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6-3 職人グラン、文句を言う

 結界ロードの噂は、町の外にも届き始めていた。

 坂道が楽になった。

 雪で滑らない。

 荷車が上がる。

 子供が遊んでいる。

 途中で止まれる場所まである。

 冒険者が話し、商人が話し、やがて古い職人の耳にも届いた。

 昼過ぎ。

 八百万亭の玄関に、ずんぐりした男が立っていた。

 背は低い。

 だが、肩幅が広い。腕は丸太のように太く、手の甲には古い火傷と切り傷がいくつもある。灰色の髭。太い眉。背中には工具箱。

 ドワーフだった。

 玄関に入るなり、彼は八百万亭の梁を見上げ、床を踏み、壁を叩いた。

 それから、低い声で言った。

「まだ立ってやがるな」

 コハルは帳場から飛び出した。

「グランさん!」

 声には、驚きと懐かしさが混じっていた。

 グランはコハルを見た。

「大きくなったな、小娘」

「もう小娘じゃありません。若女将です」

「若が取れるまで、女将とは認めん」

「厳しいです」

「浴場に甘い職人はいらねえ」

 グランはそう言い、今度はアルトを見た。

 アルトは廊下の端で、結界ロードの負荷調整を書き出していた。紙には線と記号しかない。コハルには読めない種類のものだった。

「お前か。結界師ってのは」

「たぶん」

「たぶんで道を作るな」

 第一声から文句だった。

 アルトは反論しなかった。

 面倒だった。

 コハルは慌てて説明する。

「グランさんは、昔、湯守町の浴場をいくつも直してくれた職人さんです。八百万亭のお風呂も、父さんの代に」

「床石を替えた。排水もいじった。手すりも一本入れた。あの頃はまだ、湯に力があった」

 グランは靴を脱ぎ、工具箱を持ち直す。

 そして、浴場へ向かった。

 浴場に入ると、彼の顔が変わった。

 懐かしむ顔ではない。

 壊れかけたものを見る職人の顔だった。

 グランは湯船の縁に手を置き、石の表面を撫でた。

「湯はいい」

 短く言う。

 コハルの耳が立つ。

「本当ですか」

「ああ。昔の匂いが戻ってる。温度も悪くねえ。だが」

 グランは床を金槌で叩いた。

 こつん。

 少し場所を変えて、もう一度。

 こつ。

「床が負けてる」

 コハルの表情が固まった。

「床、ですか」

「湯が戻ると、客が戻る。客が戻ると、床は踏まれる。水も増える。湯気も増える。木は膨らむ。石は滑る。排水が追いつかなきゃ、床下が腐る」

 グランは湯船の角を指した。

「湯船の角度も甘い。今は結界で湯を保ってるんだろうが、湯の逃げ場まで殺してどうする」

 アルトは少しだけ眉を動かした。

「湯を逃がさない方がいいと思った」

「熱はな。湯そのものの流れは別だ」

 グランは排水口を見る。

「ここに湯垢が溜まる。足元もぬめる。結界で滑らなくしているから事故になってねえだけだ。滑らない床と清潔な床は違う」

 コハルは黙って聞いていた。

 グランの声は厳しい。

 だが、雑ではない。

 見ている場所が具体的だった。

 床。

 排水。

 湯船の角度。

 湯気の逃げ道。

 梁に染みる湿気。

 人が通る動線。

 アルトの結界で、今は補えている。

 だが、建物そのものが受け止められなければ、長くは持たない。

「何でも結界で済ませりゃいいってもんじゃねえ」

 グランは言った。

 浴場に、その言葉が重く落ちた。

 アルトは反論しなかった。

 できないわけではない。

 結界を厚くすれば、床下の腐食も防げる。排水の流れも補助できる。木の膨張も抑えられる。滑り止めも、湯気の逃げ道も、全部制御できる。

 だが、それは全部、張り続ける必要がある。

 アルトがいなくなったらどうなるのか。

 結界が乱れたらどうなるのか。

 客が増えすぎたらどうなるのか。

 そこまで考えていなかった。

 グランはそれを見抜いたように、鼻を鳴らした。

