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「答え合わせをしましょう」
カリンがただの小娘ならば、イングリッドの相手を射る目に恐れを成したことだろう。しかし、それ以上に怖い人を知っているカリンにとっては、あってないようなものなのだった。
脳裏をよぎったその存在に背筋が冷えるが、顔には出さない。
「私も話したいと思っていたのよ」
視線だけで執務机の前へ設置された椅子へ座るよう促され、カリンはそれに大人しく従った。
「あの時はごめんなさいね。私としたことが思わず取り乱してしまって」
「いえ。とんでもございません」
ふわりと意志を持ったように動くティーセットに、カリンはイングリッドの鋭い眼光に男社会で生き抜いてきた女実業家の仮面を見た。彼女は既に強い自分を取り戻してしまっていた。
それも『十三』の空間に用意された冥府のものに干渉できるほどに――。
(マダム・ダイナもヘリオも私を急かすわけだわ)
お互いに出方を伺っている、そんな沈黙を破ったのはカリンだった。
「貴女へお訊きしたことを覚えていらっしゃいますか」
未練を包む負の残滓を砕くか溶かすか。
第二ラウンドの幕が上がった。
「訊いた――というと、それは『落し物』の事、かしら?」
「はい。『落し物』です」
「奇遇ね。私もそれについて話したかったのよ」
砕ければ待っているのは輪廻から外れた先に待つ『消滅』。
溶かすことができれば、落し物を回収した先にある『救済』へコマを進めることが可能になる。
「私には未練があると断言したわね」
誰も内側へは踏み込ませまいという堅牢の扉が確かにあった。
「えぇ。貴女にはなんとしてでも成したかった悲願があった。同時に護りたいものも。それをどう折り合いを着けるか、落とし込めるか……。周囲と、そして自分と戦っていた」
すっかり生前の調子を取り戻して隙の無くなったイングリッドを注意深く観察しながら、カリンは少しの変化も逃さないために言葉を慎重に紡ぐ。
「後には引けないところまで来てしまったから――。貴女は体を壊し、今ここにいる」
カリンの話しにじっと耳を傾けていたイングリッドが徐ろに、静かに――だが確かな重みを持って口を開く。
「あれから考えたのだけれど。いくら考えを巡らせても、思い当たる節が何もないのよ。何も、よ? 私は経営者としても、商会のオーナーとしても、やりきったわ。富と名声を得て華やかに散った。それが私よ」
私がここにいる理由なんてひとつもない、と研がれた刃のごとき鋭い眼差しがカリンを射抜く。
「今の貴女の話を聞いても考えは変わらないわ」
(上手く、伝わらない)
彼女の言葉はカリンに向けられていたが、同時に自分に言い聞かせているようにも聞こえた。しかし、依然として強く言い切る姿勢を崩さないイングリッドに、カリンはもどかしさを胸に募らせた。
「未練なんてないと断言出来るわ。ねぇ、私たちの間には大きな隔てりがあると思わない?」
(仕方ない)
遠回しな説得が彼女には逆効果なことを悟ったカリンは、やるしかないと核心という名の宝島へ座礁する方向へ舵を切った。
「そうですね。なぜなら、――それではありませんから」
ソーサーに伸ばされたイングリッドの手に震えが入る。
カリンはその小さな変化を見逃さなかった。
「イングリッド様」
「……誤魔化されてはくれないのね」
「富と名声が貴女にとって取るに足らないものだということは、私もよく理解しているつもりです」
カルテの読み込みも、調査も、抜かりは無いと胸を張れる。
「貴女が欲していたのは地位ではなく、不可侵の安全地帯だったのですから」
「…………。」
少女の見た目年齢に似合わない貫禄を直に受け、イングリッドは諦めたように笑った。
「貴女をステュクスの泡にするつもりはありません。それに、この職に就いて私も長いですからね」
平然といいのける葬儀師に女帝は目を伏せて頷いた。
その表情から感情を読み取ることは叶わない。
「イングリッド様。こちらを――」
カリンは持参したブリーフケースからリボンでまとめられた大量の便箋とドライフラワーを取り出した。
