服、着てください
それから数日して、くらが唐突に言った。
「姐さん、上野来てるって。焼き鳥行くぞ」
「……姐さんって、この前の」
「そう。あの烏の、飼い主みたいなもん」
飼い主、という言い方が正しいのかはわからなかったが、蒼は反論しなかった。会ってみたい、という気持ちが、自分でも意外なほど、あった。烏越しにずっと見られていた相手が、どんな人間——いや、どんな神様なのか。
連れていかれたのは、ガード下の、煙と炭の匂いの染みついた焼き鳥屋だった。くらが暖簾をくぐると、奥のほうから、もう声が飛んできた。
「おっ、くらじゃ!」
「おう、若いのも一緒か!」
ころころした、小さなじいさんが四人。カウンターの端を陣取って、すでにほっぺを赤くして飲んでいた。蒼にも見覚えのある顔だった。いつも上野のどこかで飲んでいる、あのじいさんたちだ。むこうも、公園で何度か顔を合わせている蒼を、ちゃんと覚えているらしい。
「五條天神社、もう一杯いっとくかね」
「湯島さんはペース早いのう」
「根津さんこそ」
神社の名前で、互いを呼び合っている。蒼は、その情報量に、一瞬くらりとした。
「あら、揃ってるじゃない」
後ろから、玉藻前も入ってきた。じいさんたちが「たまちゃん!」と、いっせいに沸く。見た目は完全にじいさんなのに、たまちゃん呼びを、誰も咎めない。咎める空気ですら、ない。
その、わいわいと騒がしいカウンターの、いちばん端。
ひとりだけ、静かな席があった。
女が——たぶん、女だと思う——黒い長い髪を前髪も分けずにおろしたまま、濁った酒の入ったぐい呑みを傾けていた。串が数本、きれいに食べ終えて並んでいる。周りの喧騒には、まるで加わっていない。ただ、そこに座って、淡々と飲んでいた。
蒼の目を引いたのは、その目だった。
こちらをちらりと見たその目が、黒かった。ただの黒ではない。この数か月、蒼が会ってきた神様たちは、くらの青も、玉藻前の金も、どこか人ではない色をしていた。けれど、この人の目は——黒い。人間の目の、あの黒さだった。神様たちの中で、その目だけが、妙に人間に近かった。
それから、蒼は気づいて、慌てて視線を逸らした。
女の纏っているものが、布、としか言いようがなかった。一枚の大きな布を、ざっくりと体に巻きつけただけ。肩も、背中も、際どいところまで無造作に出ている。本人は、まるで気にしていない。
「……あの、服、着てください」
考えるより先に、口から出ていた。
女が、ぐい呑みを置いて、蒼を見た。
「着てる」
「いや、それ布」
「布も服だろ」
短い。やたら、短い返しだった。
「あ、姐さん。こいつ、俺が世話になってる柏木蒼」
くらが、軽い調子で蒼を押し出す。女は、もう一度、蒼を上から下まで見た。値踏みするような、けれど嫌な感じのしない視線だった。
「……ああ。あんたが、くらを拾った子か」
「……はい」
「烏から、聞いてる」
やっぱり、と蒼は思った。この人が、あの烏の向こうにいた誰かだった。
じいさんたちが「姐さんも蒼くんと飲みんさい」「ささ」と、ぐい呑みを差し出す。くらと玉藻前も、当然のように姐さんの席へなだれ込んでいく。たちまち、静かだった端の席まで、宴の喧騒に飲み込まれた。
「……あんたたち、相変わらずにぎやかだね」
女は、小さく溜息をついた。けれど、振りほどいて帰るでもなく、また濁り酒に口をつける。この騒がしさを、嫌ってはいないらしい。ただ、自分はその中に入らない、というだけのことだった。
蒼は、なんとなく、その距離感が、わかる気がした。




