7-1 湯けむり常春祭り計画
湯守町の寄合所に、灯りが戻っていた。
昼間なのに、提灯が吊るされている。
まだ火は入っていない。倉庫から出した古い提灯を梁に吊るし、破れたものは分け、使えるものだけを残しているところだった。埃を払うたびに、乾いた紙の匂いがした。
丸福堂の老婆は、饅頭の数を紙に書いている。
土産物屋の主人は、古い絵葉書と湯桶を並べている。
運び屋たちは、結界ロードで荷を運ぶ経路を確認している。
神社の管理人は、湯めぐり札の紐を替えている。
グランは、床に広げた浴場図面へ赤い印を容赦なく増やしていた。
八百万亭だけではない。
町が動いていた。
その中心で、コハルは大きな紙を広げた。
紙の一番上には、こう書かれている。
『湯けむり常春祭り』
字は相変わらず勢いがある。
ただし、前より少し整っていた。
アルトは壁際でそれを見た。
「常春」
「はい」
「まだ春ではない」
「だから常春です」
「理屈になっているようで、なっていないな」
コハルは振り向かなかった。
今日の彼女は、笑っているだけではなかった。
目の前の紙に、町の未来を置こうとしている顔だった。
「この祭りは、ただ賑やかにするためだけではありません」
コハルは集まった町の人々へ向き直った。
「湯守町が変わったことを、外へ示すための祭りです。八百万亭だけではなく、町全体でお客様を迎えられることを見ていただくための祭りです」
土産物屋の主人が腕を組む。
「つまり、見本市みたいなものか」
「はい。湯守町そのものの見本市です」
コハルは頷いた。
「お客様には、湯めぐり札を持って町を歩いていただきます。準備できたお宿のお湯も体験していただきます。丸福堂さんの温泉饅頭、土産物屋さんの湯桶や絵葉書、神社の湯守印も出します」
神社の管理人が、古い木札を撫でた。
「湯守印は、彫り直しておく」
「ありがとうございます」
「ただし、数は多く作れん」
「最初は少なくていいです。足りないくらいが、次につながります」
商売の顔だった。
だが、欲だけではない。
無理をして町を壊さないための言葉でもあった。
「結界ロード体験も入れます」
運び屋の男が苦笑する。
「道を体験にするのか」
「はい。歩きやすい町そのものを、お客様に楽しんでいただきます」
「変な町だな」
「新しい町です」
コハルは言い切った。
その言葉に、寄合所の空気が少しだけ変わった。
昔に戻すのではない。
新しくする。
その言葉は、もうコハルだけのものではなくなり始めていた。
「疲労回復足湯も作りたいです」
コハルは次の項目を指す。
「長く歩いたお客様が、町の途中で休める場所です。冒険者さんにも、商人さんにも、ご年配のお客様にも使っていただけます」
アルトは地図を見た。
「足湯なら、小さい結界で済む。湯温固定と滑り止め。足元の冷気遮断くらいだな」
コハルの耳が立つ。
「では、できますね」
「できるとは言った。やるとはまだ言っていない」
「できますね」
「言い方を変えるな」
土産物屋の主人が、少し笑った。
以前なら、そういうやり取りに苛立っていたかもしれない。
今は、町の中に少しだけ余裕が生まれている。
「種族別湯温体験も考えています」
コハルが続ける。
「人間、獣人、ドワーフ、竜人族、魔族。それぞれ適温が違います。湯守町なら、どの種族の方でも楽しめると示したいんです」
グランが鼻を鳴らした。
「温度ばかり気にするな。湯船の高さも違う。竜人族には狭い湯もある。ドワーフには深すぎる湯もある。足場も変えろ」
コハルはすぐに紙へ書き足す。
「湯船の高さ、足場」
「書くだけで済むと思うなよ」
「実行します」
グランは何か言いかけて、やめた。
かわりに、浴場図面へもう一つ印をつけた。
「サウナ試験運用」
コハルが次の項目を読み上げると、寄合所が少し静かになった。
サウナという言葉は、湯守町ではまだ馴染みが薄い。グランだけが少し興味を示した。
「熱い部屋と冷たい水を交互に使うやつか」
「はい。アルトさんが空気の温度と水風呂の温度を安定させられるそうです」
「言ったか」
アルトが眉を寄せる。
「昨日、できるか聞いたら、たぶんできるって言いました」
「たぶんを企画に入れるな」
「試験運用なので」
「便利に使うな、その言葉を」
コハルは少しだけ笑った。
だが、すぐに真面目な顔へ戻る。
「全部を一度に完璧にするのは無理です。でも、祭りの日に見せたいんです。湯守町は、ただ古い温泉街ではない。新しい湯治と観光の町になれるんだと」
寄合所の中に、静かな熱が生まれていた。
祭り。
その言葉には、人を動かす力がある。
日常では閉じたままの店も、祭りなら開けられるかもしれない。
いつもは少ししか作らない饅頭も、祭りなら多く蒸せるかもしれない。
