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6-2 結界ロード試験運用

 翌朝、町の入口近くの坂道に、赤い布が結ばれた。

 目印だった。

 石段の脇、古い道標の前、雪が残る坂の下。そこから八百万亭へ向かう途中まで、アルトは薄い結界を敷いた。

 見た目はほとんど変わらない。

 雪は残っている。

 石畳も古い。

 坂も急なまま。

 だが、踏むと違う。

 足の裏にかかる重さが少しだけ軽くなる。前へ進む力が、後ろへ逃げにくくなる。雪の上でも滑りにくい。荷物を引く力も、車輪が無駄に空回りしないよう整えられている。

 コハルは坂の下で、両手を握っていた。

「いよいよですね」

「試験だぞ」

「はい。試験運用です」

「言葉だけ急に堅いな」

「ミナさんに教わりました。試験運用と言うと、失敗しても許される感じがします」

「言い方の問題ではない」

 最初の利用者は、丸福堂の老婆だった。

 饅頭の包みを抱えた老婆は、疑わしげに足元を見る。

「見た目は、ただの道だね」

「ただの道が、ちょっと親切になります」

「道が親切ねえ」

 老婆は杖を突き、一歩踏み出した。

 足元の結界が反応する。

 歩幅に合わせて坂の抵抗を少し逃がし、踏み出した足が滑らないよう摩擦を増やす。後ろ足を運ぶ時には、重さを軽くする。

 老婆は二歩、三歩と進んだ。

 いつもなら途中で息が上がる坂だった。だが、今日は違う。身体を押し上げられているわけではない。足元が勝手に動くわけでもない。ただ、坂がいつもより意地悪をしない。

 老婆は半分ほど上がったところで振り返った。

「楽だね」

 コハルの顔が明るくなる。

「本当ですか!」

「嘘をついても足は軽くならないよ」

 老婆はまた歩き出した。

 けれど、坂の上までもう少しというところで、ふいに足を止めた。

 表情が変わる。

 楽だと言った時とは違う。

 少し、怖がっている顔だった。

「おばあちゃん?」

 コハルが声をかける。

 老婆は、結界ロードの上で杖を握り直した。

「……止まりにくいね」

 アルトが目を細める。

「止まりにくい?」

「ああ。足は軽い。坂も楽だ。けどね、楽なぶん、身体が先へ行く気がする」

 老婆は、足元を見た。

「年寄りは、急に楽になるのも怖いんだよ。自分の足じゃないみたいでね」

 コハルの表情が固まった。

 アルトは結界を見た。

 進む補助。

 滑り止め。

 摩擦調整。

 荷重分散。

 確かに、上がることばかり考えていた。

 坂を楽にする。

 滑らないようにする。

 前へ進みやすくする。

 だが、止まることは考えていなかった。

 休むことも。

 自分の意思で、歩く速さを取り戻すことも。

「一度、切る」

 アルトは指を動かした。

 老婆の足元の補助が、ふっと弱まる。ただし滑り止めだけは残す。

 老婆は息を吐いた。

「ああ。止まれた」

 コハルが坂を駆け上がりかけて、途中で止まる。

「大丈夫ですか」

「大丈夫だよ。転んじゃいない」

 老婆は少し笑った。

「でも、これは若い人が考えた道だね」

 その言葉は、軽い叱責のように聞こえた。

 アルトは反論しなかった。

 言われた通りだった。

 そこへ、坂の下から低い声がした。

「道は進むためだけじゃねえ」

 グランだった。

 いつの間に来ていたのか、腕を組んで立っている。まだ正式に協力すると言ったわけではないが、試験の匂いを嗅ぎつけて見に来たらしい。

「グランさん」

 コハルが振り向く。

 グランは坂を見上げた。

「人はな、道の途中で止まる。息をつく。振り返る。荷を持ち替える。連れを待つ。怖くなって一歩戻る。道ってのは、進むだけの線じゃねえ」

 アルトは黙って聞いていた。

「風呂と同じだ。熱けりゃいいってもんじゃねえ。入る、座る、立つ、上がる、休む。全部考えて風呂だ。道も同じだ」

 コハルは小さく頷いた。

「止まれる道」

「そうだ」

 グランは鼻を鳴らした。

「お前ら、便利にすることばかり考えすぎだ」

 アルトは地面を見る。

 結界の帯は、坂道に沿ってまっすぐ伸びている。

 ただ上へ。

 ただ先へ。

 それは、戦場の進軍路にも似ていた。

 兵を前へ進ませるための道。

 だが、湯守町に必要なのは、それではない。

 客が歩く道だ。

 町人が荷を運ぶ道だ。

 年寄りが息をつける道だ。

 子供がはしゃいでも戻ってこられる道だ。

「休止帯を作る」

 アルトは言った。

「何ですか、それ」

「結界の補助が弱まる場所だ。滑り止めだけ残す。そこでは、自分の足で立てる」

