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18/42

5-2 快眠客室

リーゼロッテの部屋は、八百万亭で一番静かな場所にあった。

 二階の奥。

 廊下の行き止まりに近い部屋。

 窓の外には、湯守町の通りが見える。夜になれば、八百万亭の玄関灯と、丸福堂の小さな灯りだけが目立つ場所だった。豪華ではない。広くもない。だが、余計なものが少なかった。

 アルトは部屋の中央に立ち、空気の流れを見ていた。

 冷気は窓際から入る。

 床下からも少し上がる。

 廊下の足音は、障子と壁を通して届く。

 火鉢の熱は部屋の隅まで届かない。

 魔力の流れは悪くないが、古い柱に少しだけ乱れがある。

 普通の客なら問題ない。

 だが、リーゼロッテには足りない。

 彼女は、疲れすぎていた。

 疲労が身体の表面ではなく、奥に沈んでいる。眠れていない者特有の、張りつめた魔力の流れだった。糸が切れないよう、ずっと自分で引っ張り続けている。だから、ほどこうとすると逆に抵抗する。

 無理に眠らせる結界は危ない。

 眠りを押しつけるのではなく、眠ってもいい状態へ戻す必要がある。

 アルトは指先を動かした。

 一枚目。

 冷気遮断。

 窓枠と床下から入る冷えを止める。ただし、空気を完全に閉じ込めない。息苦しくなれば意味がない。

 二枚目。

 音の調整。

 廊下の足音、食堂の片付け、遠くの扉の音をやわらげる。完全な無音にはしない。無音はかえって不安を呼ぶ。湯の音だけは、ほんの少し残した。

 三枚目。

 過剰な魔力刺激の遮断。

 この町には源泉の魔力がある。普通の客には心地よいが、疲れ切った魔力回路には刺激が強い場合がある。必要な分だけ通し、余分な波を逃がす。

 四枚目。

 湿度調整。

 喉を乾かさず、呼吸が浅くならない程度に空気を整える。火鉢の熱と湯気の名残を混ぜる。

 五枚目。

 寝具の温度固定。

 布団に入った時、冷たさで身体が強張らないようにする。温めすぎてもいけない。眠りに入る時の身体は、熱を少しずつ逃がす。そこを邪魔しない温度に保つ。

 最後に、薄い結界を部屋全体へ重ねる。

 悪夢を直接消すのではない。

 悪夢を呼びやすい刺激を減らす。

 眠りに沈む時、身体が勝手に警戒へ戻らないようにする。

 アルトは息を吐いた。

「こんなところか」

 部屋の入口で見ていたコハルが、小さな声で訊いた。

「これで眠れますか」

「たぶん」

「たぶん」

「眠るのは本人だからな」

 コハルはうなずいた。

 その顔は、いつもの商売顔ではなかった。

 相手が皇女だからではない。身分を察して緊張しているのは確かだが、それだけではなかった。

 眠れない人がいる。

 そのこと自体に、彼女は少し驚いているようだった。

「眠れるって、当たり前じゃないんですね」

「たぶんな」

「アルトさんは、どこでも寝られそうです」

「眠れる時は寝る」

「強いですね」

「強いのか、それは」

 コハルは少しだけ笑った。

 だが、すぐに真面目な顔へ戻る。

「お湯の方は」

「もう仕込んだ」

「いつの間に」

「さっき」

 浴場の湯には、リーゼロッテ用の結界を重ねてある。

 末端の冷えを取る温熱循環結界。

 手足の先で滞っている熱を、ゆっくり中心へ戻す。

 魔力の流れを急に変えない。

 固まった肩と背中を、温度の差でほどいていく。

 熱すぎる湯は駄目だ。

 冷えた身体には、強すぎる熱も負担になる。

 だから、湯はいつもの四十一・五度より少しだけ低くした。入った瞬間に温かく、長く浸かっても疲れない温度。

 コハルは感心したように言った。

「お客様ごとに変えるんですね」

「変えた方がいい場合は」

「宿っぽいです」

「今さらだな」

「今、すごく宿っぽいです」

 その言葉に、アルトは少しだけ黙った。

 宿っぽい。

 確かにそうかもしれない。

 ただ湯を温めるだけではない。

 ただ部屋を暖かくするだけでもない。

 客の状態を見て、湯と部屋を合わせる。

 それは、戦場の結界とはまるで違った。

 戦場では、矢も火も同じように止めればよかった。

 ここでは、人によって必要なものが違う。

 ジンには疲労回復。

 ミナには肩のこわばり。

 冒険者には装備乾燥と快眠。

 リーゼロッテには、眠ってもいいと思える部屋。

 結界の使い方が、少しずつ変わっていく。

 しばらくして、リーゼロッテが湯から戻ってきた。

 入浴そのものは見えなかった。

 廊下の奥から、護衛のエマと共に歩いてくる姿だけが見えた。

 だが、入る前とは違っていた。

