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3-2 疲労回復風呂、初稼働

「お疲れの冒険者様! 八百万亭のあったかいお湯、いかがですか!」

 コハルの声が、雪の残る通りに響いた。

 若い冒険者は足を止めた。

 年は二十歳前後。革鎧は泥と雪で汚れ、肩には剣、腰には小さな革袋。顔つきは悪くないが、疲労で目の下に影ができている。右肩をかばうように歩いていた。腕にも浅い傷がある。

 後ろから追ってきたギルド受付嬢が、息を切らして彼の背中に追いついた。

「ジンさん、だから言ったでしょう。今日はもう休んでください」

「平気だって、ミナさん。雪狼が三頭出ただけだ」

「三頭も、です」

「群れにしては少ない」

「そういう問題ではありません」

 受付嬢のミナは、眼鏡をかけた若い女性だった。ギルドの紺色の上着に、書類鞄。真面目そうな顔をしているが、肩のあたりがひどく凝っている。首を回すたびに、わずかに眉を寄せていた。

 ジンはコハルの持つ札を見た。

『八百万亭、お湯あたたかくなりました。本当に』

 読んで、少し笑う。

「本当に、って何だよ」

「本当に、という意味です!」

 コハルは胸を張った。

「湯守町の老舗旅館、八百万亭です。雪狼退治で冷えた身体に、あったかいお湯はいかがでしょうか。今ならなんと、初回お試し価格です!」

「お試し価格?」

 ジンの目が少し動いた。

 金はなさそうだ。

 革鎧は使い込まれている。剣も安物ではないが高級品ではない。財布の紐も細い。若手冒険者らしい格好だった。

 ミナがすかさず言う。

「いいじゃないですか、ジンさん。きちんと休んでください。宿泊もした方がいいです」

「宿泊は無理だ。今日の報酬、装備修理に回さねえと」

「またそうやって」

「風呂だけなら……いくら?」

 コハルは一瞬で計算する顔になった。

 ただし、計算は苦手である。

 目が少し泳いだ。

 アルトは横から小声で言った。

「普通に取れ」

「初回お試し価格です!」

 コハルは即答した。

「赤字では」

「宣伝費です!」

「便利な言葉だな」

 コハルはジンに向き直った。

「本日限定、雪狼退治帰りの冒険者様応援価格です!」

「そんな限定あるのか」

「今できました!」

 ジンは笑った。

「面白いな、あんた」

「女将ですので!」

「関係あるか?」

「あります!」

 ジンは肩を押さえながら、少し考えた。

 ミナが畳みかける。

「入ってください。肩、痛めてますよね」

「ちょっとな」

「ちょっとではありません」

「わかったよ。風呂だけな。泊まらねえぞ」

 コハルの耳が立った。

「ありがとうございます! 八百万亭へご案内します!」

 こうして、八百万亭に久しぶりの外部客が来た。

 ジンは浴場へ案内された。

 アルトは浴場の入口で結界を確認する。湯温は四十一・五度。昨日より安定している。源泉成分も循環している。問題は、ジンの疲労がかなり強いことだった。

 肩の筋肉がこわばっている。

 右脚にも軽い負荷。

 魔力の流れも、戦闘後特有の詰まり方をしている。

 浅い傷はあるが、湯に入れないほどではない。

 アルトは湯船に、もう一枚だけ結界を重ねた。

 疲労を抜くための結界。

 といっても、体力そのものを増やすわけではない。筋肉に残った過剰な緊張をゆるめ、魔力の流れを整え、冷えで鈍った血の巡りを少し助ける。痛みを消すのではなく、身体が本来戻ろうとする方向を邪魔しないようにする。

