ここで待ってな
飯を食い終わると、玉藻前は当たり前のように蒼を立たせた。
「ごちそうさま。さ、行くわよ」
「……どこに」
「あんた、どうせ今日も家でうだうだしてるだけでしょ。たまには外、出なさい」
反論する暇もなかった。人付き合いの苦手な蒼にとって、強い流れに逆らうのは、流れに乗るよりずっと難しい。気づけば靴を履かされて、春の昼下がりの上野の街に引っ張り出されていた。くらは「俺、昼寝するわ」と言って、当たり前のように部屋に残っている。誰の家だ、と思ったが、口には出さなかった。
玉藻前は、街を歩き慣れていた。上野中通りのアーケードを、知った道のように進んでいく。すれ違う店の人間が、何人か会釈をしてきた。蒼の知らない繋がりが、この人にはいくつもあるらしい。
途中、ころころしたじいさんたちが、串の店先で昼間から赤い顔をしていた。「たまちゃん!」と片手を上げてくる。「あら、じいちゃんたち、もう飲んでるの」と玉藻前が笑った。蒼にも見覚えのある顔だった。名前は、やっぱり知らない。会釈だけ返して、通り過ぎる。
中通りを抜けて、人通りの少ない横道に入ったところで、玉藻前がふいに足を止めた。
「蒼、あんたここで待ってな」
「え」
「ちょっと、寄るとこあるから。すぐ済むわ」
言うと、玉藻前は返事も待たず、細い路地のほうへ歩いていった。その背中は、さっきまでのさばさばした空気とは、少し違って見えた。声の調子も、歩き方も。何か、仕事に向かう人間の顔をしていた。
蒼は、言われた通りに待った。路地の奥で何が行われているのか、見えないし、見に行く気もない。ただ、立ち入ってはいけない場所がある、ということだけは、なんとなくわかった。くらの、あの夕方の路地のばあちゃんの時と、どこか似ている。神様には、人間に見せない仕事の時間がある。それだけのことだった。
手持ち無沙汰に、蒼はレコーダーを取り出した。横道の環境音を録る。遠くのアーケードのざわめき、鳩の羽音、どこかの店の換気扇の唸り。いつもの癖だった。録っていれば、待つ時間も惜しくない。むしろ、こういう中途半端な場所の音のほうが、あとで使える。
「これ使える」と、誰にともなく呟いた。
十分ほどで、玉藻前は戻ってきた。
「お待たせ。行きましょ」
「……何してたんすか」
「女の子の用事よ」
それ以上は、言わなかった。蒼も、それ以上は訊かなかった。訊いたところで、たぶん同じ答えが返ってくるだけだ。
帰り道、玉藻前はもう、いつものさばさばしたお姉さんに戻っていた。さっき見た「別の顔」のことなど、最初からなかったかのように、くらの水癖の愚痴を喋っている。けれど蒼の中には、あの一瞬が、小さな棘のように残っていた。
この人にも、くらと同じように、誰にも言わない何かがある。神様というのは、たぶん、みんなそうなのだろう。見えているのに、何をしているかは知られない。蒼はそれを、わざわざ暴こうとは思わなかった。




