5-3 初めて眠れた朝
朝の光が、障子を白くしていた。
リーゼロッテは、しばらく目を開けたまま動かなかった。
知らない天井だった。
宮廷の天井ではない。
金の装飾もない。
天使の絵もない。
魔除けの紋章もない。
黒く艶のある古い梁。
白い障子。
畳の匂い。
遠くから聞こえる湯の音。
最初、自分がどこにいるのかわからなかった。
次に、自分が眠っていたのだと気づいた。
深く。
長く。
夜の途中で起きなかった。
水を求めなかった。
窓を開けなかった。
書類に手を伸ばさなかった。
眠れないことを誰かに悟られないよう、横になったまま朝を待つこともしなかった。
眠っていた。
ただ、それだけのことだった。
それだけのことが、リーゼロッテには長い間できなかった。
彼女は布団の上で、手を持ち上げた。
指先が冷えていない。
胸の奥に、鉛のような重さがない。
頭の後ろで張りつめていた糸が、少しだけ緩んでいる。
呼吸が深い。
朝とは、こういうものだったのか。
そう思った瞬間、涙がこぼれた。
自分でも、驚いた。
泣くつもりはなかった。
リーゼロッテは慌てて袖で目元を押さえる。
宮廷で身につけた癖だった。感情を早く隠す。乱れを整える。人に見られる前に、表情を作る。
だが、部屋には誰もいなかった。
それでも、彼女は涙を拭いた。
そうしてから、ゆっくり身体を起こす。
布団の温かさが名残惜しかった。
戸の向こうで、控えめな声がした。
「リゼ様。お目覚めでしょうか」
エマだった。
リーゼロッテは少し間を置いてから答える。
「ええ」
声が出た。
昨日より、少し楽に。
戸が開き、エマが入ってくる。
護衛の顔は、いつも通りに整えられていた。だが、リーゼロッテを見た瞬間、その目がわずかに揺れた。
「お加減は」
「問題ありません」
いつもの返事をしようとして、リーゼロッテは言葉を止めた。
問題ない。
それは、宮廷で何度も口にしてきた嘘だった。
今朝は違う。
彼女は布団の上で、少しだけ目を伏せた。
「……少し、よく眠れました」
その言葉を聞いた瞬間、エマの顔が崩れかけた。
護衛としては失格だったかもしれない。
けれど、長い間リーゼロッテの夜を知っていた者としては、当然の反応だった。
「それは」
エマはそこで言葉を失う。
リーゼロッテは微笑もうとした。
いつもの宮廷の微笑みではなく、もっと小さく、頼りないものになった。
「大げさです」
「いいえ」
エマは首を振った。
「大げさでは、ありません」
朝食は、一階の小さな食堂に用意されていた。
リーゼロッテが降りてくると、コハルは盆を持ったまま立ち止まった。
彼女の顔を見て、すぐにわかったのだろう。
血色が戻っていること。
目の奥の緊張が薄れていること。
背筋は相変わらず伸びているが、肩の力が少し抜けていること。
コハルの目が潤んだ。
だが、すぐに女将の顔になった。
「おはようございます。昨夜は、お休みいただけましたでしょうか」
リーゼロッテは席についた。
「少し、よく眠れました」
同じ言葉だった。
しかし、今度はコハルに向けて言った。
コハルは笑顔で頭を下げた。
「それは、よろしゅうございました」
声が少し震えていた。
アルトが厨房から粥の椀を運んできた。
根菜の粥。
温かい汁物。
蒸した野菜。
丸福堂の小さな温泉饅頭。
湯上がり牛乳ではなく、朝用に少し温めた山羊乳。
高級な朝食ではない。
だが、湯上がりと眠った後の身体に合うよう、整えられていた。
アルトは椀を置く。
「よく眠れたなら、飯を食え」
エマが一瞬、注意しようとした。
だが、リーゼロッテが先に笑った。
声を出して、ほんの少し笑った。
その笑いは、年相応だった。
皇女のものではなく、よく眠った若い女のものだった。
「あなたは、本当に遠慮がありませんね」
「食べないと冷める」
「結界で保温しているのでは?」
「それでも、飯は出された時に食う方がいい」
リーゼロッテは匙を取った。
一口食べる。
温かい。
派手な味ではない。
宮廷の料理のように、香辛料も飾りも多くない。
けれど、胃に静かに落ちていく。
「……おいしい」
コハルが、今度こそ泣きそうな顔になった。
アルトは壁際に立ったまま、何も言わなかった。
朝食のあと、リーゼロッテは帳場の前に座った。
客としてではなく、別の立場として話をする顔になっていた。
エマは彼女の後ろに控える。
コハルも正面に座る。少し緊張している。アルトは柱にもたれている。
「まず、礼を言います」
リーゼロッテは静かに言った。
「昨夜の眠りは、私にとって、治療以上のものでした」
コハルは深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
「八百万亭の湯と部屋は、価値があります。少なくとも、私がこれまで受けたどの湯治、どの魔導療法よりも、身体に合いました」
その言葉には、重さがあった。
