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4-3 コハルの本音

 帳場の灯りは、夜更けまで消えなかった。

 客は寝静まっている。

 廊下の奥からは、かすかな寝息と、時折布団が擦れる音が聞こえた。浴場の方からは湯の音がする。湯船の縁に当たる水の音。源泉から落ちる細い音。古い梁に湯気が触れ、木が小さく軋む音。

 八百万亭は、久しぶりに宿として眠っていた。

 アルトは廊下を歩き、帳場の前で足を止めた。

 コハルが机に突っ伏していた。

 帳簿を開いたまま、筆を握ったまま眠っている。肩には、さっき掛けた毛布。頬の横には、丸福堂の饅頭の数を書いた紙がある。六個受け取り、四個提供。残り二個。横に、小さく「明日お礼」と書いてあった。

 字はいつもより乱れている。

 昼間、町を歩き回ったからだろう。

 頭を下げて、断られて、また頭を下げて。

 宿へ戻ってからも客の相手をし、帳簿をつけ、明日の仕込みを確認していた。

 動き続けていなければ、倒れるような一日だった。

 アルトはしばらく黙っていた。

 毛布が少しずり落ちかけていたので、直す。

 その時、コハルの耳が小さく動いた。

「……すみません」

 目を覚ましたらしい。

 まだ半分眠った声だった。

「寝てました」

「寝た方がいい」

「帳簿、まだ途中で」

「明日でいい」

「明日にすると、明日の私が困ります」

「今のお前も困っている」

 コハルは少しだけ笑った。

 弱い笑いだった。

 いつもの勢いはない。

「そうですね」

 彼女は身体を起こした。毛布を肩に掛け直す。帳簿を閉じようとして、手を止めた。

 帳場の奥にある古い柱を見ていた。

 そこには、小さな傷がいくつもついている。子供の背丈を測った跡だった。年ごとに線が引かれ、横に日付が刻まれている。

 アルトは何も言わなかった。

 コハルが、ぽつりと話し始める。

「昔は、ここに椅子がもう一つあったんです」

 彼女は帳場の隅を指さした。

「私用の、小さい椅子です。父さんが作ってくれました。帳場の邪魔にならないように、でも私が座ってお客様を見られるように」

 コハルの声は静かだった。

「私はそこで、温泉饅頭を食べていました。母さんには一日一個って言われていたのに、父さんがこっそり二個目をくれたりして」

 少し笑う。

「丸福堂のお饅頭です。今日、おばあちゃんが持ってきてくれたのと同じ味でした」

 帳場の外、廊下は暗い。

 だが、完全な闇ではない。客室の障子の向こうに、小さな灯りが残っている。誰かが水を飲みに起きたのか、遠くで床板が一度だけ鳴った。

「その頃は、湯守町にも灯りがいっぱいありました」

 コハルは目を細めた。

「夜になると、通りに提灯が並んで、湯気が上がって、旅人さんの声がして。土産物屋さんの前で子供が走って、神社の階段には湯治のおじいさんたちが座っていて。どこの宿からも、ご飯の匂いがしていました」

 アルトは、黙って聞いた。

「私は、帳場の隅からそれを見るのが好きでした。お客様が帰る時、父さんと母さんが並んで頭を下げるんです。『またのお帰りをお待ちしております』って」

 コハルの指が、閉じた帳簿の表紙をなぞった。

「お客様が『また来るよ』って言うと、父さんが少しだけ嬉しそうにして。母さんは、私の方を見て笑うんです」

 彼女は息を吸った。

 笑顔を作ろうとして、作れなかった。

「父さんと母さんが亡くなってから、少しずつ変わりました。源泉の温度が下がって、お客様が減って。薪代も払えなくなって。町の店も、ひとつずつ閉まって。夜の灯りも減って」