 アルトは坂の途中、三か所に薄い円形の結界を置いた。

 進むための帯の中に、止まるための場所。

 休止帯。

 老婆が、そこへ一歩入る。

 足が軽すぎる感覚が消える。坂の抵抗は少し戻る。けれど、滑らない。杖の先も、石畳にしっかり触れる。

「うん」

 老婆は頷いた。

「ここなら、息がつける」

 その声で、コハルの顔に安堵が戻った。

「よかった……」

「よかったじゃないよ。最初から作りな」

「はい!」

 老婆は休止帯で一度息を整え、また歩き出した。

 今度は、怖がらなかった。

 坂の上までたどり着き、饅頭の包みを持ち直す。

「これなら、朝のうちに八百万亭まで持っていける」

 その一言で、コハルは少しだけ目を伏せた。

 便利な道。

 それは観光客だけのものではない。

 町の人が働き続けるための道でもある。

 そして、ただ速く進めるためではない。

 途中で止まれるから、また歩ける道でもある。

「ありがとうございます」

「礼は、ちゃんと続いたら言うよ」

 老婆はそう言ったが、声は昨日より柔らかかった。

 次に、子供たちが来た。

 町に残っている数少ない子供たちである。どこから聞きつけたのか、三人ほどが坂の下に集まっていた。

「これ、乗ると動くの?」

「飛ぶ?」

「滑る?」

 アルトは即答した。

「飛ばない。滑らない。走るな」

 子供たちは、三つとも聞いていない顔をした。

 ひとりが結界ロードに足を乗せる。

「うわ、軽い!」

 もうひとりが乗る。

「足が勝手に前へ出る!」

 三人目は、両手を広げて駆け出そうとした。

 アルトが指を動かす。

 速度制限。

 子供の足元だけ、結界がふわりと受け止める。走ろうとしても、速歩きくらいにしかならない。

「走れない!」

「走るなと言った」

「すごい! 道に怒られた!」

「怒ってはいない」

 子供たちはすぐに、休止帯から休止帯まで何歩で止まれるかを遊びにした。

 コハルは慌てたが、グランは低く笑った。

「子供が遊べる道は、年寄りも歩ける。危なけりゃ、子供が一番先に変な使い方をする。試験にはちょうどいい」

 アルトは子供たちを見た。

 確かに、彼らは想定外の使い方ばかりする。

 面倒だ。

 だが、試験にはなる。

 それを見て、通りの店先から町の人々が顔を出した。

 土産物屋の主人。

 運び屋の男。

 古い旅館の女将。

 湯守神社の管理人。

 最初は遠巻きだった。

 だが、老婆が本当に坂を上がり、子供たちが転ばず遊び、荷物を持ったコハルが楽に歩くのを見て、少しずつ表情が変わっていった。

 昼前には、商人の荷車で試すことになった。

 小型の荷車に、布、薬草、乾物が積まれている。運び屋の男が二人で引く。

「本当に楽になるのか」

「試験です」

 コハルが答える。

「失敗したら?」

「止めます」

 アルトが言った。

 車輪が結界ロードに乗る。

 雪への沈み込みが減り、石畳の凹凸で跳ねにくくなる。荷車の重さそのものは変わらない。だが、押す力が無駄に逃げない。

 男たちは驚いた。

「軽いぞ」

「馬を使わなくても、上まで行けるんじゃないか」

 荷車は坂を上がった。

 途中で止まらない。

 いや、止まらなかった。

「おい、止めるぞ」

 運び屋の一人が言った。

 荷車を押さえようとする。だが、車輪が前へ行こうとする力を完全には殺せない。坂の途中、荷車がわずかに前へ流れる。

 危険というほどではない。

 それでも、荷を引く男たちの顔に緊張が走った。

「待て、待て」

 アルトがすぐに休止帯を広げた。

 荷車の前輪がそこへ入った瞬間、補助が弱まり、車輪の摩擦が増える。車体が、ぴたりと止まった。

 運び屋の男たちは息を吐いた。

「助かった」

「荷車用にも止まる場所が必要だな」

 アルトが言う。

 グランがすぐに口を挟んだ。

「場所だけじゃ足りねえ。荷を置き直す平場もいる。坂の途中で縄が緩んだらどうする」

「平場」

「道幅もだ。客と荷車が同じ帯を通ったら詰まるぞ」

 コハルは急いで紙に書く。

「荷車用休止帯、荷直し平場、客用と荷物用の分離」

「書くのは早いな」

「忘れる前に書きます」

 見ていた商人が、明らかに目の色を変えた。

「これは、荷運び代が変わりますね」

 コハルの耳が立つ。

 商売の匂いを嗅いだ耳だった。

 だが、すぐに真面目な顔に戻る。

「まずは安全です」

 アルトは少しだけ意外に思った。

 以前なら、真っ先に料金の話をしていたかもしれない。

 今のコハルは、客が増える怖さも知っている。便利なものほど、使い方を間違えると危ない。それを少しずつ学んでいた。

 その後も、試験は続いた。

