08
雲の間から顔を出した太陽に照らされながら、カリンは宛もなくただ彷徨っていた。
「あれは――良くなかった……」
カリンは街に漂う濁った空気に酔っていた。
地上には憎悪や怨嗟、怨恨など陰性の残滓が常に浮遊しており、葬儀師は時にそれと対峙しなければならない。
屋敷でのことなんて、まさにそうである。
「あまりにも邪気が多すぎるし」
このお勤めを承った以上、免疫獲得は必須項目であり、通常は時間と経験と共に自然と抗体が形成されるはずなのだ。
「あまりにも、私に、耐性が、無さすぎるっ」
悲しいかなカリンには何故かいつまで経っても抗体が身につかず、酔うという形で顕在化していた。中でも、生者のそれが一番の敵だった。
感覚としては、四方隙間なく詰められた状態で前後左右に揺られながら人混みを進んでいるような、そんな感じ。
「……ぅ。どうにか、リセットしないと」
ノックアウト寸前、最後の気力だけで歩を進める。
「……珈琲?」
おかしくなった三半規管をリセットするようなほろ苦い酸味が鼻腔を擽る。
「神様、ハデス様、珈琲様っ!」
火花が飛沫する視界に降臨した救世主に、カリンは思わず歓喜した。
「これで何とかなりそう……」
酔いという幽冥の出口、街の喧騒から逃れるようにひっそりと在るコーヒーハウスの扉を押し開けた。
斜陽に反射した光の鱗粉が舞い踊る。
「お好きな席へ」
最奥のカウンター越しにカップを磨くマスターから声が掛かる。
(――澄んでる)
決して広くは無いがゆとりある空間をやおら見渡した。
ゆったりと腰を据える事が出来そうな古色を帯びたテーブル、壁際の棚には背表紙の擦り切れた蔵書が毅然と並んでいる。風情を湛えた店内に空気の淀みはひとつも感じられなかった。
(よく手に馴染むわね)
カリンが選んだのは暖かな陽を受け、柔らかな橙の衣を纏った四人掛けのテーブル。その上を遊ぶようにゆるりと手を滑らせてから対のアーコールチェアの一脚を引き、腰を落ち着かせた。
(いいかも)
窓際だがチェッカーガラスが適度に目隠しになり、人目も気にならない。
ガラスの細かな格子によって砕かれた陽だまりがテーブルを舞踏場にひらりゆらりとステップを踏んでいる。
「此方を」
差し出された羊皮紙の上を走る文字の筆跡は飾るように優美だ。
「ありがとう」
この穏やかな永遠を享受しているような雰囲気はまさにカリン好みだった。これ迄、一度きりだが足を踏み入れた事のある神の園オリュンポスによく似ている雰囲気を持っている。
思わず零れる笑みには自分では気が付かず、カリンは受け取ったメニューに目を通した。
「リョクスイ……」
モーニングの品書き――縦に並んだ文字の列のうち一つに、カリンの遠い記憶を震わす名前が光る。
(極東の島国から――。へぇ……)
その銘に遠慮がちに添えられた注釈に、カリンの口からこぼれたのはささやかな翳の欠片だった。
「似てるわね……」
いつかは飲んでみたいものだ。と思考だけで終わらせるのは、馴染み深い響きに食指が動いたが今は払えるほどの持ち合わせがないからだ。
「コーヒーを」
結局、飲み慣れたものに行き着くのがカリンという人物である。
「ブラックで」
「かしこまりました」
客はカリン一人。
朝も早い時間だからか、はたまた元々客足が少ないのかは定かではないが、話し声という騒音が排除された空間を渡り歩くロングケースクロックの時を刻む音が、目を閉じたカリンの心音と共鳴する。
「ふぅ……」
サイフォンの奏でる子守唄もカリンの荒んだ心を包み込んだ。店内を満たしている焙煎された豆の芳香と意識が溶け合い、現世と常世の境界線を曖昧にしていく。
「お待たせ致しました」
遠くでコトと磁器が触れ合う現実という岸辺へ呼び戻す優しい合図が耳に届いた。鼻腔を優しく刺激する深みある香気がカリンを微睡みの深森から呼び戻す。
朝日を通して立ち上る湯気は龍が昇るように美しい。
「あぁ、沁みる……」
甘味を削ぎ落としたその潔い苦味と酸味は、鈍った思考を叩き起す劇薬だ。
コーヒーをソーサーに戻したカリンは、目を閉じてまた清廉な空気に酔いしれた。




