋の男が、外の坂を見る。
「結界ロードの範囲を決めないとな」
グランが鼻を鳴らす。
「浴場を見てからだ。危ねえ湯は客に入れねえ」
神社の管理人が、古い札を指で撫でた。
「湯守印を彫り直すか」
少しずつ、声が増えていく。
コハルはそれを聞いていた。
目を伏せる。
泣きそうな顔ではない。
笑いそうな顔でもない。
ただ、町が少しだけ動き出す音を、しっかり聞こうとしている顔だった。
アルトはその横顔を見た。
八百万亭の湯を温めた時、宿が息を吹き返した。
今は、町が息を吸い始めている。
まだ浅い。
まだ頼りない。
だが、息をしている。
外では雪が降っていた。
その雪の下で、湯守町の灯りが、もう一度ともる準備を始めていた。




