03
「カリンちゃん。待ってたわ」
ハデスの神判を受ける魂たちの前審査を行う特許庁なるものがここには存在する。一から十五の部屋が設けられ、その中でも十三番は、ハデスが事前に弾いた地上に異常な執着を残した魂が通される。
その魂をカリンたちは対象魂と呼んでいた。
「マダム・ダイナ。今宵も良い夜で」
「えぇ、良い夜で」
カリンの挨拶に薄く微笑んだ冥府の王の右腕を務める淑女が漆黒のレースに包まれた指先を顎に添え優雅に応じた。
「十三番にお通ししてあるわ」
ダイナはそこまで言うと一度言葉を切った。
含みのある沈黙が、カリンとヘリオの前に冷たく横たわる。
「――直接カルテを受け取ったからわかっているとは思うけど、王はお急ぎよ。彼女は早いわ」
溶け残った澱を煮詰めたような黒い瞳が弧を描く。カリンの経験上、彼女がその表情を見せる時は難攻不落なサブジェクトな場合が多い。
胸元で抱いていたカルテを今一度強く引き寄せた。
「承知しました。マダム・ダイナ」
昏い廊下の突き当たり『十三』の扉を前にすると、肩に重石を乗せたように異様なほど空気が重く感じる。
いつもながら、カリンはこの空気感に慣れないでいた。
(イングリッドの『十三』は一体どんな感じなのかしら)
部屋へ通されたサブジェクト毎に内装が変化を見せる。いわば幻影に近いのだが、毎度それが強烈なので足が竦む。
「絶対この扉のせいよ」
おどろおどろしい扉がカリンの怖気に拍車をかけているのは間違いないだろう。
カリンは自分を鼓舞するように小さく毒づくと、ヘマタイトの冥府岩からそのまま切り出したような重厚な石扉へ手を伸ばす。
――ゴン
扉と同じくヘマタイトで出来た叩き金を大きく一度だけ鳴らした。
石壁を震わせるほどの重低音がカリンの腹の底へ響き、逃げ場のない石の廊下を波紋のように伝わっていく。
「失礼しますね」
重厚な石扉を押し開けた先は、入り口と似つかわしくないゴシックとロココが入り混じった 折衷様式で仕立てられていた。
そのギャップは激辛の唐辛子を口にしたはずが、なぜか甘いクッキーを食べていた――とでも言おうか。そんな大きな隔たりがある。
(肩の力が抜けるというか、なんというか)
誰か共感してくれないだろうか。と心の中でこっそりと息を吐いたカリンの耳に、寂寥たる呟きが届く。
「わたしは、わた、しは……あぁ、……」
部屋の奥、深い影を落とすウィングバックチェアに、一人の淑女が腰掛けていた。
「イングリッド・ヴァンス様ですね」
カリンの呼び掛けに、俯き顔を覆った女性の肩の震えがぴたりと止まる。ゆらりと上げた顔は憔悴しきっており、瞳の奥には光が届くことのない深海に在る軟泥が沈殿しているようだった。
「ぁ……」
乾燥した枯葉が床を擦るような掠れた声は、彼女がどれ程の長い間、途方もない長い夜道を歩いてきたかを物語っている。
(見下ろすのは、駄目よね)
警戒心の強い小動物を驚かさぬように、威圧感を抑えるため滑るようにイングリッドの前へ膝を着いた。
「あ……なた、は……」
「はい」
それまで向けられていたイングリッドの視線が自分から逸れたと思うと、彼女は自分の居場所を確認するようにキョロキョロと首を回す。
意識が自分から逸れたからといって、急かしはしない。
彼女の葬儀師としての矜持だ。
決して先を急がずサブジェクトのペースは乱さない。
「ここ、は……」
彼女の様子からして、どうやら今初めて自分がいる場所を認識したようだった。
その細く骨張った指をチェアに滑らせた後、イングリッドの視線がカリンに帰る。
「し、にがみ?」
「死神」
思わぬ質問に、イングリッドの言葉をそのまま繰り返してしまった。
「あぁ……。わたしは、とうとう――」
どこか遠いところを見つめるイングリッドは、波打ち際で弾ける泡のようにあまりに脆く、簡単に砂に溶けてしまうような淡さを纏っていた。
(あの枯れた花は比喩だった?)
カリンは葬儀師としてはまだまだひよっこである。魂の数だけ未練はあるのだ。十人十色なそれを見抜くには、経験値が圧倒的に足りていなかった。
(でもそれじゃあ、あの手の存在が余計に意味不明だわ……)
といっても、五十年は下らないが。
「残念ながら(?)、私は死神ではありませんね」
彼女の意識をこちら側へ引き戻し、自分自身の拍子抜けた調子にも喝を入れる。
「……違うのですか? では、私は――」
所在無さげに胸元をぐしゃりと鷲掴むように撫でるその仕草にカリンは引っ掛かりを覚えたが、後に続いたイングリッドの言葉にその考えはすぐに霧散した。
「私は、死にきれなかったの……?」
「いえ。間違っていませんが、違ってもいます」
「じゃあ……?」
なぜ、と小さく続けた彼女の疑問は最もである。
とても哲学的な言い回しになってしまい、どうしたものかとカリンも頭を捻る。
あえて、言葉にするのなら――。
「――生前に、未練は御座いませんか?」




