3-4 冒険者再起動プラン
翌朝、帳場には新しい札が置かれていた。
『冒険者再起動プラン』
大きな字だった。
かなり大きい。
八百万亭の帳場は広くない。そこに置くには、主張が強すぎる札だった。
アルトは札を見た。
「名前が悪い」
コハルは筆を持ったまま振り向いた。
「どこがですか」
「人を魔導具みたいに言うな」
「でも覚えやすいです!」
「覚えやすさだけで押すな」
「冒険者さんは疲れています。疲れている人には、わかりやすさが大事です」
「それっぽいことを言うな」
「それっぽいではなく、それです」
コハルは胸を張った。
札の下には、細かい説明書きが並んでいる。
疲労回復風呂。
装備乾燥結界。
快眠客室。
朝食保温結界。
出発前の足腰軽量化結界。
弁当つき。
最後に、小さくこう書かれていた。
『湯上がり牛乳、別料金』
アルトはそこを指さした。
「別料金なのか」
「商売ですので」
「急に冷静だな」
「牛乳は原価があります」
「他にもあるだろ」
「あります。考えたくないだけです」
「考えろ」
コハルは目を逸らした。
料金表も作ってあった。
ただし、数字が怪しかった。
「これは」
「価格表です」
「宿泊料より弁当代の方が高い」
「豪華に見えるかなと」
「客が逃げる」
「では逆にします」
「逆にすると、宿泊料が高すぎる」
「難しいですね」
「普通にしろ」
アルトは筆を取り、料金を書き直した。
入浴込み宿泊料。
夕食追加。
弁当追加。
牛乳別料金。
コハルは横で真剣に見ている。
「アルトさん、計算できますね」
「普通だ」
「うちでは貴重な才能です」
「お前がやれ」
「精進します」
「本当にしろ」
そこへ、ミナがやってきた。
昨日より肩の動きが軽い。顔色もいい。ギルドの制服もきちんとしているが、目の下の疲れはまだ残っていた。
「おはようございます。昨日のお湯の件で、ギルドの掲示板に案内を出してもよろしいですか?」
コハルの耳が、ほぼ垂直に立った。
「よろしいです!」
「若手冒険者に需要があると思います。特に雪狼退治や鉱山護衛の帰りは、皆さんかなり疲れますから」
「まさに狙い通りです!」
狙いは昨日の夜にできたばかりである。
ミナは札を見た。
「冒険者再起動プラン……」
「どうでしょう」
「わかりやすいです」
「ほら!」
コハルが勝ち誇った顔でアルトを見た。
アルトは黙った。
負けた気がした。
「ただ、価格はもう少し読みやすくした方がいいですね」
「アルトさんが直してくれました!」
「最初は宿泊料より弁当代が高かった」
「忘れてください!」
ミナはくすりと笑った。
そして、チラシを数枚受け取る。
チラシの字はコハルが書いたものだった。勢いはあるが、ところどころ曲がっている。値段の上には、アルトが上から訂正した跡があった。
『疲れた身体を、明日の身体へ。八百万亭・冒険者再起動プラン』
ミナはその一文を見て、少し感心した顔をした。
「これ、いいですね」
「私が考えました!」
「最後の一文だけはな」
アルトが言うと、コハルは小さく咳払いした。
「共同制作です」
「便利な言葉だな」
その日、ミナはギルドの掲示板にチラシを置いてくれた。
最初に反応したのは、若手冒険者たちだった。
「疲労回復風呂って昨日ジンが騒いでたやつか?」
「でも八百万亭だろ。あそこ、ぬるいって聞いたぞ」
「いや、昨日入ったジンが走って帰ってきた」
「走って帰ってきたなら、泊まる意味あるのか?」
「今度は泊まらせるプランらしい」
「何だそれ」
半信半疑。
それでも、疲れている者は試したくなる。
数日後、八百万亭に三人の冒険者が来た。
ジンもいた。
気まずそうな顔をしている。
「この前は帰って悪かった」
ジンが言った。
コハルは満面の笑みで迎えた。
「お帰りなさいませ!」
その言葉に、ジンは少し戸惑った。
「まだ泊まったことないけどな」
「今日からです!」
他の二人は、ジンの仲間だった。
大柄な斧使いの男。
小柄な弓使いの少女。
どちらも雪と泥で汚れていた。鉱山道の護衛帰りらしい。鎧は湿っていて、靴の中まで水が入っている。肩や腰にも疲労が溜まっている。
コハルは手際よく案内する。
「まずはお風呂です。その間に装備をお預かりします。革製品は乾かしすぎると傷むので、アルトさんがいい感じにします」
「いい感じとは」
弓使いの少女が不安そうに言う。
アルトは言った。
「革を傷めず、湿気だけ抜く」
「それならわかる」
「いい感じで十分だったのに」
コハルが小声で言う。
「十分ではない」
装備乾燥室として使うことになった空き部屋には、即席の棚が置かれていた。
そこに外套、靴、手袋、革鎧を並べる。
アルトは結界を張る。
温風で乾かすわけではない。湿気の流れを作り、革や布に必要な水分だけ残し、余分な水気を外へ逃がす。金具の錆びやすい箇所には、さらに薄い防湿の膜を張る。
斧使いが目を丸くした。
「おい、靴の中だけ乾いていくぞ」
「気持ち悪いくらい便利だな」
