4-1 満室の朝、問題も満室
その朝、八百万亭の下駄箱には、靴が並んでいた。
一足ではない。
二足でもない。
泥のついた革靴。雪を踏んできた長靴。金具のついた冒険者用のブーツ。小柄な弓使いのための軽い靴。ギルド職員の、手入れされた実用靴。
隙間なく、ではない。
それでも、空ではなかった。
コハルは、玄関の前で立ち止まった。
手には朝食用の湯呑みを抱えている。厨房から食堂へ運ぶ途中だった。早く行かなければならない。かまどでは粥が温まっている。味噌汁の鍋も見ておかなくてはいけない。温泉饅頭の蒸し器も湯気を上げている。
それなのに、足が止まった。
下駄箱を見たまま、動けなくなった。
昨日まで、そこは空だった。
空の下駄箱は、見慣れていた。磨いても、拭いても、木目が見えるだけだった。客の靴ではなく、埃と冷気だけがそこにあった。
今は違う。
靴がある。
誰かがここまで来た証拠がある。
誰かが八百万亭の暖簾をくぐった証拠がある。
誰かが、この宿で夜を越した証拠がある。
廊下の奥から、低い笑い声が聞こえた。
「昨日の湯、効いたな」
「腰が軽い。今日なら鉱山道まで一気に行ける」
「弁当、まだか?」
別の部屋から、あくびの声。
食堂では、椅子を引く音。
天井の梁に、朝の気配が満ちていた。
コハルは、湯呑みを抱えたまま、少しだけ目を伏せた。
胸の奥が、熱かった。
湯の熱とは違う。かまどの熱とも違う。もっと内側から、じわりと上がってくるものだった。
父が立っていた帳場。
母が笑っていた厨房。
自分が子供の頃、饅頭をこっそりつまみ食いしながら見ていた、朝の宿。
完全に同じではない。
父も母もいない。
客の数も、昔ほど多くない。
建物は傷み、看板は古び、廊下もまだ鳴る。
それでも、朝の宿の音がした。
コハルは小さく息を吸った。
「……お帰りなさいませ」
誰に向けた言葉でもなかった。
けれど、言ってみたかった。
ずっと、言いたかった。
その声は、湯気に紛れるように廊下へ溶けた。
「コハル」
後ろから声がした。
アルトだった。
寝癖の残った髪。眠そうな目。いつものように気の抜けた顔で、客室の方から歩いてくる。
コハルは慌てて顔を上げた。
「はい。何でしょう」
「湯呑み、傾いている」
「え」
見れば、抱えていた湯呑みのひとつが盆の端で揺れていた。中の茶がこぼれかけている。
コハルが動くより早く、湯呑みの周囲に薄い結界が張られた。
茶はこぼれずに収まる。
「ありがとうございます」
「ああ」
アルトは下駄箱を見た。
それから、コハルを見た。
何かを言いかけて、やめた。
その間が、コハルには少しありがたかった。
何か言われたら、たぶん泣いてしまう。
今は泣いている暇がない。
女将なので。
コハルは盆を持ち直した。
「朝食、出してきます」
「手伝うか」
アルトがそう言った。
コハルは驚いた。
アルトも、自分で言ったあと少し驚いた顔をした。
「……いや、運ぶだけだ」
「はい。助かります」
二人で食堂へ向かった。
食堂には、五人の客がいた。
昨日泊まったジンたち三人に加え、夜遅くに来た若い魔術師と、ギルドの荷運び職人がいる。八百万亭としては、久しぶりの満室だった。客室は少ない。だから五人でも満室になる。
それでも、満室は満室だった。
コハルは湯呑みを置き、朝食を運ぶ。
温かい粥。
焼いた芋。
漬物。
味噌汁に似た根菜の汁。
出発用の弁当。
豪華ではない。
だが、湯上がりの身体には合う。朝の山道へ出る冒険者には、ちょうどいい。
「女将さん、弁当もうひとつ追加できるか?」
「はい、できます!」
「牛乳も頼む」
「はい!」
「乾燥室の外套、もう少しだけ温められる?」
「確認します!」
声が重なる。
注文が増える。
コハルは返事をする。笑顔で返事をする。だが、足は明らかに足りていない。
厨房へ戻る。
粥をよそう。
味噌汁をこぼしかける。
弁当の包み紙を取り違える。
牛乳の本数を数え間違える。
廊下を走り、滑り止め結界に助けられ、また走る。
アルトは食堂と厨房の間に立ち、盆が傾かないように小さな結界を張った。味噌汁の熱も逃がさない。弁当の保温もする。廊下の音も少し抑える。
だが、それで解決しないこともある。
「コハル、布団は」
アルトが聞いた。
「今、干せている分を入れ替えます!」
「客室二番、替えの布団がない」
「えっ」
「昨日、予備を三番に回した」
「そうでした!」
コハルは帳場に走る。
帳簿を開く。
開いたところで、表情が止まる。
宿泊客の名前、注文、弁当の数、牛乳の数、支払い済みかどうか。全部が一枚の紙に詰め込まれている。字は勢いがありすぎて、自分でも読みにくい。
ジンの横に、牛乳二。
斧使いの横に、弁当三。
魔術師の横に、なぜか「足」と書いてある。