 軍の医療班では、負傷兵の応急処置に使っていた術だ。

 バルドスには「戦果にならん」と言われた。

 今は、湯船に沈めている。

 アルトは少しだけ気分がよかった。

「ジン様、何かありましたらお声がけください!」

 コハルは暖簾の外で声をかけた。

 浴場の中からジンの声が返る。

「おー。……うわ、あったけえ」

 コハルが小さく拳を握った。

「聞きましたか、アルトさん」

「聞こえた」

「あったかい、いただきました」

「何を獲得したんだ」

「実績です」

 湯音がする。

 ざぶん、と静かに湯が動いた。

 ジンの声がまた聞こえる。

「……何だこれ。肩、軽くなってきたぞ」

 コハルの耳がさらに立つ。

「アルトさん」

「効いているな」

「効くんですか」

「疲労回復用に調整した」

「いつの間に」

「今」

「今」

「湯に入る前に」

「さらっと新機能を足さないでください!」

「必要そうだった」

 ミナが横で目を丸くしている。

「疲労回復……? 薬湯ではなく?」

「結界です」

 コハルが自分のことのように胸を張った。

「うちの結界師がやりました!」

「うちの、になった覚えは薄い」

「今朝なりました!」

「強引だった」

 浴場の中で、ジンが声を上げた。

「すげえ! 右肩、回る!」

 ばしゃ、と湯が跳ねる音。

 コハルは慌てた。

「浴場内では走らないでください!」

「走ってねえよ!」

「跳ねないでください!」

「すまん!」

 アルトは浴場の床に滑り止め結界を厚くした。

 若い冒険者は、疲れている時より元気になった時の方が危ない。

 しばらくして、ジンが湯から上がった。

 直接の様子は見えない。

 だが、脱衣所から聞こえる声だけで、かなり回復しているのがわかった。

「身体が軽い……。何だこれ。雪狼三頭分の疲れが消えたぞ」

「完全には消えていない。錯覚に近い」

 アルトが言うと、ジンが戸の向こうから返した。

「錯覚でもいい! 動ける!」

「動くな」

「もう一件、依頼行けるぞ!」

 コハルの顔がぱっと輝いた。

「よかったです! では宿泊のご案内を」

 ジンが脱衣所から出てきた。

 湯上がりで顔色がいい。肩も回している。足取りも軽い。別人とまでは言わないが、入る前より明らかに元気だった。

 コハルは満面の笑顔で続けた。

「お風呂で疲れを取ったあとは、当館自慢の客室でゆっくりお休みいただけます。今なら温泉饅頭も――」

「いや、元気になったから帰る!」

 コハルの笑顔が止まった。

「……はい?」

「助かった! これなら夕方の荷運び依頼に間に合う! ミナさん、まだ残ってるよな?」

 ミナが頭を抱えた。

「ありますけど、普通は休む流れです」

「今ならいける!」

「そういうところです、ジンさん」

 ジンは入浴料を払い、勢いよく玄関へ向かった。

「ありがとな、女将さん! また来る!」

「あ、はい。ありがとうございます。ぜひ次回はご宿泊も」

「金ができたらな!」

 ジンは走って出ていった。

 足取りは軽い。

 非常に軽い。

 軽すぎる。

 コハルは玄関で固まっていた。

 開いた戸から冷たい風が入る。

 アルトは無言で冷気遮断結界を張った。

「アルトさん」

「何だ」

「お客様が、元気に帰りました」

「いいことだな」

「宿屋としては、どうなんでしょう」

「入浴料は入った」

「宿泊料は入りませんでした」

「そうだな」

 コハルは帳場の方を見た。

 脳内で売上と理想が戦っている顔だった。

「でも、まだミナさんがいます!」

 希望を見つけるのが早い。

 ミナは遠慮がちに手を上げた。

「あの、私も入っていいでしょうか。肩が、その……」

 彼女は首を回し、少し顔をしかめた。

 明らかに肩こりが重い。

 コハルは即座に営業顔へ戻った。

「もちろんです! ギルド職員様向け肩こり改善お試し価格です!」

「また今作ったな」

「需要に合わせた柔軟な価格設定です!」

「危ない言葉だ」

 ミナは浴場へ向かった。

 アルトは湯を少し調整する。

 ジン向けの疲労回復とは違う。肩と首の筋肉のこわばり、目の疲れ、長時間の書類仕事で滞った魔力の流れ。そこをゆるめる。

 しばらくして、浴場の中からミナの声がした。

「……軽い」

 コハルが小さく跳ねた。

「いただきました」

「何をだ」

「女性客の実績です」

 ミナは湯上がりに、少しぼんやりした顔で出てきた。

「すごいです。肩が、自分のものじゃないみたいです」

「それは大丈夫なのか」

 アルトが言うと、ミナは慌てて首を振った。

「いえ、いい意味でです。ここ数か月、ずっと重かったので」

 コハルはすかさず言う。

「では、ご宿泊のご案内を」

「泊まりたいです」

 コハルの耳が立った。

「ただ、ギルドに戻らないと。ジンさんがまた依頼を受けるなら、書類処理が増えます」

 コハルの耳が伏せた。

「お仕事ですか」

「はい」

「では、仕方ありません」

「でも、これ、ギルドで絶対噂になります。冒険者にも職員にも」

 ミナは入浴料を払い、真剣な顔で言った。

「八百万亭のお湯、本当に変わりましたね」

 その一言で、コハルの顔がまた明るくなった。

「はい!」

 ミナも帰っていった。

 玄関が閉まる。

 宿の中が静かになる。

 帳場に残ったのは、入浴料が二人分。

 温泉饅頭は売れなかった。

 宿泊客はゼロ。

 夕食の注文もゼロ。

 コハルは硬貨を並べた。

 数える。

 もう一度数える。

 念のため、三回数える。

 そして言った。

「アルトさん」

「何だ」

「売上は、入りました」

「そうだな」

「宿泊料は、入りませんでした」

「そうだな」

「温泉の効果が高すぎると、お客様は元気に帰るようです」

「いいことだな」

「宿屋としては、悪夢かもしれません」

 アルトは何も言わなかった。

 湯は効いた。

 客は喜んだ。

 だが、宿は儲かっていない。

 コハルは硬貨を見つめている。

 明るい顔のまま、少しだけ青ざめていた。

 八百万亭の最初の営業は、成功した。

 そして、失敗した。


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