4-2 町に頭を下げる若女将
昼前、コハルは帳場の前で身支度を整えた。
仕事用の前掛けを締め直す。
髪を結び直す。
耳についた小さな埃を払う。
それから、八百万亭の古い帳簿を一冊、風呂敷に包んだ。
アルトは玄関の柱にもたれて見ていた。
「何を持っていくんだ」
「帳簿です」
「見せるのか」
「はい。八百万亭だけでは回らないことを、ちゃんと話します」
「帳簿は読めるのか」
コハルは少し黙った。
「読めるように努力しています」
「危ない返事だな」
「なので、読めるところだけ見せます」
冗談のように聞こえたが、コハルの顔は真剣だった。
昨夜、満室だった。
今朝、下駄箱に靴が並んでいた。
それは奇跡に近かった。
だが、同時に八百万亭ひとつでは受け止めきれないこともわかった。饅頭も足りない。布団も足りない。手も足りない。客に出せるものも、町全体で増やさなければならない。
温泉宿は、宿だけでできていない。
道があり、土産物屋があり、饅頭屋があり、荷を運ぶ人間がいて、神社があり、古い旅館があり、町の灯りがある。
それらが冷えたままなら、八百万亭だけ温まっても長くは続かない。
コハルは玄関で一度振り返った。
新しい札が揺れている。
『源泉かけ流し・結界保温の宿』
曲がった字だった。
だが、もう嘘ではない。
「行ってきます」
「ああ」
「アルトさんも来てください」
「俺もか」
「はい。結界師なので」
「理由が雑だ」
「でも、何か聞かれたら説明できます」
「説明は苦手だ」
「私よりは正確です」
「それはそうかもしれない」
コハルは少しだけ笑った。
だが、その笑いには緊張が混じっていた。
二人は八百万亭を出た。
湯守町の昼は、静かだった。
朝方の客たちはすでに出発している。結界で少し歩きやすくなった八百万亭周辺を離れると、町の空気はまだ冷たい。石段には雪が残り、通りの脇には閉じた店が並ぶ。
まず向かったのは、温泉饅頭の店だった。
店の名は『丸福堂』。
古い木の看板。軒先には、色あせた暖簾。中からは、わずかに甘い餡の匂いがした。煙突から細く湯気が上がっている。
店番をしていたのは、白髪の老婆だった。
小柄だが、目は鋭い。
「おや、コハルちゃん」
「おばあちゃん。少し、お話があります」
「饅頭なら、今はそんなに卸せないよ。うちも火を入れる日を減らしてる」
先に言われた。
コハルの表情がわずかに揺れる。
それでも頭を下げる。
「八百万亭に、またお客様が来始めました。冒険者さん向けの宿泊プランを始めています。湯上がりに、丸福堂さんのお饅頭を出したいんです」
老婆は黙って聞いていた。
「お湯が戻ったのかい」
「はい」
「薪を買えたのかい」
「いえ。アルトさんが、結界で保温してくれています」
老婆の目がアルトに向く。
疑っている目だった。
「結界で湯が戻るなら、世話ないね」
言葉は冷たかった。
コハルは言い返さない。
「そう思われるのも、当然です。でも、本当に戻りました。よかったら、一度見に来てください」
「……考えておくよ」
老婆はそれだけ言った。
断られたわけではない。
受け入れられたわけでもない。
コハルは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
次は土産物屋だった。
店主は中年の男で、棚には木彫りの湯桶や古い絵葉書が並んでいる。だが、埃をかぶっているものも多かった。
「八百万亭に客が戻った?」
「はい。まだ少しですが」
「それはよかったな」
店主は笑った。
だが、目は笑っていない。
「でも、うちに何をしろって言うんだ。今さら土産を仕入れたところで、また客が来なくなったら在庫だけ残る」
「最初は少量で構いません。八百万亭の帳場に置かせていただいて、売れた分だけ――」
「八百万亭だけが儲かる仕組みか?」
コハルの言葉が止まる。
「違います」
「どう違う」
「町全体に、お客様を戻したいんです」
「町全体」
店主は棚を見た。
埃をかぶった絵葉書。
昔の湯守町の風景。
提灯と湯気でにぎわう通り。
「そういうことは、もっと人がいた頃に言うもんだ」
店主は小さく息を吐いた。
「若い娘の思いつきに付き合えるほど、うちも余裕はない」
コハルは頭を下げた。
「わかりました。でも、また来ます」
「何度来ても同じだ」
「それでも来ます」
店主は返事をしなかった。
次に、古い旅館を訪ねた。
かつては八百万亭と並んで湯治客を受け入れていた宿だ。今は半分だけ営業し、ほとんど休業状態に近い。
主人は疲れた顔をしていた。
「うちに客を回したい?」
「はい。八百万亭だけでは部屋が足りません。冒険者さんや商人さんが増えた時、湯守町の他のお宿にも泊まっていただけるようにしたいんです」
