06
「貴女は何を置いてきてしまったのかしらね」
固く閉じていた手を解せば、それに合わせてピンと張り詰めた空気も陽炎のように揺らぎ溶けて消える。
「お邪魔しました」
くるりと振り返り、カリンが最低限のマナーと寝ずの番たちに声をかけた。
固唾を飲んで得体の知れない少女の動向をテーブルの影から窺っていたうちの一人が口を開く。
「お、終わりか?」
何も、カリンは彼らに構うためにここへ降り立った訳ではない。
ここに来たのはイングリッドが置かれていた状況を肌で感じるためだ。その目的は果たされた。
「えぇ」
無駄でしかない会話で体力を消耗する必要性はゼロである。
(でも、終わりなんかじゃない)
終わったのは、イングリッドとの対面であって、溜まったフラストレーションが帳消しになったわけでない。
(今ではないだけよ)
心のうちでそう零すカリンの瞳には静かな炎が宿っていた。
大釜に溜められている冷水がいずれ豪炎に炊かれ、吹きこぼれる瞬間に審判が下されることをまだ誰も知らない。
「では」
足早に広間を後にして、壁かけの蝋燭の最低限の灯りを頼りにオリエンタル調のステアランナーが美しいサーキュラー階段を上る。
向かうのは玄関ではない。
カリンにはもうひとつ訪れたい部屋があった。
「もう……暗いっ!」
等間隔で設置された蜜蝋キャンドルで光源は十分確保されているはずなのに、ずっと視界が制限されている湿り気を帯びた闇が続く洋館の廊下は、三メートル先の床などもう見えやしない。
ただ確かに感じる悪寒にカリンは目を細めた。
「アイツらのせいね」
負のオーラを感じ取った人ならざる気配が溜まっているのが視える。
生者でも死者でもない、そして、カリンのような神の御遣いとも違う、何にも変われなかった地上を漂う虚無。
意思はないが意思がある、もうどうすることも出来ない存在。
ハデスの気を纏うカリンに気がついた途端、カリンの身体を奪おうと蛇が這うように蠢く。
「あなたたちとは違うのよ」
カリンは虚を睨め付け、右手を僅かに下へ引き両手を打ち合わせた。拍手の乾いた音が停滞した空気をふたつに割けば、雨上がりのような澄んだ空気が廊下を晴らす。
「ここね」
両開きの扉のすぐ横の壁にはイングリッド・ヴァンスの金のネーププレートが炯々と輝ていた。ドアノブに手を掛け回そうとするもビクともしない。
「まぁそりゃそうよね」
イングリッドは大富豪だ。そんな彼女の執務室にホイホイと人が出入りできてはいけないだろう。
こういう時、マダム・ダイナの万能鍵が羨ましくなるが、そんなものは手元にないので原始的な方法で鍵穴を攻略するしかない。
カリンは髪からピンをふたつ抜き取り、鍵穴へ沿うようにそれぞれを湾曲させる。
「まさかここで役に立つなんて、ね」
鍵が閉まっているイコール不法侵入なわけで、ピッキングについて力説するヘリオに何処で使うのだと当時は文句を垂れたものだが、習得しておいてよかった。今日はヘリオ様様な日である。
耳を澄ませ、冷たい鉄の奥に潜むパズルのピースを紐解いていく。限りない無音が場を占める中に僅かに伝わる波紋を手繰り寄せ――。
――カチ。
確かに鳴った正解の震音にドアノブを回した。
油の切れた蝶番の叫びがカリンを部屋へ招き入れる。
「あぁ……やっぱり」
視界に飛び込んで来たのは記憶に新しい、エクレクティックな部屋と調度品たちだ。
扉横のスイッチを上げ、シャンデリアに呼吸を与える。
主を失った調度品たちはこの短な間に忘却の灰を被っていた。
「きっと何かあるはず」
深紅のベルベットのカーテンは外界からの干渉を拒むように完璧に光を遮断している。
無意識的な感覚が反映される『十三』で再現されたのだから、何かしら手掛かりがあるのだろうとカリンは考えていた。
「同じ目線に立つのよ」
ウィングバックチェアに深く腰掛け、カリンはイングリッドの見ていた景色を観た。
「あ」
カリンの視線が捉えたそれは『十三』で完全に見落していた特大の手がかりだった。
すっくと立ち上がり、腰を下ろしていた椅子と対角線上にある執務机の背中側、ビューローブックケースに飾られた花へ足早に向かう。
「同じ花だわ」
一輪挿しにひっそりと体を預ける飴色に色を落とした花へガラス越しに触れる。文字通り、冥府の鏡片に映ったものと同じ花だった。
酷い焦燥に駆られた震える手で打掛け錠を外しガラス扉を開ける。吹き込んだ風に呼応するようにふるりと首を揺らす。
「あぁ、ダメダメッ」
水分を限界まで飛ばしドライフラワーと化していたその花は微かな振動さえも脅威となるほどに酷く脆い。
くたりと向きを変えた花の先を漫然と追い、肩を寄せ合う本たちの間に不自然な膨らみを見つけた。
意図的に斜めに置かれているような本を一冊退かす。そこにあったのは、三センチは在ろうかというリボンで纏められた洋紙の束であった。
それは二種類あった。
「……親愛なる、イジー――」
十数枚ある明らかにイングリッドに宛てられた手紙と、もう一種類――イングリッド宛への四倍はある便箋。そちらは白紙だった。
そして、共通するのは、どちらにも差出人は書かれていないということ――。




