04
「――生前に、未練は御座いませんか?」
言葉に落とし込むなら、これがやはり一番しっくりとくる。
「落し物、ですか?」
困惑の表情でイングリッドがまた胸元を搔き撫でた。
その細く震える指が、上質なシルクの生地を虚しくまさぐりシワを刻んでいく。
「はい。イングリッド様が人生という長い道のりの途中で、うっかり置き忘れてきてしまった――」
少しでも気を抜けば吹き飛んでしまうほど薄いちり紙のように弱い心を刺激し過ぎないギリギリを見極める。
「一番大切な、心の欠片のことを指すのですが……」
少しの変化も見逃さまいとイングリッドを見つめる。
「心、の欠片……」
「はい。私はその落し物を探すお手伝いをする――」
一呼吸置いて、努めて落ち着いた声でイングリッドに話し掛ける。
私は貴女の味方だ、と。
その響きが厳寒の部屋の空気をわずかに溶かした。
「冥府の葬儀師、カリンと申します」
行き場を見失った迷い人へカリンが手を差し伸べる。
イングリッドの瞳が、そのハリのある白いその掌へ、そして星屑を散りばめたように輝く淡くとも深い瞳へと順番に移動した。
「冥府、の葬儀屋のカリンさん……」
「はい!」
徐々にだが言葉のキャッチボールが成り立ってきていることに思わず前のめりに応える。
感じた手応えに勢い余って、前進して膝を脛をオットマンにぶつけ微妙に悶絶したのはご愛嬌だ。
「葬儀師と言われれば、馴染み深いのは地上の葬儀屋のことだと思います。違いについて言及をするならば仕事内容についてでしょう。彼ら地上の葬儀屋は『天への花道を整える』ことを生業としていますが、私たち冥府の葬儀師は『未来への道筋を整える』ことを使命としています」
何事も無かったかのようにオットマンに腰掛けて話しを続ける。
じくじくと痛む脛は、明日にはきっと立派な楕円の青タンが浮かび上がっていることだろう。そんな未来予知を頭の片隅で繰り広げながら、カリンは真剣な瞳を淑女へと向けた。
「地上にとても強い想いを置いてきてしまった御魂にはオボルスをお渡しすることが出来ません」
「私には地上に落として来たものがあると……」
「はい。その落し物を私と探していきましょう」
背筋を伸ばし、淀みなく言い切る。
その言葉は確たる覚悟として、燦然の調べを帯び静まり返った部屋に凛と響いた。
「落し物……」
イングリッドのか細い声が空に喰われる。
(これ以上は、彼女にはまだ酷ね)
身体を抜けて魂だけとなった存在は泡沫そのもの。自分と空気の境目があやふやになった時、それは朝陽を浴びた露が土へ還るように音もなく完全に溶け合わさってしまう。
「イングリッド様、今日はお疲れでしょう。ゆっくりお休み下さい」
「えぇ……。ごめんなさいね……」
押すばかりではなく、引くことも時には大事だ。
「では、また来ますね」
退出し張っていた気を解いたカリンの焦る心を写したように壁にかかった蝋燭の朱が揺れる。
「やっぱりサブジェクトは一筋縄ではいかないわね」
サブジェクトは強い未練ゆえに、地上に根を張ってしまうか、塵となって輪廻転生の輪から外れてしまうかどちらかだ。
前者ならまだ救える可能性はある、だが後者なら……。
(時間を無駄にはできないわよ)
カリンは潔く別のアプローチを試みることにした。
黒曜石の岩肌を眺めることができる外廊下は人通りが少ない。静寂が全ての場でカリンのヒールの音がまるで水面に落ちる一滴の雫がウォータークラウンを作るように反響する。
向かうはその先の冥城の端、上から下まで壁を覆い尽くすカルテが並ぶ旧書庫。
「無謀かしら」
カリンは一人、オイルランプの光を頼りにパートナーズデスクに積み上げたカルテの山をひたすらに捌いた。
時間という概念がない場所なので、どうも感覚が鈍る。
クイルペンから垂れた一滴の黒いシミのような弱音が口をついて出た。しかし、机の端では変わらず銀細工の砂時計だけは、まるでカリンの移ろう感情など無関心だと言いたげに悠然としている。
「いいえ、やるのよ」
ランプの芯が小さく爆ぜ、揺らぐ光が、幾千もの背表紙を不気味に浮き上がらせる。そこにあるのは、かつて生を謳歌し、そして等しく還った御魂たちの軌跡だ。
そして、イングリッドのカルテにはまだ書き込まれるべき『最後の一行』が残されている。その余白に、白く細い指先を滑らせた。
「まずは――」
紙を埋め尽くす冥語とばかり向き合っていると、煮詰まり解るものも解らなくなってしまう。
カリンは慈しむように頁の上を歩いていた指を離し、革の表紙を重ね合わせた。
「現地調査と行きましょうか」
向かうは深い霧に包まれた街に在る豪華な邸宅。
そこではまさに今、強欲な親族たちによる宴が幕を開けようとしていた。




