悪くない
夜が更けて、じいさんたちが一人、また一人と船を漕ぎはじめたころ、姐さんは、ふいに席を立った。
「帰る」
「えっ、もう? まだ飲もうや」と、くらが絡む。
「あんたらと飲むと、長くなる」
短く言って、姐さんは布をひと巻きし直した。今夜のうちに、奈良へ帰るのだという。引きこもりが性に合っている、と本人は言う。この騒がしい街は、たまに来るくらいでちょうどいいのだと。
蒼は、なんとなく、店の外まで姐さんを見送りに出た。
夏の夜の、生ぬるい風が吹いている。姐さんは、ふと、暗い路地の奥に目をやった。その横顔が、一瞬だけ、別の顔になる。玉藻前が、ときどき見せるのと同じ——仕事の顔、とでも言うべきものだった。
「……この時季は、虫が多い」
ぽつりと、姐さんが言った。蒼には、それが何の話か、よくわからなかった。けれど、わからないなりに、わかることもあった。この人にも、くらや玉藻前と同じように、誰にも言わない仕事がある。夏の夜の路地の奥に、蒼の知らない何かを、見ているのだ。
神様は、みんな、何かしてる。蒼は、もう、それにいちいち驚かなくなっていた。
「あんた」
歩きかけた姐さんが、振り返らずに言った。
「あの音、好きに使いな。あたしの声でも、なんでも」
「……いいんすか」
「あんたの録る音は」
そこで、ひと呼吸あった。
「……悪くない」
それだけ言って、姐さんは夏の闇のほうへ歩いていった。布の裾が、暗がりに溶けて、すぐに見えなくなる。
悪くない。たった、それだけの言葉だった。けれど、なぜだか、蒼の胸には、深く残った。あの古い目の人が言う「悪くない」は、たぶん、そう簡単に出てくる言葉ではない。
見上げると、店の屋根の上に、あの大きな烏が一羽、とまっていた。姐さんを追うように、ひと声鳴いて、同じ方向へ飛んでいく。
蒼は、ポケットのレコーダーを、そっと握った。中には、今までで、いちばん古い音が入っている。
知らない神様が、また一人、蒼の世界に増えた。今度は、やかましいのではなく——静かな、一人だった。