ただの褒め言葉ではない。
帝国第三皇女の評価である。
コハルもそれを理解したのだろう。背筋を伸ばした。
「光栄です」
リーゼロッテは続ける。
「だからこそ、危ういとも思います」
部屋の空気が少し変わった。
「危うい、ですか」
「ええ」
リーゼロッテの視線が、アルトへ向く。
「あなたの結界術は、宿のために使われています。湯を保ち、冷気を遮り、眠りを守る。その使い方は、とても正しいと思います」
「正しいかは知らない」
「少なくとも、私はそう思いました」
リーゼロッテは少し目を伏せる。
「けれど、権力を持つ者が見れば、別の価値を見出します。冷気を遮断できるなら、軍の進軍路を確保できる。魔力刺激を制御できるなら、魔導兵の疲労を抑えられる。衝撃を分散できるなら、城壁も兵站も守れる。眠りを整えられるなら、軍の休養効率も上がる」
コハルの表情が少し硬くなる。
アルトは黙っていた。
わかっていた。
それは、魔王軍でも同じだった。
ただ、魔王軍はアルトの価値を理解しなかった。
理解されなかったから、追放された。
だが、理解されれば安全かと言えば、違う。
利用される。
戦場へ戻される。
「この宿と湯守町を守るために、帝国の保護を受けるという道があります」
リーゼロッテは言った。
「私の名で推薦状を出すこともできます。帝国貴族の湯治先として認められれば、無闇に手出しはされにくくなるでしょう」
コハルの耳がわずかに動いた。
それは魅力的な提案だった。
八百万亭は弱い。
湯守町も弱い。
金も、人も、後ろ盾もない。
帝国の保護があれば、客は増える。安全にもなる。町の人々も信じやすくなるかもしれない。
コハルは一瞬、迷った。
その迷いは自然だった。
宿を守りたい。
ならば強い力の傘に入るのは、間違いではない。
リーゼロッテは、さらに続ける。
「ただし、その場合、アルト様の結界術について、一部情報の提供を求められる可能性があります。軍事利用ではない形に限定するよう、私から働きかけることはできますが」
「限定できるのか」
アルトが初めて口を開いた。
リーゼロッテはすぐには答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
「……完全には、難しいでしょう」
正直な返答だった。
「帝国は大きな国です。私の言葉だけですべてを止めることはできません。あなたの術は、価値が高すぎます」
コハルはアルトを見た。
その顔に、迷いがある。
宿を守れるかもしれない。
町を守れるかもしれない。
けれど、そのためにアルトをどこかへ差し出すことになるのではないか。
その迷いだった。
アルトは首を振った。
「戦場に戻すなら断る」
短い言葉だった。
だが、迷いはなかった。
コハルは何かを言おうとして、口を閉じた。
リーゼロッテは、アルトをじっと見た。
「あなたは、戦場がお嫌いなのですね」
「向いていない」
「攻撃できないから?」
「そう言われた」
「では、本当は?」
アルトは少しだけ黙った。
食堂の奥から、湯の音が聞こえる。
朝の八百万亭は温かい。
客の靴が玄関にある。
厨房では、コハルが出し忘れた温泉饅頭がまだ蒸し器の中にある。
「誰を守るか、決めるのが苦手だった」
アルトは言った。
「戦場では、それが駄目だった」
リーゼロッテは、その意味を理解したようだった。
敵も味方も、死にそうなら守ってしまう。
火を防ぎ、矢を止め、逃げ道を閉じない。
軍にとっては扱いにくい。
戦争に向かない。
けれど、宿では違う。
ここでは、守る相手を選ばなくていい。
眠れない客を眠らせる。
冷えた身体を温める。
疲れた冒険者を休ませる。
帰ってくる場所を整える。
リーゼロッテは静かに息を吐いた。
「そうですか」
そして、コハルを見た。
「軽率な提案でした」
「いえ」
コハルは首を振った。
「宿を守れるかもしれないって、一瞬思いました。だから、軽率ではありません」
言ってから、コハルはアルトを見た。
「でも、アルトさんを戦場に戻すなら、私も嫌です」
アルトは少しだけ目を伏せた。
リーゼロッテは、二人を見比べる。
そして、わずかに微笑んだ。
「では、別の形を考えましょう」
「別の形?」
「ええ。軍事技術としてではなく、湯治宿として。私個人が、八百万亭を推薦する形なら可能です」
それは保護ではない。
だが、後ろ盾にはなる。
完全な安全ではない。
だが、最初の一歩にはなる。
コハルの目に、静かな光が戻った。
「お願いします」
リーゼロッテは頷く。
「昨夜、私は眠りました。その事実だけで、推薦状を書く理由としては十分です」
食堂に、朝の湯気が残っている。
アルトは窓の外を見た。
湯守町の通りは、まだ寂しい。
だが、少しずつ人が来る。
冒険者。
ギルド職員。
饅頭屋の老婆。
そして、眠れない皇女。
この宿が何を守る場所なのか、少しずつ見えてきていた。




