特盛でよかった?
ピンポン、ピンポン、と音がする。
最初、蒼はそれを夢の中の音だと思った。一定の間隔で鳴る電子音。四秒に一回、几帳面なくらいに正確で、それがかえって耳の奥に残る。録っておきたいな、と寝ぼけた頭の隅で考えた。誰かが、すごく律儀に、何かを知らせようとしている——
ピンポンピンポンピンポンピンポン。
連打だった。
そこでようやく、現実の音だと気づく。
まぶたを開けると、天井がやけに明るかった。枕元の時計は、午前九時を指している。蒼にとっては、眠りについてまだ数時間しか経っていない時刻だった。明け方まで音を組んで、ようやく意識を手放したところを、真上から叩き起こされた格好になる。死んだ顔のまま、しばらく動けなかった。
部屋の隅に、くらの姿はない。朝のうちはいつもどこかをふらついていて、昼前にならないと帰ってこない。つまり、この理不尽な電子音をどうにかできる者は、今この部屋に蒼ひとりしかいなかった。
居留守を、と思う。思うだけで、体が勝手に起き上がってしまうのが蒼だった。来られたら応じてしまう。押し返す力が、生まれつきどこかに欠けている。連打はやむ気配がない。蒼は寝癖を引きずったまま、玄関までふらふらと歩いていった。
ドアを開ける。
朝の光が、まず目を刺した。その光の中に、女がひとり立っている。
きれいな人だ、と最初に思った。くらとは、整い方の種類が違う。くらが「気づいたら整っていた」顔なら、この人は「整えることを知り尽くした」顔だった。黒い髪が緩く結われて、後れ毛が首筋にかかっている。目が合っただけで、なぜか喉の奥が詰まった。蒼は、それ以上どこを見ていいかわからず、視線を足元に落とす。
たぶん、人間ではない。
そのくらいは、もう察しがついた。くらで一度、学習している。やたら整った顔で、こちらの調子を狂わせてくる手合いは、だいたいそっち側だ。一年前の蒼なら腰を抜かしていたかもしれないが、今はもう、驚くより先に納得がきてしまう。
女の手には、半透明のビニール袋が提げられていた。蒼の、処理の追いつかない頭は、それでも勝手に予想を立てようとする。こういうきれいな人が朝に提げているのは、きっとおしゃれなカフェの白い紙袋で、中身は横文字のついたサンドイッチか何かで——いや、違う。どう目を凝らしても、ぶら下がっているのは、ただのレジ袋だった。
「牛丼。特盛でよかった?」
女が、ビニール袋を軽く掲げた。底のほうに、見覚えのあるオレンジ色のロゴ。チェーンの牛丼屋の、あのレジ袋だった。口の隙間から、つゆだくの匂いがしっかり漏れている。
「……は」
予想と現物の落差で、蒼の言葉は最初の一音だけで止まった。
女は、蒼の返事を待たなかった。「入るわよ」と言って、当たり前のように靴を脱ぐ。くらの時と、同じだった。この部屋のドアは、人外に対してだけ、妙にゆるくできているのかもしれない。
女はずかずかと上がり込むと、散らかった床を一瞥し、それから蒼を上から下まで眺めた。ガリガリの体。落ちくぼんだ目。寝癖。
「やっぱりね」と、女は言った。「あんた、ろくなもの食べてないでしょ」
初対面のはずだった。なのに、女は蒼の食生活を、最初から知っている口ぶりだった。否定する材料が、ひとつも思いつかない。蒼は黙ったまま、また視線を逃がした。
女が紙袋から容器を取り出す。発泡スチロールの蓋が、かぱ、と乾いた音を立てた。蒼の指が、無意識にデスクのレコーダーへ伸びかける。いい音だ、と反射的に思ってしまう。慌てて、手を引っ込めた。今は、どう考えても、そういう場合ではない。
女はそれを見逃さなかったらしい。片方の眉を上げて、面白そうにこちらを見る。見られると、また喉が詰まる。蒼は牛丼の容器に視線を固定して、やり過ごした。
玄関が、また開いた。
「ただいまー。あ、たま来てたん」
くらだった。近所をひと回りしてきたらしく、機嫌のいい顔で、手にはいろはすを一本提げている。女——たま、と呼ばれたその人は、振り返りもせずに答えた。
「来てたんじゃないわよ。来たの。あんたが拾われた子、どんな子か見にきたんじゃない」
「拾われてないって。俺が介抱されたの」
「どっちでも一緒でしょ」
二人のやりとりには、ずいぶん長い付き合いの気安さがあった。くらが当たり前のように水を飲み、たまが当たり前のように箸を割る。その輪の中で、蒼だけが、牛丼の湯気の前で固まっている。
なんで朝から、美人と牛丼なんだろう。
寝起きの頭に浮かんだのは、それだけだった。