古い提灯も、祭りならもう一度吊るせる。
町の人々も、客に見せるためなら、少しだけ前を向ける。
だが、問題はあった。
湯守町は豪雪地帯である。
神社の管理人が、窓の外を見た。
「祭りの日に、吹雪いたらどうする」
その一言で、寄合所の熱が少し冷えた。
窓の外には、灰色の空があった。
雪は今は止んでいる。だが、山の天気は変わりやすい。湯守町の冬は厳しい。前日まで晴れていても、当日に吹雪くことは珍しくない。
提灯も、湯めぐり札も、饅頭も、結界ロードも。
吹雪けば、客は来ない。
来ても歩けない。
寒さに震え、湯にたどり着く前に疲れてしまう。
コハルは地図を見下ろした。
指先が、少しだけ止まる。
祭りをする。
町を見せる。
客を迎える。
その全部が、天候ひとつで崩れる。
誰もすぐには話さなかった。
アルトは嫌な予感がしていた。
こういう沈黙のあとに、だいたい面倒な話が来る。
コハルが顔を上げた。
「アルトさん」
「断る」
「まだ何も言ってません」
「だいたいわかる」
コハルは、まっすぐこちらを見た。
「天気も商品にできませんか?」
寄合所が静まり返った。
アルトは、しばらく黙った。
予想より面倒な方向から来た。
「天気は商品ではない」
「でも、天気が悪いと商品が届きません」
「それは商人の言葉を拡大しすぎだ」
「湯守町の弱点は、寒さと雪です。なら、それを逆に見せ場にできないでしょうか」
コハルは紙に新しい線を引いた。
「町の外は雪。でも、町の中は歩ける。湯気が見える。灯りがともる。寒い山の中に、あったかい温泉街がある」
その言葉で、何人かが顔を上げた。
町の外は雪。
町の中は湯気。
その対比は、確かに絵になる。
アルトは腕を組む。
「町全体の寒気を遮るのは、規模が大きい」
「できますか」
「できるかできないかで言えば、できる」
コハルの耳が立つ。
「できるんですね」
「できると簡単は違う」
「はい」
「町の上空に結界を張る。寒気を遮断する。日光と熱だけは通す。湿度を整える。雪は町の外側へ逃がす。風も完全に止めると空気が淀むから、流れだけ変える」
言いながら、アルトは頭の中で術式を組んでいた。
常春ドーム。
言葉にすれば簡単だ。
だが、町全体を覆うなら、単なる防寒結界では足りない。
熱を閉じ込めすぎれば、湯気で湿気がこもる。
湿気を抜きすぎれば、肌寒くなる。
雪を弾きすぎれば、結界の外側に積もって危険になる。
町の空気を、丸ごと調整する必要がある。
面倒だった。
かなり面倒だった。
「町ひとつ覆うのは、さすがに面倒だ」
アルトは言った。
コハルは、少しだけ身を乗り出した。
「面倒なだけで、できるんですね?」
「言い方」
グランが低く笑った。
丸福堂の老婆も、口元を隠した。
土産物屋の主人は、外の空を見ていた。
神社の管理人は、古い提灯を指で撫でている。
吹雪の町に、春のような灯りをともす。
それは馬鹿げている。
だが、馬鹿げているからこそ、見に来る者はいるかもしれない。
コハルは大きな紙の中央に、新しい文字を書いた。
『常春ドーム』
字は少し曲がった。
けれど、強かった。
「湯けむり常春祭り」
彼女は言った。
「雪の中で、春みたいに歩ける温泉街。これを、湯守町の新しい名物にします」
寄合所の中で、誰もすぐには反対しなかった。
あまりに大きな話だった。
だが、町の人々はもう知っている。
ぬるい湯は温まった。
歩けなかった坂は歩けるようになった。
眠れなかった客が眠った。
荷車が坂を上がった。
不可能に見えたことが、いくつか現実になっている。
なら、次も。
そう思ってしまうだけの火が、少しずつ町に戻っていた。
アルトは、紙に書かれた『常春ドーム』の文字を見た。
温泉入り放題。
その条件だけでここまで来たはずだった。
なのに、いつの間にか町ひとつ覆う話になっている。
契約内容が、明らかに膨らみすぎていた。
だが、コハルは笑っている。
町の人々も、地図を覗き込み始めている。
吹雪の中に灯る、常春の温泉街。
その景色を、誰もまだ見たことがない。
アルトは小さく息を吐いた。
「試験だぞ」
コハルの顔が明るくなる。
「はい!」
「町全部は、祭り当日までやらない。まずは寄合所の上だけだ」
「はい!」
「あと、常春というほど春にはしない。暑すぎる」
「では、ほどよい春です」
「名前が弱い」
「常春でいきます」
コハルは紙を胸に抱えた。
祭りの計画は、ただの祭りではなくなった。
湯守町が、雪の中でも客を迎えられる町になる。
そのための最初の大きな実験になった。
外では、また雪が降り始めていた。
けれど寄合所の中では、誰もすぐに窓を閉めなかった。
その雪さえ、祭りの景色の一部に変えようとしていた。




