6-1 客は来た、道が死んでいる
客は、確かに増えた。
八百万亭の帳場には、これまでになかったものが置かれるようになった。
予約札。
荷物預かり札。
湯治客の名簿。
ギルドからの紹介状。
商人の名刺。
帝国式の封蝋が押された問い合わせの手紙。
リーゼロッテの推薦状は、まだ町の外へ広く出回ったわけではない。だが、皇女個人の紹介というだけで、十分に重かった。帝都へ戻る途中でいくつかの商会に話が通ったらしく、湯守町の名は少しずつ外の街へ流れ始めていた。
冒険者だけではない。
商人。
冷えに悩む老婦人。
不眠の魔術師。
護衛付きの旅人。
腰を痛めた荷運び職人。
湯守町の名を昔聞いたことがあるという老夫婦。
八百万亭の玄関には、以前よりずっと多くの靴が並ぶようになった。
それは喜ばしいことだった。
少なくとも、玄関までは。
「馬車が、また止まりました!」
昼過ぎ、コハルが帳場から飛び出した。
手には客の宿泊札。耳は立っているが、表情は明るくない。
アルトは浴場横の廊下で、装備乾燥室の結界を調整していた。濡れた外套が三枚。革靴が二足。魔術師用の布手袋が一組。乾きすぎると傷むものばかりだった。
「またか」
「またです」
町の入口へ向かうと、帝国商会の馬車が坂道の途中で止まっていた。
上等な車体だった。だが、雪道には向いていない。車輪が石畳と雪の間で空回りし、馬が白い息を吐いている。御者は困り果て、商人らしき男が外套の裾を押さえながら周囲を見ていた。
道幅が狭い。
坂が急すぎる。
雪が端に残り、車輪の逃げ場がない。
馬車が止まったことで、後ろにいた荷運びの男たちも通れなくなっている。通りの上からは、足の悪い老人客が杖をついて降りてこようとしていた。
その足元が、つるりと滑った。
コハルが息を呑む。
アルトは指を動かした。
老人の靴底と石段の間に、薄い摩擦調整の結界を入れる。滑りは止まる。老人は自分で踏みとどまったと思ったのか、驚いた顔で杖を握り直した。
コハルが小さく息を吐いた。
「今の、ありがとうございます」
「礼を言う前に、道だな」
「はい」
道だった。
問題は、はっきりしていた。
八百万亭の中は変わった。
湯は温かい。
部屋は眠れる。
厨房も動く。
装備も乾く。
だが、客はまず町を歩かなければならない。
町の入口から八百万亭までは、石段と坂が続く。古い宿同士をつなぐ道は細く、冬は雪が残る。夜は灯りが少ない。商人の荷物は重い。老人の足にはきつい。病み上がりの者、不眠でふらつく者、冷え性で足先の感覚が鈍い者にはなおさらだった。
冒険者なら歩ける。
だが、湯治客はたいてい疲れている。
弱っている。
眠れていない。
冷えている。
どこか痛い。
そういう人間ほど、湯にたどり着く前に疲れ切ってしまう。
アルトは馬車の車輪に結界を張った。
車輪が石に噛みすぎないよう、雪の抵抗を逃がし、馬の引く力を無駄なく前へ流す。
馬車は、ゆっくり動き出した。
御者が驚く。
「お、おお? 動いた!」
「そのまま真っすぐ」
アルトが言う。
馬車は慎重に坂を上がり、ようやく八百万亭方面の広い場所へ入った。
商人は何度も頭を下げた。
「助かりました」
コハルは笑顔で応じた。
「ようこそ、湯守町へ」
その声は明るい。
だが、アルトにはわかった。
コハルの目は、もう別のものを見ている。
馬車が止まった坂。
老人が滑りかけた石段。
夜になると暗くなる通り。
八百万亭だけでなく、他の宿へ向かう細い道。
宿の中ではなく、町全体を見ている。
その夜。
八百万亭の帳場には、また地図が広げられた。
湯守町の地図。
何度も使われて、端が擦り切れている。コハルの父親が使っていたものだろう。古い旅館、土産物屋、丸福堂、湯守神社、源泉小屋、運び屋の詰所、町の入口、八百万亭。
そこへ、コハルは赤い印をつけていく。
「ここで馬車が止まります」
町の入口。
「ここでお客様が転びかけました」
石段。
「ここは夜になると暗いです」
土産物屋の前。
「ここは雪が溜まります」
神社へ向かう坂。
アルトは地図を見下ろした。
