5-4 皇女の推薦状
リーゼロッテは、昼前まで八百万亭に残った。
朝食のあと、もう一度だけ湯守町の通りを見たいと言ったからだった。
雪の残る石段を、エマとコハルが付き添って歩く。アルトは少し後ろを歩いた。護衛としてではない。コハルに呼ばれたからである。
湯守町の通りは、まだ寂しかった。
閉じた土産物屋。
古い旅館の褪せた暖簾。
雪に半分埋もれた道標。
煙の細い饅頭屋。
人通りの少ない石段。
それでも、昨日までとは少し違っていた。
丸福堂の店先には、朝から饅頭が並んでいる。少量だが、湯気が上がっていた。運び屋の詰所では、男たちが八百万亭の荷の話をしている。ギルドから来た冒険者が、通りの角で八百万亭の場所を尋ねていた。
町全体が起きたわけではない。
けれど、どこかで誰かがまぶたを動かした。
そのくらいの変化はあった。
リーゼロッテは、丸福堂の前で足を止めた。
老婆が店先から顔を出す。
「おや、八百万亭のお客さんかい」
「ええ。昨夜、泊まりました」
「湯はどうだった」
コハルが少し緊張する。
リーゼロッテは、丁寧に答えた。
「よく温まりました。おかげで、よく眠れました」
老婆の目が、少しだけ変わった。
「そうかい」
それだけだった。
だが、その「そうかい」は、昨日までのものとは違った。
信じるとまではいかない。
けれど、疑うだけでもない。
リーゼロッテは、饅頭をいくつか買った。エマが支払いを済ませる。
老婆は包みを渡しながら、コハルを見た。
「今日の分、あとで持っていくよ」
コハルは一瞬、言葉を失った。
それから深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
リーゼロッテは、そのやり取りを静かに見ていた。
八百万亭へ戻ると、彼女は帳場の前に座り、紙を求めた。
コハルは慌てて一番上等な紙を出した。
といっても、八百万亭で一番上等な紙である。宮廷で使うものとは比べものにならない。少し厚みのある白紙。端に小さな折れがある。
コハルはそれを見て、申し訳なさそうな顔をした。
「すみません。これが一番いい紙で」
「十分です」
リーゼロッテはそう言った。
彼女は筆を取る。
その手つきは美しかった。
筆の持ち方。紙を押さえる指先。墨を含ませる量。どれも、普段から人前で字を書く者の動きだった。
コハルは固唾を呑んで見ている。
アルトは少し離れた場所で、窓枠の隙間を直していた。正確には、隙間から入る冷気の流れを調整していた。たぶん今やる必要はない。だが、何かしていないと居心地が悪かった。
紙の上に、整った文字が並んでいく。
八百万亭の湯について。
冷えに対する効能。
湯上がりの身体の変化。
部屋の静けさ。
眠りの質。
過剰な魔導療法ではなく、自然な休息を助ける場であること。
帝国公式の証明書ではない。
リーゼロッテ個人の紹介状。
だが、彼女の名があれば、それだけで十分な力を持つ。
書き終えると、彼女は署名をした。
リーゼロッテ・フォン・エルディア。
その名を見て、コハルの耳がぴんと立った。
エマが観念したように小さく息を吐く。
隠し名ではなかった。
本名だった。
帝国第三皇女。
コハルは一度、立ち上がりかけて、椅子に座り直した。
膝が少し変な動きをした。
「えっと」
「今さらです」
リーゼロッテは微笑んだ。
「私は昨夜、リゼとして泊まりました。ですが、紹介状には正式な名が必要です」
コハルは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼を言うのは、私の方です」
リーゼロッテは、紹介状を丁寧に折りたたんだ。
「これは、帝国の命令ではありません。私個人の推薦です。ですが、商人や貴族の一部は興味を持つでしょう。特に冷え、不眠、魔力疲労に悩む者たちには」
コハルの目が少し輝いた。
客が増える。
それは、八百万亭にとって大きな機会だった。
だが、すぐに表情が引き締まる。
今の八百万亭では、受けきれない。
冒険者数人で満室になる宿だ。皇族や貴族、商人が来れば、部屋も手も足りない。食事も、布団も、荷運びも、道案内も必要になる。
コハルは自分でそれに気づいた。
「八百万亭だけでは、足りませんね」
リーゼロッテは頷いた。
「おそらく」
「湯守町全体で、受け入れないと」
「ええ。町全体にとって、機会にもなり、試練にもなるでしょう」
