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5-1 やたら上品な客

 その客は、雪の残る午後にやってきた。

 八百万亭の玄関戸が、静かに開いた。

 風が入る。

 アルトが張った冷気遮断結界のおかげで、冷たさは土間の手前でやわらかくほどけた。戸の向こうには、薄い灰色の空と、雪をかぶった石段が見える。

 入ってきたのは、若い女だった。

 年は二十歳前後に見える。旅装だった。深い茶色の外套に、飾りの少ない帽子。手袋も靴も町娘が使うような質素なものを選んでいる。

 ただ、選んでいる、という時点でおかしかった。

 質素に見えるよう整えられている。

 目立たないようにしながら、布地は良い。

 靴底は雪道用だが、泥に慣れていない。

 外套の留め具は地味だが、細工が細かい。

 そして、何より立ち方が違った。

 背筋が伸びている。

 顎の角度がまっすぐ。

 手袋を外す動作ひとつが、無駄に綺麗だった。

 町娘のふりをした、町娘ではない誰か。

 その後ろに、もう一人いる。

 護衛だろう。

 こちらは背の高い女だった。旅人風の外套を着ているが、腰の剣の位置が実用的すぎる。玄関に入る前から、目だけで土間、帳場、廊下、階段、浴場への動線を確認していた。

 コハルは帳場の前で固まった。

 ほんの一瞬。

 だが、その一瞬で何かを察したらしい。

 次の瞬間には、いつもの女将の顔になっていた。

「いらっしゃいませ。湯守町、八百万亭へようこそ」

 深く頭を下げる。

 客の女は、少しだけ驚いた顔をした。

 それから、穏やかに微笑む。

「急な宿泊でも、よろしいでしょうか」

 声も上品だった。

 上品すぎた。

 町娘は、急な宿泊を頼む時に、そんなに綺麗に語尾を置かない。

 コハルの耳がわずかに震えた。

「もちろんでございます。お一人様、いえ、お二人様ですね」

「私はリゼと申します。こちらは付き添いのエマです」

 偽名だ。

 たぶん。

 アルトは帳場の脇で、湯上がり牛乳の瓶を拭いていた。話を聞きながら、そう思った。名前そのものではなく、名乗った時の間が少しだけ違った。

 慣れていない。

 偽名を使い慣れていない者の間だ。

 護衛の女――エマが、一瞬だけこちらを見た。

 鋭い目だった。

 アルトは瓶を置く。

 敵意はない。

 警戒だけがある。

 なら、今のところ問題はない。

「湯治でございますか?」

 コハルが訊ねる。

 リゼと名乗った女は、少しだけ目を伏せた。

「ええ。そう聞いて、伺いました。こちらのお湯は、身体を温め、よく眠れると」

 声は整っていた。

 だが、最後の「眠れる」に、ほんの少しだけ重さがあった。

 アルトはその時、初めて彼女の顔色をきちんと見た。

 肌が白い。

 ただ白いのではない。冷えの白さだった。唇の色が薄い。手袋を外した指先にも血の気が少ない。肩はまっすぐ保たれているが、身体の奥に力が入っている。

 寝不足だ。

 目の下には薄い影がある。化粧で隠しているが、隠しきれていない。魔力の流れも細く、ところどころ詰まっていた。ひどく乱れているわけではない。むしろ、乱れないように長い間押さえつけてきたような流れだった。

