5-2 快眠客室
リーゼロッテの部屋は、八百万亭で一番静かな場所にあった。
二階の奥。
廊下の行き止まりに近い部屋。
窓の外には、湯守町の通りが見える。夜になれば、八百万亭の玄関灯と、丸福堂の小さな灯りだけが目立つ場所だった。豪華ではない。広くもない。だが、余計なものが少なかった。
アルトは部屋の中央に立ち、空気の流れを見ていた。
冷気は窓際から入る。
床下からも少し上がる。
廊下の足音は、障子と壁を通して届く。
火鉢の熱は部屋の隅まで届かない。
魔力の流れは悪くないが、古い柱に少しだけ乱れがある。
普通の客なら問題ない。
だが、リーゼロッテには足りない。
彼女は、疲れすぎていた。
疲労が身体の表面ではなく、奥に沈んでいる。眠れていない者特有の、張りつめた魔力の流れだった。糸が切れないよう、ずっと自分で引っ張り続けている。だから、ほどこうとすると逆に抵抗する。
無理に眠らせる結界は危ない。
眠りを押しつけるのではなく、眠ってもいい状態へ戻す必要がある。
アルトは指先を動かした。
一枚目。
冷気遮断。
窓枠と床下から入る冷えを止める。ただし、空気を完全に閉じ込めない。息苦しくなれば意味がない。
二枚目。
音の調整。
廊下の足音、食堂の片付け、遠くの扉の音をやわらげる。完全な無音にはしない。無音はかえって不安を呼ぶ。湯の音だけは、ほんの少し残した。
三枚目。
過剰な魔力刺激の遮断。
この町には源泉の魔力がある。普通の客には心地よいが、疲れ切った魔力回路には刺激が強い場合がある。必要な分だけ通し、余分な波を逃がす。
四枚目。
湿度調整。
喉を乾かさず、呼吸が浅くならない程度に空気を整える。火鉢の熱と湯気の名残を混ぜる。
五枚目。
寝具の温度固定。
布団に入った時、冷たさで身体が強張らないようにする。温めすぎてもいけない。眠りに入る時の身体は、熱を少しずつ逃がす。そこを邪魔しない温度に保つ。
最後に、薄い結界を部屋全体へ重ねる。
悪夢を直接消すのではない。
悪夢を呼びやすい刺激を減らす。
眠りに沈む時、身体が勝手に警戒へ戻らないようにする。
アルトは息を吐いた。
「こんなところか」
部屋の入口で見ていたコハルが、小さな声で訊いた。
「これで眠れますか」
「たぶん」
「たぶん」
「眠るのは本人だからな」
コハルはうなずいた。
その顔は、いつもの商売顔ではなかった。
相手が皇女だからではない。身分を察して緊張しているのは確かだが、それだけではなかった。
眠れない人がいる。
そのこと自体に、彼女は少し驚いているようだった。
「眠れるって、当たり前じゃないんですね」
「たぶんな」
「アルトさんは、どこでも寝られそうです」
「眠れる時は寝る」
「強いですね」
「強いのか、それは」
コハルは少しだけ笑った。
だが、すぐに真面目な顔へ戻る。
「お湯の方は」
「もう仕込んだ」
「いつの間に」
「さっき」
浴場の湯には、リーゼロッテ用の結界を重ねてある。
末端の冷えを取る温熱循環結界。
手足の先で滞っている熱を、ゆっくり中心へ戻す。
魔力の流れを急に変えない。
固まった肩と背中を、温度の差でほどいていく。
熱すぎる湯は駄目だ。
冷えた身体には、強すぎる熱も負担になる。
だから、湯はいつもの四十一・五度より少しだけ低くした。入った瞬間に温かく、長く浸かっても疲れない温度。
コハルは感心したように言った。
「お客様ごとに変えるんですね」
「変えた方がいい場合は」
「宿っぽいです」
「今さらだな」
「今、すごく宿っぽいです」
その言葉に、アルトは少しだけ黙った。
宿っぽい。
確かにそうかもしれない。
ただ湯を温めるだけではない。
ただ部屋を暖かくするだけでもない。
客の状態を見て、湯と部屋を合わせる。
それは、戦場の結界とはまるで違った。
戦場では、矢も火も同じように止めればよかった。
ここでは、人によって必要なものが違う。
ジンには疲労回復。
ミナには肩のこわばり。
冒険者には装備乾燥と快眠。
リーゼロッテには、眠ってもいいと思える部屋。
結界の使い方が、少しずつ変わっていく。
しばらくして、リーゼロッテが湯から戻ってきた。
入浴そのものは見えなかった。
廊下の奥から、護衛のエマと共に歩いてくる姿だけが見えた。
だが、入る前とは違っていた。