「お前の術はすげえんだろうよ。道も湯も暖められる。床も滑らなくできる」

 彼は床石をもう一度叩いた。

「だがな。俺たちが石を切って、木を削って、排水を掘って、手すりを入れてきたのは、客が何も考えずに風呂へ入れるようにするためだ」

 グランはアルトを見た。

「結界で全部できるなら、職人はいらねえのか」

 その言葉は、今までの文句より低かった。

 コハルが息を止める。

 グランはすぐに視線を逸らした。

「そう思って、腹が立った」

 浴場に、湯の音がした。

 こぽ、と源泉が落ちる音。

「湯守町が冷えて、客が減って、宿が閉じて、風呂を直す仕事も減った。俺は町を離れた。呼ばれねえ職人は、ただの暇な頑固者だ」

 コハルの耳が少し伏せた。

「グランさん……」

「そこへ、結界師が来た。ぬるい湯を温めた。坂道を楽にした。客を戻した。町の連中がまた顔を上げた」

 グランは、不機嫌そうに言った。

「いいことだ。腹が立つくらい、いいことだ」

 アルトは、少しだけ目を伏せた。

 グランの怒りは、アルト個人に向いているだけではなかった。

 置いていかれる怖さ。

 自分の手が必要なくなるかもしれないという恐れ。

 町が再び動き出す喜びと、その中に自分の居場所がないかもしれない不安。

 その全部が、文句の形になっていた。

 アルトは言った。

「俺は床を直せない」

 グランが顔を上げる。

「何だと」

「床石を替えられない。排水も掘れない。手すりも作れない。梁の湿気も、見ればわかるが、木を削る手はない」

 アルトは浴場を見た。

「結界で支えられる。でも、直せるわけじゃない」

 グランは黙った。

「俺がいなければ壊れる浴場は、宿じゃないだろ」

 その言葉に、コハルがアルトを見た。

 グランも、しばらく動かなかった。

 やがて、鼻を鳴らす。

「わかってるじゃねえか」

「今わかった」

「今か」

「ああ」

 グランは呆れたように息を吐いた。

「だから、たぶん必要だ」

 アルトは言った。

「お前の手が」

 グランの眉が、ぴくりと動いた。

「たぶん、じゃねえ」

「そうか」

「必要なんだよ」

 グランは低く言った。

 怒鳴らなかった。

 だが、その言葉には力があった。

「いい湯は、湯だけじゃできねえ。湯船、床、壁、梁、排水、風、光、人の流れ。全部で風呂だ。そこに結界を張るなら、土台を見ろ。土台を作る奴を見ろ。そこを飛ばして便利だけ乗せるな」

 アルトはうなずいた。

「わかった」

 グランは少しだけ目を細める。

「素直だな」

「反論する理由がない」

「つまらん奴だ」

「よく言われる」

 コハルは、二人を見ていた。

 結界師と職人。

 片方は、見えない境界を整える。

 片方は、石と木と水の流れを整える。

 違うものに見える。

 だが、どちらも客が安心して湯へ入るための仕事だった。

 コハルは、深く頭を下げた。

「グランさん」

「何だ」

「八百万亭だけじゃなく、町全体の浴場を見ていただけませんか」

 グランは顔をしかめた。

「簡単に言うな」

「簡単じゃないのは、わかっています」

「古い宿はどこも傷んでる。湯が戻ったからって、すぐ客を入れられる状態じゃねえ。金も人手も要る」

「はい」

「お前の宿だけでも手一杯だろう」

「はい」

「なら、なぜ町まで見る」

 コハルは頭を下げたまま答えた。

「八百万亭だけでは、湯守町は戻らないからです」

 グランは黙った。

「戻す、じゃありませんでした」

 コハルは言い直す。

「新しくするためです」

 その言葉を聞いて、アルトはコハルを見た。

 昔に戻すのではなく、新しくする。

 コハルは、それを自分の言葉にしていた。

「うちの湯が温かくなって、お客様が来てくださるようになりました。でも、町の道はまだ歩きにくいです。他のお宿も、すぐには客を受け入れられません。浴場も、きっと傷んでいます」