 宮廷の人間。

 アルトは、何となくそう思った。

 軍にも、そういう者はいた。

 疲れていても、疲れた顔をしてはいけない人間。

 痛くても、痛いと言ってはいけない人間。

 眠れなくても、起きていなければならない人間。

 コハルは帳簿を開きながら、声を少し明るくした。

「お部屋はございます。湯治でしたら、静かな二階のお部屋をご用意いたします。浴場も、今は混み合っておりません」

 混み合ってはいない。

 正確には、客が少ない。

 だが言い方は大事だ。

 コハルは着実に女将らしくなっていた。

 ただ、内心は大混乱しているらしい。

 耳が忙しい。

 立ったり、伏せたり、斜めになったりしている。

「料金は」

 エマが口を開いた。

 護衛らしい、短い声だった。

 コハルは料金表を差し出す。

「こちらでございます」

 エマは確認し、少し眉を動かした。

 高すぎるのか、安すぎるのか。

 たぶん後者だ。

 リゼが静かに言った。

「そのままで結構です」

 エマは何か言いたそうにしたが、口を閉じた。

 コハルは部屋札を取る。

「では、お部屋へご案内いたします」

 その時、リゼの身体がかすかに揺れた。

 ほんのわずかだった。

 普通なら見逃す程度の揺れ。

 だが、アルトには見えた。

 足元が冷えている。

 長旅で疲れている。

 それでも姿勢を崩さないよう、無理に筋肉を固めている。

 エマが一歩近づく。

「リゼ様」

 様。

 言ってしまった。

 コハルの耳が、ぴんと立った。

 エマは自分の失言に気づき、口を結んだ。

 リゼは静かに首を振る。

「大丈夫です」

 その言い方は、大丈夫ではない人間のものだった。

 アルトは瓶拭きをやめた。

「眠れていないな」

 リゼがこちらを見た。

 コハルも見る。

 エマの手が、剣の柄に近づいた。

 アルトは気にしなかった。

「冷えも強い。魔力の流れも細い。肩と背中に力が入りっぱなしだ」

「アルトさん」

 コハルが小さく止める。

 だが、リゼは怒らなかった。

 ただ、少しだけ顔を硬くした。

「失礼ですが、あなたは」

「ここの結界師らしい」

「らしい?」

「本人の認識では、まだよくわかっていない」

 コハルが慌てて前に出る。

「当館の住み込み看板結界師、アルトさんです。お湯やお部屋の結界を担当しております」

「看板結界師」

 リゼは小さく繰り返した。

 その言葉が面白かったのか、少しだけ口元が緩んだ。

 だが、すぐに表情は戻る。

「眠りについて、わかるのですか」

「だいたいは」

「高名な宮廷魔導医にも、難しいと言われました」

「そうか」

「薬湯も、香も、眠りの魔導具も、どれも効きませんでした」

「そうか」

 リゼの声に、わずかな苛立ちが混じる。

「簡単なことではありません」

 アルトはうなずいた。

「眠れないなら、眠れるようにする」

 帳場の空気が止まった。

 リゼの眉が、かすかに動く。

 エマの目が細くなる。

 コハルは、何か言おうとしてやめた。

 アルトの言葉は、無神経にも聞こえた。

 だが、本人は本当にそう思っているだけだった。

 眠れないなら、眠れるようにする。

 寒いなら、冷気を遮る。

 湯がぬるいなら、熱を逃がさない。

 装備が濡れているなら、乾かす。

 問題を見て、境界を整える。

 それ以上でも以下でもない。

 リゼは少しむっとした顔をした。

「それができるなら、誰も苦労しません」

「だろうな」

「なら」

「だから、苦労しないようにする」

 リゼは言葉に詰まった。

 アルトは、彼女をからかっているわけではない。

 励ましているわけでもない。

 ただ、そういうものとして言っている。

 コハルは、すぐに頭を下げた。

「リゼ様。まずはお部屋へご案内いたします。当館で一番静かなお部屋をご用意します」

「様は」

 エマが低く言う。

「あ」

 コハルは固まった。

 リゼは小さく息を吐いた。

「構いません。ここまで来れば、隠しきれるものでもないでしょう」

 エマは不満げだったが、何も言わなかった。

 コハルは、さらに深く頭を下げた。

「失礼いたしました」

「いいのです。私は、リゼで構いません」

 その声はやわらかかった。

 しかし、やわらかさにも疲れがにじんでいる。

 コハルは二階へ案内した。

 八百万亭で一番良い部屋。

 とはいえ、八百万亭基準である。

