3-3 お客様が元気になりすぎて帰りました
3-3 お客様が元気になりすぎて帰りました
夜になっても、八百万亭は静かだった。
湯は温かい。
廊下も寒くない。
厨房のかまどには余熱が残り、保存庫の餡も凍っていない。脱衣所の空気は湯上がりにちょうどよく、浴場には白い湯気がやわらかく立っている。
宿としては、昨日よりずっと良くなっていた。
ただし、客はいない。
帳場の前で、コハルは硬貨を並べていた。
一枚。
二枚。
三枚。
数えて、また最初から数える。
横には帳簿が開かれている。古い紙の上に、今日の売上が丁寧に書かれていた。
入浴料。二名分。
以上。
宿泊料。なし。
夕食代。なし。
朝食代。なし。
温泉饅頭。なし。
湯上がり牛乳。なし。
コハルは硬貨をじっと見つめた。
それから、机に突っ伏した。
「アルトさん。大問題です」
アルトは帳場の横で、湯上がり牛乳を飲んでいた。
売れ残りである。
温度はちょうどよかった。冷たすぎず、ぬるすぎない。自分で保存庫に結界を張ったのだから当然だが、これはかなり良い。
「何が」
「お客様が元気になりすぎて帰りました」
「いいことでは」
アルトは首をかしげた。
ジンは疲れていた。肩も脚も重そうだった。湯に入って、身体が軽くなった。喜んで帰った。ミナも肩こりが軽くなり、八百万亭の湯を褒めて帰った。
結果として、客は満足した。
問題があるようには見えない。
コハルは机に額をつけたまま、低い声で言った。
「宿屋としては悪夢です」
「そうなのか」
「そうなんです」
コハルは顔を上げた。
額に帳簿の跡がついている。
「温泉の効果はありました。すごくありました。ありすぎました。お客様は満足しました。元気になりました。結果、宿泊せずに帰りました」
「元気だからな」
「元気だからです!」
コハルは硬貨を指さした。
「入浴料は入りました。でも宿泊料はゼロです。食事も出ていません。温泉饅頭も売れていません。湯上がり牛乳も売れていません」
「俺が一本飲んだ」
「それは在庫処理です!」
「うまかった」
「ありがとうございます!」
礼を言ってから、コハルははっとした。
「違います。そういう話ではありません」
「そうか」
「しかも、今日はお試し価格です。宣伝費です。宣伝費なので、利益はほとんどありません」
「宣伝にはなったんじゃないか」
「なりました。ミナさんがギルドで噂にしてくれると思います」
「なら成功では」
「半分成功です」
コハルは指を一本立てた。
「ただし、残り半分が大失敗です」
「難しいな」
「商売は難しいんです!」
コハルは帳簿を叩いた。
帳簿の端に、筆で大きく書かれている。
『効きすぎ注意』
アルトはそれを見た。
「温泉に書く注意書きではないな」
「でも本当に注意です。疲労回復風呂だけだと、お客様は回復して帰ってしまいます」
「回復するための風呂だろ」
「そうです。でも宿としては、帰られると困るんです」
「矛盾している」
「宿泊業は、だいたい矛盾しています」
「そうなのか」
「たぶん」
たぶんだった。
コハルは立ち上がり、帳場の奥から古い町地図と紙を持ってきた。
その上に、今日の出来事を書き出していく。
ジン。
雪狼退治後。
肩と脚に疲労。
入浴。
回復。
帰った。
ミナ。
肩こり。
入浴。
回復。
仕事へ戻った。
コハルは筆を止めた。
「つまり、お客様は困っています」
「だろうな」
「でも、困りごとが解決した瞬間に帰ります」
「そうだな」
「では、帰らずに泊まる理由を作らなければなりません」
アルトは牛乳瓶を置いた。
話が、面倒な方向へ進んでいる気がした。
「理由」
「はい。ジンさんが本当に欲しかったものは、たぶん疲労回復だけじゃないんです」
「疲れていたぞ」
「疲れていました。でも冒険者さんは、疲れが取れたら次へ行ってしまいます。だから、ただ疲れを取るだけでは足りません」
コハルは考えながら、紙に線を引いた。
「翌朝、最高の状態で出発できること」
書く。
「装備が乾いていること」
書く。
「お腹にたまる温かい食事があること」
書く。
「深く眠れること」
書く。
「朝、すぐ依頼に向かえること」
書く。
筆の動きが速くなる。
「そうです。冒険者さんは、今だけ楽になりたいんじゃないんです。明日、ちゃんと動ける状態になりたいんです」
コハルの耳が立ってきた。
考えが形になる時の耳だった。