 冒険者のジンは「走らない」と言って走り、三歩目で結界に止められた。

「走るなと言った」

「走ってない。ちょっと急いだ」

「同じだ」

 午後には竜人族の旅人が通り、体重と尾の動きで結界が少し軋んだ。アルトはすぐに補強した。

 子供。

 老人。

 荷車。

 冒険者。

 竜人族。

 同じ道でも、必要な補助はまるで違う。

「一律制御だと危ないな」

 アルトは呟いた。

 コハルが横でうなずく。

「お客様によって、歩き方も重さも違いますね」

「全部同じ扱いにはできない」

「どうしますか」

「個別に認識する」

「できるんですか」

「面倒だが」

 アルトは坂の結界に、新しい層を加えた。

 踏んだものの重さ。

 歩幅。

 接地時間。

 車輪か足か。

 荷物を持っているか。

 走ろうとしているか。

 止まりたがっているか。

 それらを読み取り、補助の強さを変える。

 個別認識結界。

 軍では、部隊ごとに味方識別をするための術だった。

 敵味方を分け、許可された者だけを通すためのもの。

 ここでは違う。

 老人はゆっくり。

 子供は安全に。

 荷車は安定して。

 冒険者は暴走させず。

 竜人族には強度を上げて。

 疲れた者には休める場所を。

 怖がった者には、自分の足で止まれる場所を。

 分けるためではなく、それぞれが歩けるようにするために使う。

 アルトは、結界の感触が戦場と違うことに気づいた。

 同じ術なのに、目的が違うだけで、手触りが変わる。

 夕方近く。

 試験運用はひとまず成功した。

 坂道には、町の人々が集まっていた。

 老婆がまた饅頭を運ぶ。

 子供たちは速度制限のかかった道を笑いながら上り下りする。

 運び屋は荷車で何度も試す。

 商人は真剣に料金と運送量を考えている。

 旅館の主人は、坂の上から自分の宿へ続く道を見ていた。

 最初は遠巻きだった町の人々が、少しずつ近づいてくる。

「うちの前の道にも張れるのか」

「荷物を運ぶ時だけ使えるようにできるか」

「夜でも見えるようにできるか」

「神社の階段はどうだ」

「途中で座れる場所は作れるのか」

 質問が増える。

 疑いだけではない。

 興味が混じっている。

 コハルはその声を受け止めていた。

 ひとつずつ頷き、わからないことはアルトを見る。アルトは面倒そうに答える。グランは横から文句を足す。

「道幅を忘れるな」

「雪の逃げ場もいる」

「安全札も立てろ。字は大きくしろ。年寄りは小さい字を読まん」

 コハルは必死に書いた。

「グランさん、結構協力してくれますね」

「文句を言ってるだけだ」

「助かります」

「助かる文句もある」

 グランはそう言って、少しだけ気まずそうに顔を逸らした。

 結界ロードは、ただの道ではなくなり始めていた。

 交通手段であり、荷運びの助けであり、老人の足であり、子供の遊び場であり、観光客の驚きでもある。

 そして、途中で止まれる場所でもある。

 コハルは坂の上で、町を見下ろした。

 夕方の光が、雪の残る石段に落ちている。

 さっきまでただの坂だった道を、何人もの人が行き来している。途中の休止帯では、老婆が息をつき、子供が足を止め、運び屋が荷縄を締め直していた。

「アルトさん」

「何だ」

「これ、移動手段というより、もう名物です」

「名物にするには危険が残っている」

「だから、ちゃんと安全にして名物にします」

「欲張りだな」

「観光地なので」

 その言い方は、もう冗談だけではなかった。

 コハルは本気で、湯守町を観光地にしようとしている。

 昔に戻すのではない。

 新しくする。

 八百万亭だけでなく、町を歩ける場所にする。

 アルトは坂に張った結界をもう一度確認する。

 負荷は問題ない。

 個別認識も安定している。

 休止帯も、ひとまず機能している。

 夜間には灯りが必要だが、それは次の調整でできる。

 面倒ではある。

 とても面倒ではある。

 だが、坂を上がった老婆の顔を思い出す。

 楽だね。

 その一言だけではなかった。

 止まれた。

 その一言も、今は残っている。

 進めることと、止まれること。

 どちらも必要だった。

 アルトは静かに指を動かし、結界ロードの端を少しだけ広げた。

 石段の次の段まで。

 ほんの少しだけ。

 そこにも、小さな休止帯を置いた。

 町が歩けるようになるには、まだ時間がかかる。

 けれど、最初の一歩は踏まれた。

 そして、その一歩は、ちゃんと止まれる一歩になっていた。



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