「うちの湯はぬるい。布団も古い。人手もない」
「アルトさんの結界で、最低限の保温や快眠は――」
「八百万亭と同じようにしてくれるってことか」
主人はアルトを見た。
その目には、期待よりも警戒が強かった。
「そんな都合のいい話があるなら、なぜ今まで誰もやらなかった」
アルトは答えようとした。
だが、その前にコハルが小さく手を出して止めた。
アルトは黙る。
コハルは一歩前へ出た。
「今まで、私にもできませんでした」
主人を見る。
「昨日まで、うちもぬるい湯の宿でした。お客様に寒いと言われて、帰られました。だから、疑われるのはわかります」
コハルは頭を下げた。
「でも、一度だけ見に来てください。八百万亭のお湯を。それから、決めてください」
主人は長く黙った。
「……考えておく」
三軒目も、それだけだった。
次は運び屋。
湯守町の荷運びをしている男たちの詰所だった。
彼らは、客が増えれば荷物運びも増える。だが、雪道の坂はきつい。人手も足りない。昔のように湯治客の荷を宿まで運ぶ余裕はないと言う。
「八百万亭だけ忙しいなら、そっちで人を雇えばいい」
「いずれは、そうしたいです。でも今はまだ――」
「まだ、の間にこっちが潰れる」
短い言葉だった。
コハルはまた頭を下げた。
湯守神社の管理人にも会った。
神社は町の奥、源泉小屋の近くにある。古い社で、湯の守り神を祀っている。管理人は細い老人だった。
「祭りを戻したい?」
「いつかは」
「いつか、か。みんな昔はそう言った」
老人は社の階段に積もった雪を見た。
「だが、灯りは減った。湯はぬるくなった。若い者は町を出た。今さら町を戻せるものか」
コハルは唇を結んだ。
アルトは横で見ていた。
言いたいことはあった。
湯は戻せる。
冷気も遮れる。
道も少しは楽にできる。
だが、それを言えば済む話ではないのだと、ここまで来てわかっていた。
町の人々は、技術を疑っているだけではない。
期待することに疲れている。
何度もがっかりした場所では、希望はすぐには歓迎されない。
希望は、また失望するための入口にもなる。
コハルは、最後まで笑顔で頭を下げ続けた。
けれど、八百万亭へ戻る道では、足取りが少し重かった。
石段を下りる途中、アルトが口を開く。
「俺が説明した方が早い場面もあった」
「はい」
「止めたな」
「止めました」
「なぜ」
コハルは立ち止まった。
雪の積もった通りに、二人の足跡が残っている。
「これは、私が言わなきゃいけないことなので」
声は静かだった。
「アルトさんの結界はすごいです。たぶん、見せればみんな驚きます。でも、それだけだと、八百万亭がすごい人を拾っただけになります」
コハルは町を見た。
閉じた店。
雪に埋もれた看板。
煙の細い饅頭屋。
半分だけ開いた旅館。
「この町に、もう一度一緒にやってほしいって頼むのは、私です。私が言わないと、駄目なんです」
アルトは何も言わなかった。
コハルの耳は伏せている。
疲れている。
傷ついてもいる。
それでも、逃げてはいなかった。
その時、背後から声がした。
「コハルちゃん」
振り返ると、丸福堂の老婆が立っていた。
手には小さな包みを持っている。
「おばあちゃん」
「これ、持っていきな」
包みの中には、温泉饅頭が六つ入っていた。
まだ少し温かい。
「試しだよ。今日の客に出してみな」
コハルは目を見開いた。
「いいんですか」
「ただし、条件がある」
老婆の声は厳しかった。
「半端なことなら、町をまたがっかりさせるだけだよ」
コハルは包みを両手で受け取った。
温かさが、掌に移る。
それは饅頭の熱だけではなかった。
「はい」
コハルはまっすぐ老婆を見た。
「半端にはしません」
老婆は少しだけ目を細めた。
「なら、一度だけ見に行くよ。八百万亭の湯を」
「ありがとうございます」
コハルは深く頭を下げた。
今度の頭の下げ方は、さっきまでとは少し違った。
断られ続けたあとで、ようやくひとつだけ開いた扉に向ける礼だった。
その夜。
営業を終えたあと、コハルは帳場で寝落ちしていた。
帳簿は開いたまま。
丸福堂から預かった饅頭の数と、客に出した数が書かれている。
字はいつもより少し乱れていた。
手には筆を握ったままだった。
アルトは、しばらくその姿を見ていた。
昼間、何度も頭を下げていた背中。
笑顔で断られ続けた顔。
それでも折れなかった声。
彼は毛布を取って、コハルの肩にかけた。
コハルは目を覚まさない。
帳場の外では、夜の湯守町が冷えている。
だが、八百万亭の中には、少しだけ温かい匂いが残っていた。
温泉饅頭の甘い匂いだった。