 頬に、薄く血色が戻っている。

 唇にも少しだけ色がある。

 肩が下がっている。

 指先を隠すように握っていた手が、今は外套の前で自然に重なっている。

 何より、声が違った。

「良いお湯でした」

 静かな声だった。

 硬さが、少しだけ取れている。

 コハルは深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

 リーゼロッテは部屋の前で立ち止まり、少し考えてから言った。

「悪くありませんわ」

 その場に、微妙な沈黙が落ちた。

 エマは一瞬だけ目を閉じた。

 たぶん、それが彼女なりの最大級の褒め言葉だと知っているのだろう。

 コハルは小声でアルトに言った。

「最高評価っぽいです」

「わかりにくい客だな」

 声は小さかったが、リーゼロッテには聞こえたらしい。

 彼女は少しだけ眉を上げた。

「聞こえています」

「すまない」

 アルトは素直に謝った。

 リーゼロッテは怒らなかった。

 むしろ、ほんの少し笑った。

「構いません。わかりにくいとは、よく言われます」

 その笑みは、まだ疲れていた。

 だが、宮廷の作法で作った笑みではなかった。

 コハルは部屋の戸を開けた。

「お部屋も整えてあります。無理に眠ろうとしなくても大丈夫です。横になっているだけでも、身体は休まるそうです」

 リーゼロッテは、アルトを見た。

「あなたがそう言ったのですね」

「言った」

「眠らなければ、と思わなくていいのですね」

「思うと眠れないことがある」

 リーゼロッテは目を伏せた。

 その言葉を、ゆっくり受け取るように。

「……そうですか」

 彼女は部屋へ入った。

 エマも続こうとしたが、リーゼロッテが首を振った。

「今夜は、隣の部屋で休んで」

「しかし」

「命令ではありません。お願いです」

 エマは迷った。

 だが、やがて頭を下げる。

「何かあれば、すぐに」

「ええ」

 戸が閉まる。

 廊下に、静けさが戻った。

 コハルは、戸の前で少しだけ立ち尽くしていた。

「大丈夫でしょうか」

「今は待つしかない」

「そうですね」

 夜が深くなった。

 八百万亭の灯りが、ひとつずつ落ちていく。

 食堂の片付けも終わり、浴場の湯音だけが残った。外では雪がまた降り始めている。屋根に落ちる雪は、結界で静かに逃がされ、音にならない。

 リーゼロッテの部屋の前で、エマは何度も足を止めた。

 護衛としては、確認したいのだろう。

 しかし、戸を開けない。

 開ければ、眠りを壊すかもしれない。

 その葛藤が、廊下に立つ背中から伝わってきた。

 やがて、エマが小さく呟いた。

「起きてこない」

 コハルがそっと近づく。

「いつもは?」

「夜中に、何度も。水を求めたり、窓を開けたり、書類を読もうとしたり。眠れないことを悟られないように、眠る必要がないふりをなさる」

 エマの声は低かった。

「朝まで眠ることなど、ここ数年ありません」

 コハルは戸を見る。

 その向こうからは、何も聞こえない。

 ただ、静かだった。

 不安になるほどの静けさではない。

 部屋が、眠りを守っている静けさだった。

 アルトも廊下の壁にもたれていた。

 結界は安定している。

 呼吸も乱れていない。

 魔力の流れも、さっきより少し緩んでいる。

 眠っている。

 深く、というほどではない。

 まだ身体は警戒を残している。

 だが、起きてはいない。

 眠りに落ちている。

 コハルは声を落とした。

「人が眠れるって、すごいことなんですね」

 アルトは何も言わなかった。

 ただ、小さくうなずいた。

 眠る。

 それは、戦場では隙だった。

 魔王軍では、次の命令に備えるための短い停止だった。

 けれど、この宿では違う。

 人が自分を閉じずに済む時間。

 誰かに見張られず、何かを背負わず、朝まで目を閉じていられる場所。

 そのために結界を張る。

 矢を止めるより、火を遮るより、ずっと静かな仕事だった。

 だが、悪くなかった。

 夜はさらに深くなる。

 リーゼロッテは起きてこない。

 エマは何度か戸の前を見に来て、そのたびに立ち止まり、やがて隣室へ戻っていった。

 コハルも帳場へ戻る。

 だが、何度か廊下を見に来た。

 その顔には、商売の計算はなかった。

 ただ、客が眠れていることを、静かに喜んでいる女将の顔だった。

 朝まで、リーゼロッテの部屋の灯りは点かなかった。

 八百万亭は、その夜、ひとりの眠りを守り続けた。


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