筒抜け
梅雨が明けて、上野に夏が来た。
不忍池の蓮が、ぽつぽつと咲きはじめている。蒼は、その葉の擦れる音を録ろうと、ほとりにしゃがんでいた。風が渡るたびに、大きな葉が重たげに揺れて、ぱさり、ぱさりと低い音を立てる。水と緑の、湿った音だった。悪くない。
少し離れた蓮の茂みの中で、くらが昼寝をしている。夏のくらは、水辺にいるだけで上機嫌で、放っておくと一日じゅう蓮の間でとろけていた。
録音を続けていると、視界の端に、黒いものがとまった。
烏だった。すぐ近くの柵の上に、一羽。蒼は、手を止めてそれを見た。
でかい。普通の烏の、たぶん倍はある。羽の艶も、体つきも、どこか堂々としていた。そして、目。こちらをまっすぐ見ているその目が、普通の烏とは違った。賢い、というよりも——見定めている、という感じの目だった。
蒼は、ふいに思い出した。いつだったか、夜の電線でも、こいつを見た気がする。いや、もっと前にも。引っ越してきた当初から、こういうでかい烏が、ずっと視界のどこかにいたような気がした。
「……くら」
「んー」
蓮の中から、気の抜けた返事がある。
「このカラス、なんかでかくない?」
くらが、片目だけ開けた。柵の上の烏を見て、「あー」と、なんでもないように言う。
「姐さんのカラスじゃん」
「……姐さんの?」
「報告係。上野のことは、だいたいそいつ経由で姐さんに伝わってる」
蒼は、烏を見た。烏も、蒼を見ている。
「じゃあ、今の俺のことも」
「筒抜けだよ。お前が俺を拾った日から、ずっと見られてる」
くらは、あくびまじりにそう言って、また蓮の中に沈んでいった。
蒼は、しばらく動けなかった。
出会った日から、ずっと。あの夕方、池のほとりでくらを介抱した時から、この烏は——いや、その向こうにいる誰かは、蒼のことを見ていたことになる。録音している姿も、部屋に神様を上げたことも、全部。
なんとなく、レコーダーを持つ手に力が入った。それから、ばつが悪くなって、機材をそっと鞄にしまう。烏は、表情ひとつ変えずに、それを見ていた。
「……姐さんって、誰」
蓮の中から、返事はもうなかった。くらは、本格的に寝入ったらしい。
姐さん。また、知らない名前だった。けれど、今度のは、遠くで見かけるだけの相手でも、ただの名前でもなかった。現に、この街には、蒼がまだ会ったことのない誰かがいて、その誰かは、ずっと前から蒼のことを知っている。
あの夜、窓の外の烏が妙に気になった時の、あの予感を思い出す。知らないやつが、まだ、どこかにいる。それは、気のせいではなかったらしい。
柵の上の烏が、ひと声鳴いて、夏の空へ飛び立っていった。どこへ報告しに行くのか、蒼には、もう、なんとなく想像がついた。