頬に、薄く血色が戻っている。
唇にも少しだけ色がある。
肩が下がっている。
指先を隠すように握っていた手が、今は外套の前で自然に重なっている。
何より、声が違った。
「良いお湯でした」
静かな声だった。
硬さが、少しだけ取れている。
コハルは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
リーゼロッテは部屋の前で立ち止まり、少し考えてから言った。
「悪くありませんわ」
その場に、微妙な沈黙が落ちた。
エマは一瞬だけ目を閉じた。
たぶん、それが彼女なりの最大級の褒め言葉だと知っているのだろう。
コハルは小声でアルトに言った。
「最高評価っぽいです」
「わかりにくい客だな」
声は小さかったが、リーゼロッテには聞こえたらしい。
彼女は少しだけ眉を上げた。
「聞こえています」
「すまない」
アルトは素直に謝った。
リーゼロッテは怒らなかった。
むしろ、ほんの少し笑った。
「構いません。わかりにくいとは、よく言われます」
その笑みは、まだ疲れていた。
だが、宮廷の作法で作った笑みではなかった。
コハルは部屋の戸を開けた。
「お部屋も整えてあります。無理に眠ろうとしなくても大丈夫です。横になっているだけでも、身体は休まるそうです」
リーゼロッテは、アルトを見た。
「あなたがそう言ったのですね」
「言った」
「眠らなければ、と思わなくていいのですね」
「思うと眠れないことがある」
リーゼロッテは目を伏せた。
その言葉を、ゆっくり受け取るように。
「……そうですか」
彼女は部屋へ入った。
エマも続こうとしたが、リーゼロッテが首を振った。
「今夜は、隣の部屋で休んで」
「しかし」
「命令ではありません。お願いです」
エマは迷った。
だが、やがて頭を下げる。
「何かあれば、すぐに」
「ええ」
戸が閉まる。
廊下に、静けさが戻った。
コハルは、戸の前で少しだけ立ち尽くしていた。
「大丈夫でしょうか」
「今は待つしかない」
「そうですね」
夜が深くなった。
八百万亭の灯りが、ひとつずつ落ちていく。
食堂の片付けも終わり、浴場の湯音だけが残った。外では雪がまた降り始めている。屋根に落ちる雪は、結界で静かに逃がされ、音にならない。
リーゼロッテの部屋の前で、エマは何度も足を止めた。
護衛としては、確認したいのだろう。
しかし、戸を開けない。
開ければ、眠りを壊すかもしれない。
その葛藤が、廊下に立つ背中から伝わってきた。
やがて、エマが小さく呟いた。
「起きてこない」
コハルがそっと近づく。
「いつもは?」
「夜中に、何度も。水を求めたり、窓を開けたり、書類を読もうとしたり。眠れないことを悟られないように、眠る必要がないふりをなさる」
エマの声は低かった。
「朝まで眠ることなど、ここ数年ありません」
コハルは戸を見る。
その向こうからは、何も聞こえない。
ただ、静かだった。
不安になるほどの静けさではない。
部屋が、眠りを守っている静けさだった。
アルトも廊下の壁にもたれていた。
結界は安定している。
呼吸も乱れていない。
魔力の流れも、さっきより少し緩んでいる。
眠っている。
深く、というほどではない。
まだ身体は警戒を残している。
だが、起きてはいない。
眠りに落ちている。
コハルは声を落とした。
「人が眠れるって、すごいことなんですね」
アルトは何も言わなかった。
ただ、小さくうなずいた。
眠る。
それは、戦場では隙だった。
魔王軍では、次の命令に備えるための短い停止だった。
けれど、この宿では違う。
人が自分を閉じずに済む時間。
誰かに見張られず、何かを背負わず、朝まで目を閉じていられる場所。
そのために結界を張る。
矢を止めるより、火を遮るより、ずっと静かな仕事だった。
だが、悪くなかった。
夜はさらに深くなる。
リーゼロッテは起きてこない。
エマは何度か戸の前を見に来て、そのたびに立ち止まり、やがて隣室へ戻っていった。
コハルも帳場へ戻る。
だが、何度か廊下を見に来た。
その顔には、商売の計算はなかった。
ただ、客が眠れていることを、静かに喜んでいる女将の顔だった。
朝まで、リーゼロッテの部屋の灯りは点かなかった。
八百万亭は、その夜、ひとりの眠りを守り続けた。