試練。
その言葉は重かった。
ただ客が増えるだけなら喜べる。
だが、受け入れられなければ失望に変わる。
町の人々がまだ疑っている今、その失敗は大きい。
コハルは紹介状を両手で受け取った。
紙の重さは軽い。
しかし、そこに乗っているものは軽くなかった。
「大切に使います」
「使ってください。飾るものではありません」
リーゼロッテは静かに言った。
「この宿は、眠れない者を眠らせました。それは、もっと知られていいことです」
コハルは言葉を飲み込んだ。
泣きそうになっているのを、必死に抑えていた。
その時、アルトが窓際から言った。
「泣くと紙が濡れるぞ」
コハルは慌てて目元を押さえた。
「泣いてません」
「そうか」
「まだです」
「まだなのか」
リーゼロッテが小さく笑った。
その笑いは、昨日より自然だった。
午後、リーゼロッテは八百万亭を発つことになった。
エマが馬車の準備を確認する。
コハルは弁当と丸福堂の饅頭を包んだ。
饅頭は、老婆から届いたものだった。
まだ温かい。
玄関には、リーゼロッテの靴が揃えられていた。
コハルは深く頭を下げる。
「またのお帰りを、お待ちしております」
その言葉を口にした時、彼女の声は震えなかった。
戻すのではなく、新しくする。
そう決めたあとの言葉だった。
リーゼロッテは足を止めた。
「お帰り、ですか」
「はい。八百万亭では、また来てくださるお客様に、そう申し上げます」
リーゼロッテは少しだけ目を伏せた。
「では、また帰ってきます」
コハルの顔が明るくなる。
「はい」
馬車に乗る前、リーゼロッテはアルトの方へ歩み寄った。
エマが少し離れて見守る。
「アルト様」
「様は要らない」
「では、アルトさん」
「何だ」
リーゼロッテは、八百万亭の古い看板を見上げた。
「あなたの結界は、戦場に置くには惜しいです」
アルトは少し黙った。
その言葉は、バルドスの言葉とは違っていた。
攻撃できないから不要だ、ではない。
防御だから価値が低い、でもない。
戦場に使うには、もったいない。
そう聞こえた。
「温泉に置くには?」
アルトが訊くと、リーゼロッテは微笑んだ。
「贅沢ですわね」
少し間を置く。
「けれど、正しい贅沢です」
アルトは返事をしなかった。
ただ、八百万亭の玄関から流れる湯気の匂いを感じていた。
贅沢。
戦場では、そんな言葉はなかった。
しかし、眠れない人間が眠るために結界を使うこと。
冷えた指先を温めるために湯を整えること。
疲れた冒険者が朝に歩き出すために宿を守ること。
それが贅沢なら、悪くない。
リーゼロッテを乗せた馬車は、雪の石段をゆっくり下っていった。
八百万亭の玄関に、しばらく静けさが残る。
コハルは紹介状を抱えたまま、深く息を吐いた。
「アルトさん」
「何だ」
「大変なことになりました」
「そうだな」
「嬉しいです」
「そうか」
「でも、怖いです」
その声は正直だった。
アルトは玄関の外を見た。
湯守町の通り。
雪の残る道。
古い店。
閉じた旅館。
細い石段。
ここに客が来る。
帝国の商人や貴族が来るかもしれない。
湯治客が増えるかもしれない。
八百万亭だけでは足りない。
町全体で受け止める必要がある。
その時、町の入口から車輪の音が聞こえた。
一台の馬車が、ゆっくりと坂を上がってくる。
帝国式の荷馬車だった。
側面には商会の紋章。
後ろには荷物を積んだ小型の馬車が続いている。
御者が通りの入口で声を張った。
「湯守町の八百万亭という宿は、こちらで合っていますか!」
コハルの耳が立った。
紹介状の力ではない。
まだ早すぎる。
たぶん、リーゼロッテより前に噂を聞いていた商人だろう。ギルドの口コミか、冒険者から流れた話か。いずれにせよ、客は増え始めている。
コハルは一歩前へ出ようとして、すぐに止まった。
馬車は、石段の前で難儀していた。
雪が残っている。
道幅も狭い。
坂も急だ。
荷物を積んだ馬にはきつい。
御者が困った顔で周囲を見回している。
コハルは紹介状を胸に抱いたまま、呟いた。
「……道」
アルトも同じものを見ていた。
客は来る。
だが、町へ入る道が死んでいる。
八百万亭の湯は温かくなった。
部屋も眠れる場所になった。
宿は少しずつ動き始めた。
次は、客がそこへたどり着ける町にしなければならない。
湯守町の問題は、宿の中から、道へ広がっていた。