 畳はきれいに拭かれている。障子も張り替えたばかり。窓からは湯守町の通りが見える。遠くに源泉小屋の屋根も見える。布団も一番状態のいいものを選んだ。

 だが、豪華ではない。

 宮廷の客を迎える部屋ではない。

 コハルは部屋の前で、ほんの少しだけ肩を落とした。

「申し訳ありません。当館で、一番良いお部屋なのですが」

 リゼは部屋を見た。

 古い柱。

 小さな机。

 手入れされた障子。

 窓際の火鉢。

 畳の匂い。

 しばらく黙ってから、静かに言った。

「落ち着く部屋ですね」

 コハルが顔を上げる。

「え」

「宮廷の部屋は、広すぎます。壁にも天井にも、余計なものが多い。ここは、静かです」

 それは、世辞ではなさそうだった。

 コハルの表情が、少しだけ戻る。

「ありがとうございます」

 アルトは部屋の入口に立ち、空気の流れを見た。

 冷気が窓際から入る。

 廊下の音が少し届く。

 床下の冷えもある。

 火鉢の熱は、部屋の隅まで届いていない。

 普通の客なら十分だ。

 だが、この客には足りない。

 眠れない者の部屋は、ただ暖かいだけでは駄目だ。

 音を柔らかくする。

 冷気を遮る。

 火鉢の熱を均一にする。

 湿度を少し保つ。

 外の気配を遠ざける。

 ただし、閉じ込めすぎない。

 閉じ込めれば、宮廷に似る。

 アルトは指を動かした。

 部屋の四隅に、薄い結界を置く。

 まず冷気を止める。

 次に音を整える。

 廊下の足音は遠くし、湯の音だけはかすかに残す。

 魔力の流れを乱す外部刺激を遮る。

 寝台ではなく布団の周囲に、体温を逃がしすぎない層を作る。

 最後に、リゼ本人の周囲を見た。

 彼女の魔力は細い。

 冷えた糸のように、身体の中をぎこちなく流れている。

 無理に緊張で束ねている。

 ほどくには、時間がいる。

「今夜は、すぐ眠らせようとしない方がいい」

 アルトは言った。

 リゼが振り返る。

「眠れるようにすると言ったのでは?」

「言った」

「では」

「眠ろうとしすぎている。まず、それをやめる」

 リゼは黙った。

 その言葉は、少しだけ刺さったようだった。

 眠らなければ。

 休まなければ。

 明日もきちんとしていなければ。

 その焦りが、彼女の身体をさらに固くしている。

 アルトは淡々と続けた。

「湯に入って、身体を温める。食べられるなら少し食べる。そのあと、眠れなくても横になればいい。部屋は整える」

「それで」

「眠れるかもしれない」

「かもしれない、ですか」

「絶対と言う方が怪しい」

 リゼは、少しだけ笑った。

 疲れた笑いだったが、さっきまでの硬さは薄れていた。

「正直なのですね」

「たぶん」

 コハルは横で小さく息を吐いた。

 緊張していたらしい。

「では、まずお湯のご用意をいたします。お身体が冷えないよう、脱衣所も温めてありますので」

 リゼは頷いた。

「お願いします」

 エマはまだ警戒しているが、部屋の空気が変わったことには気づいたようだった。

 静かすぎず、寒すぎず、広すぎない。

 八百万亭で一番良い部屋は、宮廷の寝室より質素だった。

 けれど、今のリゼには、その質素さの方が必要に見えた。

 コハルは廊下へ出ると、小さく肩を落とした。

「アルトさん」

「何だ」

「私、あの方のお名前を様付けで呼びました」

「そうだな」

「あと、最高のお部屋なのに、古いです」

「古いが、悪くない」

「そうですけど」

 コハルは部屋の戸を見た。

 そこに宿泊する客のために、何かを足したい顔だった。

 アルトは言った。

「豪華にする必要はない」

「でも」

「眠りに来たんだろ」

 コハルは黙った。

「なら、眠れる部屋にすればいい」

 その言葉を聞いて、コハルは少しだけ目を伏せた。

 そして、うなずいた。

「はい」

 彼女は顔を上げる。

 女将の顔になっていた。

「八百万亭で、眠っていただきます」

 アルトは、部屋に張った結界をもう一度だけ確認した。

 冷気は入らない。

 音はやわらかい。

 湯の匂いが、ほんの少しだけ届く。

 今夜、この客が眠れるかはわからない。

 だが、眠れない夜を少しだけ遠ざけることはできる。

 それなら、やる意味はある。

 アルトはそう思った。


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