ジンが言った。
「気持ち悪いは余計だ」
アルトは淡々と返した。
その間に、三人は浴場へ向かう。
入浴描写は、浴場の外からの音と声で十分だった。
湯音。
息を吐く声。
肩が軽いと驚く声。
足の冷えが抜けると笑う声。
コハルは暖簾の外で、満足そうに耳を動かしていた。
「効いてます」
「効くようにしたからな」
「でも、効きすぎて帰らないようにしてください」
「難しい注文だ」
「ほどほどに元気で、しっかり眠くなる感じでお願いします」
「温泉への要求が複雑になってきた」
アルトは湯の結界を少し調整した。
疲労を抜く。
だが興奮させすぎない。
魔力の流れを整え、身体が休息へ向かうよう誘導する。
医療ではなく、湯治。
戦場で使っていた術とは、同じようで違う。
その後、三人は夕食を食べた。
芋と肉の煮込み。
温かい麦粥。
漬物。
蒸したての温泉饅頭。
豪華ではない。
だが、腹にたまる。身体が温まる。雪道を歩いた冒険者には、それで十分だった。
斧使いは椀を抱えた。
「こういうのでいいんだよ」
コハルは小声でアルトに言った。
「今の、いただきました」
「何をだ」
「宣伝文句です」
弓使いの少女は、乾いた外套を手に取って驚いていた。
「外套が軽い……。でもぱりぱりになってない」
ジンは靴を履いて感動している。
「靴の中が乾いてるって、こんなに幸せだったのか」
「冒険者さんの幸せ、見つけました」
コハルは真剣な顔で言った。
夜。
三人は客室へ入った。
アルトはそれぞれの部屋に快眠結界を張る。
音を少し和らげる。
冷気を遮る。
布団の中の温度を保つ。
身体が深く休めるよう、魔力の流れを整える。
軍の兵舎では、眠りは浅かった。
いつ敵襲があるかわからない。
いつ上官の命令が飛ぶかわからない。
休むことさえ、次の戦闘の準備だった。
ここは違う。
眠るために眠る場所だった。
翌朝。
ジンたちは、別人のような顔で食堂へ来た。
「寝た」
ジンが言った。
「ものすごく寝た」
斧使いも頷く。
「朝、腰が痛くねえ」
弓使いは手を握ったり開いたりしている。
「指が冷えてない。弓、普通に引けそう」
コハルは朝食を運びながら、にこにこしている。
「朝食は保温結界つきです。出発まで温かいです」
「そこまで?」
「はい。さらに本日は弁当つきです」
「本当に再起動だな」
ジンが笑った。
出発前、アルトは三人の足元に軽い結界を張った。
足腰軽量化結界。
実際に体重を減らすのではない。膝と足首にかかる負担を分散し、歩き出しの重さを少しだけ逃がす。長時間は持たないが、朝の山道へ出るには十分だった。
ジンが一歩踏み出す。
「軽っ」
斧使いも歩く。
「おい、荷物持ってるのに楽だぞ」
弓使いは笑った。
「これ、毎回泊まりたい」
コハルの耳が立った。
完全勝利の耳だった。
三人は礼を言い、弁当を持って出発していった。
今度は走って帰らなかった。
きちんと泊まり、食べ、眠り、翌朝に出ていった。
コハルは帳場で売上を数えた。
入浴料。
宿泊料。
夕食代。
弁当代。
湯上がり牛乳代。
温泉饅頭代。
硬貨が昨日よりずっと多い。
コハルは震えた。
「アルトさん」
「何だ」
「宿屋です」
「そうだな」
「うち、宿屋をしています」
「昨日からだろ」
「昨日までは、宿屋の形をした冷蔵庫でした」
「自覚が鋭くなってきたな」
その日から、冒険者の客が少しずつ増えた。
最初は二人。
次は三人。
さらに、ミナの紹介でギルド職員も来た。
八百万亭には、久しぶりに複数の客の足音が響いた。
コハルは忙しく走り回った。
注文を間違える。
牛乳を一本多く出す。
弁当の包み紙に客の名前を書き間違える。
廊下で転びかける。
滑り止め結界に助けられる。
また走る。
ミスは多い。
だが、楽しそうだった。
アルトは面倒だと言いながら、客室ごとに結界を調整する。
斧使いには腰。
弓使いには指。
魔術師には魔力疲労。
荷運びには膝。
ミナには肩。
夜。
客が寝静まった後、アルトは廊下で立ち止まった。
宿の中に、人の寝息があった。
静かな寝息。
疲れた身体が、ようやく休んでいる音。
魔王軍の兵舎にも寝息はあった。
だが、あれは違った。
次の出撃までの仮眠。
鎧を脱ぎきれない眠り。
いつ呼び出されてもいいように浅く閉じた目。
ここでは、違う。
客たちは、明日また出ていくために眠っている。
死なないためではなく、生きて戻るために休んでいる。
アルトは廊下の端を見た。
暖簾の向こうから、かすかに湯気の匂いがする。
帳場では、コハルが売上を数えながらうとうとしている。耳が時々ぴくりと動く。
守っているものが、温かい。
ふと、そう思った。
アルトは指を動かし、廊下全体の結界を少しだけ整えた。
冷気を遮る。
音をやわらげる。
眠りを邪魔しないようにする。
誰にも見えない。
誰にも褒められない。
戦果にもならない。
だが、悪くなかった。
八百万亭は、その夜、久しぶりに宿らしい夜を過ごした。