「足?」
コハルが呟く。
アルトが横から覗く。
「足腰軽量化結界のことだろ」
「そうでした。略しすぎました」
「略し方が不穏だ」
コハルは笑おうとした。
だが、うまく笑えなかった。
次の声が飛ぶ。
「女将さん、浴場って今入れる?」
「少々お待ちください!」
別の客。
「装備乾燥、俺の手袋も頼めるか?」
「はい!」
また別の客。
「朝食、まだ?」
「すぐに!」
食堂。厨房。浴場。乾燥室。帳場。客室。
すべてが同時に動いている。
すべてが、コハルひとりを呼んでいる。
アルトの結界は、熱を保てる。
冷気を遮れる。
装備を乾かせる。
客室を快適にできる。
浴場を滑りにくくできる。
眠りを深くできる。
だが、客の名前は覚えない。
注文は取らない。
布団は敷かない。
粥はよそわない。
会計の間違いも直せない。
いや、会計は少し直せる。
だが、全部は無理だ。
コハルは、帳場の前で一瞬だけ立ち尽くした。
ほんの一瞬だった。
けれど、アルトには見えた。
嬉しさの上に、現実が一気に乗ってくる顔だった。
満室。
その言葉は、昨日まで夢だった。
だが、夢が現実になると、現実の重さも一緒に来る。
「コハル」
アルトは声をかけた。
「はい!」
返事はすぐに返ってきた。
明るい。
でも、少しだけ速すぎる。
「客が来ても、潰れそうだな」
言ってから、アルトは少し後悔した。
強く言いすぎたかもしれない。
だが、コハルは怒らなかった。
少しだけ息を吐き、帳簿を見下ろした。
「……はい」
いつものように「嬉しい悲鳴です」と返すと思った。
だが、返ってこなかった。
コハルは帳場の端を指で押さえた。
「嬉しいです。すごく。今朝、下駄箱を見た時、少し、泣きそうでした」
声は静かだった。
「でも、このままだと回りません」
アルトは黙った。
「お客様が来ても、お迎えできなければ意味がありません。お湯が温かくても、ご飯が遅れたら困ります。部屋が快適でも、布団が足りなければ泊まれません。装備が乾いても、会計を間違えたら信用をなくします」
コハルは、帳簿を閉じた。
「私ひとりでは、無理です」
それを言うのに、少し力が要ったのだろう。
耳が伏せていた。
けれど、声は折れていなかった。
「アルトさんの結界で、宿は変わりました。でも、宿を動かすのは、結界だけじゃ足りません」
その言葉は、アルトにも残った。
結界だけでは足りない。
戦場では、結界さえ張ればよかった。少なくとも、アルトはそう思っていた。矢を止め、火を遮り、壁を支えれば、その場の命は守れた。
だが、宿は違う。
人が来る。
食べる。
眠る。
頼む。
間違える。
笑う。
また来るかどうかを決める。
それは、結界だけでは作れない。
食堂から声がした。
「女将さん、大丈夫か?」
ジンだった。
コハルはぱっと顔を上げた。
まだ少し無理のある笑顔だった。
「大丈夫です。すぐに朝食をお持ちします」
アルトは言った。
「俺が運ぶ」
「え」
「運ぶだけならできる」
「ありがとうございます」
コハルは小さく頭を下げた。
そのあと、食堂へ向かいながら言った。
「町の人に、頼まないと」
「町の人?」
「はい。饅頭屋さん。土産物屋さん。昔、八百万亭に手伝いに来てくれていた人。休んでいる旅館の人たち。みんな、今は余裕がありません。でも、このまま八百万亭だけで回そうとしても、きっと駄目です」
食堂の入口で、コハルは立ち止まった。
声を少し落とす。
「ただ、頼んでも、すぐには信じてもらえないと思います」
「どうして」
「八百万亭だけが急に儲かっているように見えるからです」
アルトは外の通りを思い出した。
閉じた土産物屋。
煙の少ない饅頭屋。
反応の薄かった旅館主たち。
半信半疑の町の人々。
湯守町全体が、まだ冷えている。
八百万亭だけが温かくなれば、それは希望にも見える。
同時に、妬みや疑いにも見える。
コハルは盆を持ち直した。
「でも、頼みます」
その声に、今朝の下駄箱を見ていた時の震えはなかった。
忙しさの中で、何かを決めた声だった。
「八百万亭だけ満室になっても、湯守町は戻りませんから」
食堂の戸が開く。
客たちの声と湯気の匂いが、廊下へこぼれる。
コハルは笑顔を作る。
今度は、無理に明るくするためではない。
女将として、客の前に立つための顔だった。
「お待たせいたしました。朝食です」
アルトはその後ろで盆を支えながら、ふと思った。
満室の朝。
それは終着点ではなかった。
むしろ、始まりだった。
宿が生き返れば、生き返ったぶんだけ、次の問題が生まれる。
八百万亭は、ようやく潰れかけの宿から、忙しすぎる宿になった。
そしてコハルは、その忙しさをひとりで抱え込むことを、ようやくやめようとしていた。