「今日の疲れを抜いて、装備を乾かして、身体を温めて、お腹を満たして、しっかり眠って、朝に軽い身体で出発する」
アルトは腕を組んだ。
「それはもう、風呂ではなく宿だな」
「宿です!」
コハルはぱっと顔を上げた。
「そうです。うちは宿でした!」
「忘れていたのか」
「一瞬、温泉だけで世界を取ろうとしていました」
「危ないな」
「危なかったです」
コハルは帳場の紙をさらに広げる。
「疲労回復風呂だけだと帰ります。でも、そのあとに温かい食事と、快眠できる部屋と、装備乾燥があったら?」
「泊まるかもしれない」
「泊まります!」
「断定が早い」
「泊まっていただきます!」
言い直しても圧が強い。
アルトは少し考えた。
冒険者向けなら、確かに必要なものははっきりしている。
濡れた外套。
雪で湿った靴。
泥のついた革鎧。
冷えた指。
こわばった筋肉。
乱れた魔力。
浅い傷。
眠りの浅さ。
それらは全部、結界で補助できる。
乾燥。
保温。
疲労回復。
快眠。
魔力循環の調整。
翌朝までの体調維持。
アルトは口に出してから、自分でしまったと思った。
「つまり、風呂だけじゃなくて宿全体を結界にするのか」
コハルの耳が、ぴんと立った。
「それです!」
遅かった。
完全に捕まった。
「アルトさん、今のもう一回言ってください」
「言わない」
「宿全体を結界にする」
「言うな」
「すごいです。八百万亭全体が回復施設になります!」
「やめろ。響きが軍の野戦病院に近い」
「では、癒やしの宿です!」
「急にふわっとした」
「冒険者再起動宿!」
「人を魔導具みたいに扱うな」
コハルは紙に書き始めた。
『冒険者再起動プラン』
字は大きい。
かなり大きい。
「書くな」
「書きました」
「消せ」
「仮です」
「その仮は残るやつだ」
「残します」
コハルは真剣な顔で続けた。
「でも、これは本当にいけます。ジンさんみたいな若手冒険者さんは、宿代を削ってでも依頼を受けます。でも、身体を壊したら終わりです。装備が濡れたままでも危ないです。眠れていなくても危ないです」
「そうだな」
「だから、ただ泊まるんじゃなくて、明日のために整える宿にするんです」
その言葉は、思ったよりまともだった。
コハルは帳簿こそ苦手だ。売上予測もひどい。支出欄に「なんとかする」と書く。お試し価格で赤字を出す。
だが、客が何を欲しがっているかを掴むのは早い。
ジンは疲れを取りたかった。
だが、本当に必要なのは、翌日も無事に動ける状態だった。
ミナは肩こりを楽にしたかった。
だが、本当に必要なのは、仕事を続けても壊れない身体だった。
温泉は入口だ。
宿泊にするには、その先がいる。
「アルトさん」
「何だ」
「客室に快眠結界って張れますか?」
「張れる」
「装備乾燥は」
「できる」
「靴の中だけ乾かすとか」
「できる」
「外套はふかふかに」
「乾燥しすぎると革が傷む」
「そこまでわかるんですか」
「結界師なので」
「便利すぎます」
「今さらだな」
コハルは両手を握った。
「明日、作りましょう。冒険者さんが帰らず泊まりたくなる宿」
「面倒だ」
「温泉入り放題です」
「もう契約に入っている」
「温泉饅頭もつけます」
「余ったらだろ」
「明日は余らせません!」
「それは売るという意味では」
「もちろんです!」
アルトはため息をついた。
墓穴を掘った。
しかも、かなり大きい穴だった。
だが、コハルはもう紙の上に次々と案を書いている。
疲労回復風呂。
装備乾燥。
快眠部屋。
温かい夕食。
朝の出発支援。
弁当。
勢いだけだった大復活計画に、少しだけ筋が通り始めていた。
アルトは空になった牛乳瓶を見た。
湯上がりの牛乳は、確かにうまかった。
客にも売れるだろう。
「湯上がり牛乳も入れろ」
何気なく言った。
コハルの筆が止まる。
そして、ゆっくり顔を上げた。
「アルトさん」
「何だ」
「商売の才能があります」
「ない」
「あります。湯上がり牛乳付き宿泊プランです」
「余計なことを言った」
「言いました」
コハルは紙に大きく書き足した。
『湯上がり牛乳付き』
その字だけ、妙に力が入っていた。
八百万亭の夜は、静かだった。
だが帳場の上では、明日の宿が少しずつ形になり始めていた。
客はいない。
売上も少ない。
けれど、帰らずに泊まりたくなる理由を作る。
コハルはそれを見つけた。
アルトは、できれば見つけてほしくなかった。




