もう、くらってば
結局、蒼は牛丼を食べた。
断る理由も、断る気力もなかった。それに、腹が減っていた。明け方まで作業して、最後にまともな飯を食ったのがいつだったか、もう思い出せない。割り箸を渡されるまま手を動かすと、つゆの染みた飯が、情けないくらいうまかった。
向かいで、女も食べている。それも、もりもり食べていた。きれいに整えた指先で、特盛をかき込んでいく。見た目から勝手に想像していた「上品な小食」とは、何もかもが逆だった。食べ方に遠慮がない。うまいものを、うまいと思って食う人間の食い方だった。
「あんた、名前は」
「……柏木、蒼です」
「蒼ね。あたしは玉藻前」
箸を止めず、女はそう名乗った。
たまものまえ。聞き覚えがあった。音楽よりは歴史のほうが、こういう名前にはくわしい。九つの尾を持つ狐。殺生石。その手の伝説の、たしか真ん中にいた名前だ。
大物だ、と蒼は思った。思ったが、それだけだった。一年前なら箸を取り落としていたかもしれない。けれど、闇龗神を居候させて床で寝かせている今となっては、九尾の狐が牛丼を食べていたところで、驚きは驚きの形にまでならない。慣れ、というのは、なかなか恐ろしいものだった。
「たま、それうまい?」
水を片手に、くらが容器を覗き込む。
「うまいわよ。あんたも食べる?」
「いらない。水の味しないし」
「出た、水。ねえ蒼、こいつ昔っからこうなのよ。水水水水で、ほんっとに面倒なんだから」
「俺の管轄なんだから仕方ないだろ」
「管轄って言えばなんでも許されると思ってるでしょ。もう、くらってば」
玉藻前は、呆れたように笑った。さっきまで蒼の喉を詰まらせていた色気は、その笑い方の中では、すっかり鳴りを潜めている。妖艶な美人だと思っていた。喋ってみれば、ただの、面倒見のいいさばさばしたお姉さんだった。蒼の中で、最初の印象が、音もなく崩れていく。
「あの、たまちゃ……」
くらの呼び方につられて、つい口が滑った。言ってしまってから、しまった、と思う。玉藻前の眉が、ぴくりと動いた。
「……今、なんて?」
「……たま、さん」
「ならいいわ」
あっさり矛を収めて、また牛丼に戻る。どうやら蒼がびくびくしている分には、許してもらえるらしかった。横でくらが「たまちゃんはたまちゃんだろ」と口を挟んで、「あんたは別」と即座に切り返されている。長い付き合いの中で、何度も繰り返してきたやりとりなのだろう。
ふと、玉藻前の目を見た。金色の瞳の真ん中が、ほんの一瞬、縦に細くなった気がした。けれど瞬きひとつで、元の丸い形に戻る。気のせいかもしれない。蒼は、それ以上は深く考えないことにした。考えないでおくのが、この部屋でうまくやるコツらしいと、最近わかってきたところだった。
牛丼の容器が、二つ空いた。くらの前にだけ、いろはすの空きボトルが転がっている。
変な朝だ、と蒼は思う。けれど、不思議と、嫌な感じはしなかった。