 コハルは顔を上げた。

「だから、グランさんの目が必要です」

 グランの眉がぴくりと動いた。

 職人にとって、自分の目が必要だと言われるのは、弱いところなのかもしれない。

 だが、彼はすぐに渋い顔に戻った。

「金は」

「ありません」

「正直だな」

「誠実営業です」

「営業じゃねえ」

 グランはため息をついた。

「なら、話は終わりだ。俺は職人だ。慈善家じゃねえ」

 コハルの顔が少し曇る。

 だが、ここで引かなかった。

「では、まず八百万亭のお湯に入っていってください」

「話を聞いていたか」

「腰、痛めてますよね」

 グランが止まった。

 コハルは続ける。

「さっき、床を叩く時に、少し腰をかばっていました。右側です。昔から腰を痛めると、歩き方に出るって父さんが言っていました」

 グランは苦い顔をした。

「余計なことを覚えてやがる」

「女将ですので」

 アルトはグランを見た。

 確かに、右腰の筋肉が強張っている。長年の職人仕事によるものだろう。重い石材、湿った床での作業、前屈みの姿勢。魔力より物理で傷んでいる身体だった。

「湯を調整できる」

 アルトが言った。

 グランが横目で見る。

「結界でか」

「そうだ」

「腰痛まで結界で済ませる気か」

「済ませるんじゃない。少し楽にするだけだ」

 グランはしばらく黙った。

 やがて、低く唸る。

「……入るだけだぞ」

 コハルの顔が明るくなる。

「はい!」

「仕事を受けるとは言ってねえ」

「はい!」

 グランは浴場へ入った。

 入浴の様子は描かない。

 アルトは脱衣所の外から、浴場の結界を調整した。

 腰まわりのこわばりをゆるめる。

 古い痛みを消すのではなく、熱を深く入れる。

 筋肉の緊張をほどき、血の巡りを助ける。

 ただし、急に楽になりすぎると、後で動きすぎて悪化する。

 抑えめにする。

 しばらくして、浴場の中から低い声が聞こえた。

「……ちっ」

 コハルがびくりとする。

「何か問題が?」

「問題はねえ」

 グランの声は不機嫌だった。

「腹が立つくらい、腰に効く」

 コハルはアルトを見た。

 アルトは肩をすくめる。

 さらにしばらくして、グランが湯から上がった。

 顔は赤い。眉間の皺は残っている。だが、歩き方が少しだけ変わっていた。右腰をかばう動きが減っている。

 グランは脱衣所から出て、浴場をもう一度見た。

 何も言わない。

 ただ、床、排水、湯船、梁、戸口の順に視線を動かした。

 職人の目だった。

「……腰に効く湯を作れる職人は嫌いじゃねえ」

 やがて、そう言った。

 コハルの耳が立つ。

「では」

「勘違いするな。町全体を見るとは言ってねえ」

「はい」

「まず八百万亭だ。ここを直さなきゃ、他の宿に口を出す資格はねえ」

「はい」

「床を見直す。排水もだ。湯気の抜け道も作る。手すりもいる。年寄りと湯治客が増えるなら、浴場の入口も変えろ」

 コハルは急いで紙を取り出した。

「書きます」

「書くな。まず聞け」

「はい!」

「返事だけはいいな」

 グランはアルトを見た。

「結界師」

「何だ」

「お前の術は使う。だが、術で誤魔化すな。構造で受けられるところは構造で受ける。結界は最後の支えだ」

 アルトは少し黙った。

 そして、うなずいた。

「わかった」

「もうひとつ」

「何だ」

「俺の仕事を奪うな」

 コハルが少しだけ息を呑む。

 グランはアルトを睨んでいた。

 だが、その目には最初ほどの敵意はなかった。

「俺も、お前の仕事は奪わねえ。石と木で受けられるところは俺が受ける。湯と熱と魔力の境目はお前が受けろ」

 アルトは、その言葉を考えた。

 役割。

 分担。

 ひとりで全部を支えないこと。

 結界ロードの休止帯と同じだった。

 進むだけではなく、止まる場所がいる。

 結界だけではなく、構造がいる。

 魔術だけではなく、人の手がいる。

「わかった」

 アルトは言った。

「奪わない」

 グランは鼻を鳴らした。

「なら、少しは話ができる」

「少しなのか」

「職人は簡単に信用しねえ」

「そうか」

「だが、腰の湯は信用する」

 コハルが小さく笑った。

 グランは睨む。

「笑うな」

「すみません。でも、嬉しくて」

「まだ喜ぶな。これから床を剥がすぞ」

「はい!」

「金はないんだったな」

「はい!」

「返事だけは景気がいい」

 グランは工具箱を持ち上げた。

「まず図面を引く。古い旅館も見る。金がないなら、直す順番を決める。危ねえ場所からだ。見栄えは後。客の足元が先」

 コハルは深く頭を下げた。

「お願いします」

「まだ引き受けたとは言ってねえ」

「でも図面を引くって言いました」

「文句を言うためだ」

「助かる文句です」

 グランは、面倒くさそうに顔をそむけた。

 だが、もう帰る気配はなかった。

 浴場の湯気が、古い梁へゆっくり上がっていく。

 結界だけでは足りない。

 職人の手がいる。

 そして、職人の手だけでも、今の湯守町は支えきれない。

 町を新しくするには、便利な魔術だけでなく、古いものを見てきた目も必要だった。石を叩く音と、見えない結界の静けさ。その両方が、これからの湯守町を支えていく。

 コハルは、その二つが同じ浴場に立っているのを見ていた。

 八百万亭は、また少しだけ宿になった。

 そして湯守町は、ようやく職人の手を取り戻し始めていた。



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