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逆さまの葬儀師カリン  作者: 黒糖あずき
カルテ No.1 イングリッド・ヴァンス

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9/10

09

 いつも通り調子の悪そうな咳払いを洩らす扉を押し込み、冷たくも暖かい我が家に帰ってきた。


「ただいま」


 うら悲しさを纏っていた無機質な部屋は、カリンがランプを灯せば主の帰りを喜ぶように天井を星屑で埋めた。


「ふ、はぁあああああ……」


 カリンは靴を脱ぐと、シングルベッドへ身を投げ脱力した。


「もー、むり」


 カリンは当分動けそうになかった。

 デスクワークでカルテと向き合うばかりの生活では、今日一日で体験した憎悪のフルコースはカリンには無謀にも近いものだった。

 つまるところ、今までにないくらい歩き晒された外気(害気)を受けて満身創痍という訳だ。


「向いてないのよ外は」


 うつ伏せで何処までも続く沈黙に身を任せ四半時。

 どこからか聞こえてくる地を震わすデュオの咆哮が微睡みからカリンを叩き起した。


「オルトロス……」


 まだ重く感じる体に喝を入れて熱を奪うように冷えた床へ足を下ろす。キンと刺すような冷たさだが、それが歩き疲れ痺れた足を程よく刺激する。

 軽く寝違えた首に顔を顰めながらも、すっかり冴え渡った思考でデスクと向き合う。

 出番を今か今かと待ち侘びていたブリーフケースをデスクへ据えた。居住まいを正したカリンが真鍮の留め具を上へ弾けば、パチンと小気味好い音が空気を入れ替える。


「よし――」


 小さく息を吐き一呼吸置けば、そこはもう無我の境地だ。

 デスクに(ひら)けたカルテに神経を集中させた極限の状態でイングリッドの執務室から拝借した(決して盗んだ訳では無い)手紙のリボンを(ほど)く。


「これは――で、これが……」


 時系列をバラバラに纏められた便箋たちが(したた)められた日を確かめながら、紐帯を結び直していく。



――コン。



 カリンを呼び戻すのはいつだってこの音だ。

 ビクともしない氷海へ一石を投じる、カリンの命綱。


「カリン」


 聞き慣れた男の声に深い海へ潜っていた意識が水面へ浮上する。


「カリン? いるんだ――ろ?」


 いつにないほど手荒に開かれた扉にヘリオが硬直する。

 勢いの余り、扉はいつも以上の断末魔の叫びをあげるしかない。


「ど、どうした……?」

「……のよ」

「は?」

「わかった、わかったのよ! これだった!」


 少し屈めてカリンの目線へ落ちたヘリオだったが、彼女が目の前に押し出した便箋の束に思わず体を仰け反らせる。


「う、うん?!」

「ちょっと行ってくる!」


 ヘリオはマダム・ダイナにせっつかれ、彼女を再びイングリッドに接触させるために部屋を訪れたはずだった。束の正体を知らないヘリオは、支離滅裂な言葉を残してハリケーンの如き勢いで走り去ったカリンをただ呆然と見送る。


「またあれだ。――行くってのも、サブジェクトのところだろうし……まぁ、いいか?」


 仕方の無いやつだ。と、腰に手を当ててカリンの背中へ呆れを含んだ笑いを零した。


「だが、なんでブリーフケースなんて持って行くんだ……? おーい! リミットは近いぞー!」


 何処までも続く硬質な床で春の始まりを告げる軽快な音が跳ねる。


「わかった! ありがとう!」


 カリンは慌てすぎてもつれそうになる足を何とか前へ動かし『十三』を目指す。

 伸し掛る重圧を表すように壁で揺らめいていた蝋燭の剣呑だった朱も、今はもう希望に胸を弾ませる灯火にしか見えない。


「はぁ……はぁ……、ふぅ――」


 激しく上下する肩をゆっくりと落ち着かせ、『十三』の扉前で息を整える。



――ゴン。



 呑み込むように大きいヘマタイトの障壁と叩き金が繰り出す音色(おんしょく)も今や歓迎の言葉にしか聴こえない。

 一日も経っていないはずなのに随分と懐かしく感じるのは、地上での血腥い人間の性に触れたからであろう。


「イングリッド様。私です――カリンです」

「どうぞお入りになって」


 初対面では無かった威厳に満ちたイングリッドの声に、扉の向こうながらも背筋が伸びる。

 眠れる獅子が気持ちの整理の時間を経て、完全に目覚めてしまったようだ。

 重い扉を力いっぱい引き、もうすっかり見慣れたエクレクティックな部屋へ足を踏み入れる。

 お世辞にも歓迎しているとは言えない、ヒリついた空気がカリンの頬を撫でた。


「早速ですが、イングリッド――」


 バレルチェアに鷹揚自若と腰掛ける女帝と対峙する。

 部屋は焙煎された豆の香ばしさが充満している。彼女の持ち上げたカップを満たす琥珀色の水面から顔を出す湯気は重く濃密だった。



「答え合わせをしましょう」


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