表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
21/42

6-1 客は来た、道が死んでいる

 客は、確かに増えた。

 八百万亭の帳場には、これまでになかったものが置かれるようになった。

 予約札。

 荷物預かり札。

 湯治客の名簿。

 ギルドからの紹介状。

 商人の名刺。

 帝国式の封蝋が押された問い合わせの手紙。

 リーゼロッテの推薦状は、まだ町の外へ広く出回ったわけではない。だが、皇女個人の紹介というだけで、十分に重かった。帝都へ戻る途中でいくつかの商会に話が通ったらしく、湯守町の名は少しずつ外の街へ流れ始めていた。

 冒険者だけではない。

 商人。

 冷えに悩む老婦人。

 不眠の魔術師。

 護衛付きの旅人。

 腰を痛めた荷運び職人。

 湯守町の名を昔聞いたことがあるという老夫婦。

 八百万亭の玄関には、以前よりずっと多くの靴が並ぶようになった。

 それは喜ばしいことだった。

 少なくとも、玄関までは。

「馬車が、また止まりました!」

 昼過ぎ、コハルが帳場から飛び出した。

 手には客の宿泊札。耳は立っているが、表情は明るくない。

 アルトは浴場横の廊下で、装備乾燥室の結界を調整していた。濡れた外套が三枚。革靴が二足。魔術師用の布手袋が一組。乾きすぎると傷むものばかりだった。

「またか」

「またです」

 町の入口へ向かうと、帝国商会の馬車が坂道の途中で止まっていた。

 上等な車体だった。だが、雪道には向いていない。車輪が石畳と雪の間で空回りし、馬が白い息を吐いている。御者は困り果て、商人らしき男が外套の裾を押さえながら周囲を見ていた。

 道幅が狭い。

 坂が急すぎる。

 雪が端に残り、車輪の逃げ場がない。

 馬車が止まったことで、後ろにいた荷運びの男たちも通れなくなっている。通りの上からは、足の悪い老人客が杖をついて降りてこようとしていた。

 その足元が、つるりと滑った。

 コハルが息を呑む。

 アルトは指を動かした。

 老人の靴底と石段の間に、薄い摩擦調整の結界を入れる。滑りは止まる。老人は自分で踏みとどまったと思ったのか、驚いた顔で杖を握り直した。

 コハルが小さく息を吐いた。

「今の、ありがとうございます」

「礼を言う前に、道だな」

「はい」

 道だった。

 問題は、はっきりしていた。

 八百万亭の中は変わった。

 湯は温かい。

 部屋は眠れる。

 厨房も動く。

 装備も乾く。

 だが、客はまず町を歩かなければならない。

 町の入口から八百万亭までは、石段と坂が続く。古い宿同士をつなぐ道は細く、冬は雪が残る。夜は灯りが少ない。商人の荷物は重い。老人の足にはきつい。病み上がりの者、不眠でふらつく者、冷え性で足先の感覚が鈍い者にはなおさらだった。