 言葉は、そこで一度止まる。

 アルトは、帳場の外へ視線を向けた。

 昼に見た町を思い出す。

 閉じた土産物屋。

 火を入れる日を減らした饅頭屋。

 半分だけ営業している古い旅館。

 雪の残る神社の階段。

 期待することに疲れた人々の顔。

 湯守町は、冷えていた。

 湯だけではない。

 人の方も。

「町の人たちは、もう期待しなくなりました」

 コハルは言った。

「その方が楽なんです。期待して、がっかりするより。もう駄目だって思っていた方が、傷つかないので」

 その言葉は、町の人々だけのことではないように聞こえた。

 コハル自身のことでもあるのだろう。

 それでも彼女は、期待する方に立っていた。

 ひとりで。

「私だけ、まだあの頃のままなんです。たぶん」

 声が、少しだけ掠れた。

「父さんと母さんがいた頃の八百万亭。通りに灯りがあった湯守町。お客様が笑って帰っていく朝。そういうものを、まだ見ているんです」

 コハルは小さく笑った。

 今度の笑いは、苦かった。

「だから、ちょっと迷惑ですよね。昔に戻したいなんて」

 アルトは、すぐには答えなかった。

 戻す。

 その言葉を考えた。

 魔王軍にいた頃、戦場では戻らないものばかり見てきた。崩れた砦。焼けた兵站庫。死んだ兵士。負傷して剣を握れなくなった者。戻らないものの前で、誰もが次の命令を待っていた。

 戻すことは難しい。

 たぶん、不可能なことも多い。

 八百万亭も、湯守町も、コハルの両親がいた頃には戻らない。

 同じ灯りにはならない。

 同じ客も来ない。

 同じ声も戻らない。

 けれど。

「戻すんじゃないだろ」

 アルトは言った。

 コハルが顔を上げる。

「新しくするんだろ」

 短い言葉だった。

 自分でも、うまく言えたとは思わなかった。

 だが、他に言いようがなかった。

 戻せないものはある。

 なら、戻すのではなく、別の形にするしかない。

 ぬるくなった湯は、結界で守ればいい。

 寒くなった廊下は、冷気を遮ればいい。

 空になった下駄箱には、新しい客の靴を並べればいい。

 昔と同じ提灯でなくても、別の灯りをともせばいい。

 コハルは何も言わなかった。

 目を伏せる。

 そのまま、しばらく黙っていた。

 やがて、毛布の端を握りしめた。

「新しく」

「ああ」

「父さんと母さんの宿じゃなくなるみたいで、少し怖いです」

「なら、残したいものは残せばいい」

 アルトは帳場を見た。

 古い柱。

 背丈の傷。

 手入れされた暖簾。

 曲がった新しい札。

 湯気の匂い。

「全部変えなくてもいい」

 コハルは、柱の傷を見た。

 そこに残された子供の頃の背丈。

 今の自分よりずっと低い線。

「残したいものを残して、新しくする」

 彼女は、言葉を確かめるように繰り返した。

「そうですね」

 少しだけ、声が戻った。

「戻すんじゃなくて、新しくするんですね」

 アルトはうなずいた。

「その方が、たぶん面倒が少ない」

 コハルは笑った。

 今度の笑いは、少しだけ自然だった。

「アルトさんらしいです」

「そうか」

「でも、ありがとうございます」

 アルトは返事をしなかった。

 礼を言われるほどのことを言ったつもりはない。

 ただ、戻らないものを戻そうとしている背中が、少し危うく見えただけだ。

 コハルは帳簿を閉じた。

「明日、もう一度町を回ります」

「今日も回っただろ」

「はい。でも、今度は違います」

 彼女は、眠そうな目をこすりながら言った。

「昔に戻したいって頼むんじゃなくて、新しい湯守町を一緒に作りたいって頼みます」

 アルトは、それなら少しは伝わるかもしれないと思った。

 口には出さなかった。

「寝ろ」

「はい」

 コハルは立ち上がろうとして、少しよろけた。

 アルトが手を出す前に、彼女は自分で帳場の柱に手をついた。

「大丈夫です」

「大丈夫に見えない」

「女将なので」

 その言葉も、今日は少し弱かった。

 コハルは客間へ向かう。

 廊下を歩く背中は疲れていた。けれど、昼間より少しだけ軽く見えた。

 アルトは帳場に残った。

 しばらく、古い柱の傷を見ていた。

 それから、指先を動かす。

 八百万亭全体に張っていた結界を、ほんの少しだけ厚くした。

 玄関の冷気。

 廊下の床冷え。

 客室の眠り。

 厨房の余熱。

 浴場の湯気。

 保存庫の温度。

 屋根の雪。

 すべてを、少しだけ丁寧に整える。

 理由は、うまく言えなかった。

 寒いからではない。

 眠るためだけでもない。

 宿代の礼でも、温泉入り放題の対価でもない。

 ただ、この宿が夜の間に冷えすぎない方がいいと思った。

 コハルが明日、また町に頭を下げに行く時、戻ってくる場所が冷えていない方がいい。

 それだけだった。

 帳場の灯りを落とすと、八百万亭は静かになった。

 湯気の匂いが、夜の廊下に残っている。

 古い宿は、昔には戻らない。

 けれど、明日から少しだけ、新しくなる。


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