「それは――」
イングリッドは零れ落ちそうなほど目を丸くする。
隠しきれない動揺を湛え右往左往した視線はそのまま自身の背後の本棚へ移った。その先を辿れば、あの花と不自然にずらして置かれた本がバッチリと見える。
(気が付かないなんて私もまだまだね)
サブジェクトに全集中していたのが仇となったことを猛省した。
「なぜ……これ、が」
カリンはイングリッドへ深々と頭を下げた。
「まず、お詫び申し上げます。貴女のことを知るために、地上のこの部屋へ入らせて頂きました。これらは、その部屋から拝借した貴女の未練に関係するであろうと私が当たりをつけた物たちです。間違いありませんか」
割れ物へ触れるようにそっと伸ばされた震える指先は便箋に触れることなくすり抜ける。
「……ッ!」
手が物を通過したことで、初めて自分が生者から外れた存在なのだと悟ったという表情だった。
反射的に引いた手を守るように握り込む彼女は、形を保つために保持していた水を抜かれた砂の城のように脆く危うい。
「形を失った魂では、もう二度と地上のものに触れることは叶いません。貴女がそれらに触れることができないのはそのせいです。先程申し上げた通り、それは地上から拝借したもの」
カリンは自分の首元を飾るペンダントトップの砂時計に手をかけた。
繊細なアラベスク模様が彫られた上下のプレートに、繋ぐ柱には向かい合って咲く百合があしらわれている。
中心を境に、まるで鏡合わせのようなシンメトリーが美しい砂時計だ。
「この砂時計は現世を離れた魂を身体に呼び戻す力を保有しています」
下球に溜まった霊砂が傾きに合わせて、サラサラと軽やかな音色を奏でる。
「そして、霊砂と繋がった御霊を現世へ引き戻すのです」
チェーンから外した砂時計を駆け引きというチェス盤へ切り札して差し出した。
「私のような葬儀師は全ての魂の前に現れる訳ではありません」
「未練ある魂のみ……。だったかしら」
「はい。しかしながら、それは強い未練を持った者に限ります。他の者は地上に降る権利を与えられません」
言うなれば、イングリッドの親族のような者らだったり、降らずとも解消できる未練であれば、地上に降り立つことなくアケローンの船着き場行きだ。わざわざハデスが弾くような事にはならない。
「貴女はまだ戻れる」
カリンは心を砕いた。
「まだ間に合うのです」
交わった眼差しからは険がとれた。
徐ろに立ち上がり本棚を開ける。
手に取ったのは本の裏に隠れた便箋とドライフラワーだった。
「やっぱり何も書かれていないのよね」
イングリッドが手に取った『十三』の彼女宛ての便箋はどれも白紙だった。
吐き出された息には、長年の蓄積した感傷という毒気からの解放を望んでいるようなそんな重みがあった。
彼女の中で『死』というものが徐々に形作られてきている。
「そして、匂いも……感じない。全ては幻影に過ぎないということなのよね」
地上では微かに花の香りを残していたドライフラワーも、『十三』の複製の中では形だけ。
「ここは訪れる御霊の願望が反映される場所ですから」
「願望……」
イングリッドはカリンへ視線を寄越すことなく問う。
「そちらの手紙に目は通していて?」
「いいえ。時系列がバラバラでしたので、日付だけ正させて頂きましたが、内容には一切」
「そう……」
目を伏せた彼女の頬に睫毛の影が落ちる。
「かなり昔の日付のものからあったでしょ」
「はい。とても大切になされているのだなと。手紙もこの花も」
「カリンさん」
「はい」
イングリッドの凛とした声に呼ばれ、背筋が伸びる。
「触れるにはどうすればいいのかしら」
こちらへ振り返った彼女の表情は、不退転の決意を抱いているように見えた。今まで何処かまだ濁ったままだった瞳に、今や見違えるような光を宿している。
カリンは胸に熱い期待が湧き立つのを感じた。
「生前に落し物は御座いませんか?」
それはまるで、北の夜空に揺らめく光のカーテン――極光を映したかのように爛然と輝いていた。
彼女の瞳は世にも美しい碧翠眼だった。
「私の未練は彼に逢いに行くことよ」