「宿の次は道か」
「はい」
コハルは真剣だった。
「観光地は移動も商品です」
アルトは顔を上げた。
「急にそれっぽいことを言うな」
「昨日、商人さんが言っていました。良い商品も、届かなければ売れないって」
「なるほど」
「八百万亭のお湯も同じです。どれだけ良いお湯でも、お客様がたどり着けなければ意味がありません」
それは正しかった。
湯を温めるだけでは足りない。
部屋を整えるだけでも足りない。
客が来て、歩いて、泊まって、湯に入り、町を巡り、また帰る。
その全体が商品になる。
コハルはそれに気づき始めていた。
「町全体を、歩けるようにしたいです」
彼女は地図の上に手を置いた。
「足の悪い方でも。荷物を持った商人さんでも。冷えで足が動きにくい方でも。夜に到着した方でも。八百万亭だけじゃなく、丸福堂にも、土産物屋さんにも、他のお宿にも行けるようにしたいんです」
アルトは腕を組んだ。
できないことではない。
少なくとも、一部は。
「摩擦を調整すれば、坂は楽になる」
「摩擦」
「滑らないようにも、重さを逃がすようにもできる。馬車の車輪も同じだ」
コハルはすぐに筆を取った。
「坂道、摩擦調整」
「慣性も少し制御できる。歩き出しを軽くして、坂で身体が後ろへ引かれにくくする」
「慣性制御」
「ただし、やりすぎると危ない」
「どのくらい危ないですか」
「坂の上まで飛ぶ」
コハルの筆が止まった。
「それは観光名物になりますか」
「事故だ」
「ですよね」
コハルは小さく「飛ばさない」と書き足した。
アルトは地図を見る。
「雪の上だけ足元を安定させる結界もできる。夜は灯りを通りに沿って置く。魔力灯を増やさなくても、反射結界で宿の灯りを少し回せる」
「灯りを回す」
「道の輪郭が見える程度にな」
「すごいです」
「まだ案だ」
「案がすでに商品です」
「また商品にする」
コハルは笑わなかった。
真剣に地図を見ている。
「これができたら、町を歩けます」
「ああ」
「お客様が、八百万亭だけじゃなく、町に入れます」
「ああ」
「でも、勝手に町全部に張ったら駄目ですよね」
アルトは少しだけ意外に思った。
コハルは続ける。
「道は、八百万亭のものじゃありません。町の人たちに話さないと」
「そうだな」
「また頭を下げに行きます」
「大変だな」
「はい」
コハルは地図の上で、町の入口から八百万亭まで指を滑らせた。
「でも、今度はお願いだけじゃなくて、見せられるものがあります」
道を楽にする結界。
馬車が上がれる坂。
老人が転ばずに歩ける石段。
夜でも宿へたどり着ける灯り。
希望は、まだ小さい。
だが、形を持ち始めている。
アルトは地図の端に目をやった。
そこには、かつての湯守町の湯めぐり道が書かれていた。今は雪に埋もれ、店も閉じ、人も歩かなくなった道。
その道を、もう一度つなぐ。
コハルの言う「歩ける街」とは、そういうことなのだろう。
「名前は」
コハルが急に言った。
「何の」
「道の結界です。名前が必要です」
「必要か?」
「宣伝に必要です」
アルトは少し考えた。
「結界ロード」
コハルの耳が立った。
「いいです」
「そうか」
「わかりやすいです。覚えやすいです。ちょっとかっこいいです」
「そうか」
「結界ロード」
コハルは地図の上、町の入口から八百万亭まで赤い線を引いた。
一本の線。
まだ紙の上だけの道。
だが、そこに客の足音が重なる未来を、彼女はもう見ているようだった。
アルトはその線を見ながら、少しだけ面倒そうに息を吐いた。
宿の次は、道。
道の次は、おそらく町。
温泉入り放題の対価は、思ったより高くつきそうだった。
それでも、町の入口で立ち往生していた馬車と、石段で転びかけた老人の姿が頭に残っている。
湯にたどり着く前に冷えてしまう客は、たぶん放っておけない。
「試すなら、明日の朝だな」
コハルが顔を上げる。
「やってくれますか」
「小さくな」
「はい」
コハルは、地図にもう一度赤い線を重ねた。
その線は、八百万亭へ向かう道であり、湯守町がもう一度外へ開いていく道でもあった。