 冒険者なら歩ける。

 だが、湯治客はたいてい疲れている。

 弱っている。

 眠れていない。

 冷えている。

 どこか痛い。

 そういう人間ほど、湯にたどり着く前に疲れ切ってしまう。

 アルトは馬車の車輪に結界を張った。

 車輪が石に噛みすぎないよう、雪の抵抗を逃がし、馬の引く力を無駄なく前へ流す。

 馬車は、ゆっくり動き出した。

 御者が驚く。

「お、おお? 動いた!」

「そのまま真っすぐ」

 アルトが言う。

 馬車は慎重に坂を上がり、ようやく八百万亭方面の広い場所へ入った。

 商人は何度も頭を下げた。

「助かりました」

 コハルは笑顔で応じた。

「ようこそ、湯守町へ」

 その声は明るい。

 だが、アルトにはわかった。

 コハルの目は、もう別のものを見ている。

 馬車が止まった坂。

 老人が滑りかけた石段。

 夜になると暗くなる通り。

 八百万亭だけでなく、他の宿へ向かう細い道。

 宿の中ではなく、町全体を見ている。

 その夜。

 八百万亭の帳場には、また地図が広げられた。

 湯守町の地図。

 何度も使われて、端が擦り切れている。コハルの父親が使っていたものだろう。古い旅館、土産物屋、丸福堂、湯守神社、源泉小屋、運び屋の詰所、町の入口、八百万亭。

 そこへ、コハルは赤い印をつけていく。

「ここで馬車が止まります」

 町の入口。

「ここでお客様が転びかけました」

 石段。

「ここは夜になると暗いです」

 土産物屋の前。

「ここは雪が溜まります」

 神社へ向かう坂。

 アルトは地図を見下ろした。

「宿の次は道か」

「はい」

 コハルは真剣だった。

「観光地は移動も商品です」

 アルトは顔を上げた。

「急にそれっぽいことを言うな」

「昨日、商人さんが言っていました。良い商品も、届かなければ売れないって」

「なるほど」

「八百万亭のお湯も同じです。どれだけ良いお湯でも、お客様がたどり着けなければ意味がありません」

 それは正しかった。

 湯を温めるだけでは足りない。

 部屋を整えるだけでも足りない。

 客が来て、歩いて、泊まって、湯に入り、町を巡り、また帰る。

 その全体が商品になる。

 コハルはそれに気づき始めていた。

「町全体を、歩けるようにしたいです」

 彼女は地図の上に手を置いた。

「足の悪い方でも。荷物を持った商人さんでも。冷えで足が動きにくい方でも。夜に到着した方でも。八百万亭だけじゃなく、丸福堂にも、土産物屋さんにも、他のお宿にも行けるようにしたいんです」

 アルトは腕を組んだ。

 できないことではない。

 少なくとも、一部は。

「摩擦を調整すれば、坂は楽になる」

「摩擦」

「滑らないようにも、重さを逃がすようにもできる。馬車の車輪も同じだ」

 コハルはすぐに筆を取った。

「坂道、摩擦調整」

「慣性も少し制御できる。歩き出しを軽くして、坂で身体が後ろへ引かれにくくする」

「慣性制御」

「ただし、やりすぎると危ない」

「どのくらい危ないですか」

「坂の上まで飛ぶ」

 コハルの筆が止まった。

「それは観光名物になりますか」

「事故だ」

「ですよね」

 コハルは小さく「飛ばさない」と書き足した。

 アルトは地図を見る。

「雪の上だけ足元を安定させる結界もできる。夜は灯りを通りに沿って置く。魔力灯を増やさなくても、反射結界で宿の灯りを少し回せる」

「灯りを回す」

「道の輪郭が見える程度にな」

「すごいです」

「まだ案だ」

「案がすでに商品です」

「また商品にする」

 コハルは笑わなかった。

 真剣に地図を見ている。

「これができたら、町を歩けます」

「ああ」

「お客様が、八百万亭だけじゃなく、町に入れます」

「ああ」

「でも、勝手に町全部に張ったら駄目ですよね」

 アルトは少しだけ意外に思った。

 コハルは続ける。

「道は、八百万亭のものじゃありません。町の人たちに話さないと」

「そうだな」

「また頭を下げに行きます」

「大変だな」

「はい」

 コハルは地図の上で、町の入口から八百万亭まで指を滑らせた。

「でも、今度はお願いだけじゃなくて、見せられるものがあります」

 道を楽にする結界。

 馬車が上がれる坂。

 老人が転ばずに歩ける石段。

 夜でも宿へたどり着ける灯り。

 希望は、まだ小さい。

 だが、形を持ち始めている。

 アルトは地図の端に目をやった。

 そこには、かつての湯守町の湯めぐり道が書かれていた。今は雪に埋もれ、店も閉じ、人も歩かなくなった道。

 その道を、もう一度つなぐ。

 コハルの言う「歩ける街」とは、そういうことなのだろう。

「名前は」

 コハルが急に言った。

「何の」

「道の結界です。名前が必要です」

「必要か?」

「宣伝に必要です」

 アルトは少し考えた。

「結界ロード」

 コハルの耳が立った。

「いいです」

「そうか」

「わかりやすいです。覚えやすいです。ちょっとかっこいいです」

「そうか」

「結界ロード」

 コハルは地図の上、町の入口から八百万亭まで赤い線を引いた。

 一本の線。

 まだ紙の上だけの道。

 だが、そこに客の足音が重なる未来を、彼女はもう見ているようだった。

 アルトはその線を見ながら、少しだけ面倒そうに息を吐いた。

 宿の次は、道。

 道の次は、おそらく町。

 温泉入り放題の対価は、思ったより高くつきそうだった。

 それでも、町の入口で立ち往生していた馬車と、石段で転びかけた老人の姿が頭に残っている。

 湯にたどり着く前に冷えてしまう客は、たぶん放っておけない。

「試すなら、明日の朝だな」

 コハルが顔を上げる。

「やってくれますか」

「小さくな」

「はい」

 コハルは、地図にもう一度赤い線を重ねた。

 その線は、八百万亭へ向かう道であり、湯守町がもう一度外へ開いていく道でもあった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