飲むかね!
夏祭りの夜は、音の宝庫だった。
太鼓の、腹に響く低音。笛の、ぴいと裏返る高音。下駄が石畳を打つ音、屋台の鉄板がじゅうじゅういう音、子どもの歓声、人混みのざわめき。蒼は、レコーダーを首から提げて、その全部を浴びるように、祭りの通りを歩いていた。死んだ顔は、今夜ばかりは、どこかへ引っ込んでいる。
祭りは、金のない蒼にとって、数少ない当たりの日だった。屋台のものは、ほとんど買えない。けれど、音はただだ。ここでしか録れない音が、そこらじゅうに転がっている。蒼は、人の流れに逆らったり乗ったりしながら、いい録り音を探して歩いた。
「……これ使える」
太鼓の櫓の真下で、しばらく腹の底を震わせる低音を録る。屋台の列に移って、綿菓子機の回る、ふわふわした機械音を録る。録っているあいだは、腹が減っていることも、財布が軽いことも、きれいに忘れていられた。
露店のあいだを縫っていると、横合いから、しわがれた声が飛んできた。
「おお、若いの! 飲むかね!」
例の、ちっちゃいじいさんたちだった。一杯やれる場所を見つけたのか、生ビールの紙コップを片手に、ベンチのまわりに陣取って、もうすっかり出来上がっている。四人とも、ほっぺを真っ赤にして、にこにこしていた。
蒼にとって、このじいさんたちは、上野の風景の一部のようなものだった。小豆洗いや、不忍池の河童と、だいたい同じ枠。いつも上野のどこかで赤い顔をして飲んでいる、ちっちゃくて、ころころして、にこにこした、たぶん何かの妖怪のじいさんたち。それが何者なのか、詳しく考えたことは、一度もなかった。考える必要も、なかった。
断る、という選択肢は、蒼にはない。気づけば、冷えた缶ビールを一本握らされて、ベンチの端に座らされていた。
「若いのは、しっかり食わにゃあ」
「ほれ、これも食え」
焼き鳥だの、たこ焼きだのが、次々と紙皿で回ってくる。蒼が遠慮する間もなかった。じいさんたちは、互いを「五條天神社」だの「湯島さん」だのと、相変わらず神社の名前で呼び合っている。この前の焼き鳥屋でも聞いた呼び方だった。蒼には、誰がどれだか、やっぱりよくわからない。
しばらくすると、人混みの向こうから、見慣れた顔も合流してきた。くらは屋台のラムネを一本もらって、「これ、ただの炭酸水じゃん」と不満げに振っている。玉藻前は、いつのまにか知らないおじさんに綿菓子をおごらせていた。祭りの夜は、神様たちも、てんでに楽しんでいるらしい。
ふと、蒼は気づいた。
じいさんのひとりが、焼きそばの屋台の親父と、やけに親しげに何か話している。親父は、何度もうなずいて、それから、出しかけていた油の缶を、そっと引っ込めた。べつの一人は、かき氷のシロップの瓶を、にこにこしながら覗き込んでいる。
なんだろう、と思った。
ただ飲んで騒いでいるだけのようでいて、その合間に、じいさんたちは、やたらと屋台を見て回っている。意味は、まだわからない。けれど、蒼の耳の奥で、何かが、小さく引っかかった。




